第三章





08、何が真実の権威であり、公なのか

 こんばんは。
 昨日から続けてのお話しをしていきたいんです。今回は、念仏者が世間の中で生活をしていく時にどうしても避けて通れない問題として「神明−神道」の問題、「触穢──習俗」の問題、「王法──政治」の問題、「死後──霊」の問題−これは日本人にとっては文化そのものという「霊」の問題等があります。そういった事を見ながら仏事の問題を見て、浄土真宗に縁のある我々がどういう仏事を勤めていく事ができるのかを見極めたいのです。その事によって浄土真宗を公にしていく事にもなるわけですから。その仏事が浄土真宗に背く形で行われておれば、その事自体が浄土真宗を曖昧にしていくことになります。浄土真宗が一番問われる現場が仏事の現場という事です。我々にしてみれば抜き差し成らないと言いますか、聞法会で親鸞聖人の教えを語り合うという事はあっても、仏事という場で浄土真宗の仏事が勤められておるのかということです。もしそれが浄土真宗の教えと異なっていくようになれば、せっかく聞法の場で親鸞聖人の教えを顕らかにしても、矛盾してしまいます。そういう事であれば、却って不信感が強くなってしまいはしないかということです。そういう意味で非常に厳しい問題が、仏事問題にはあるという事です。昨夜は少し時間も限られておりましたから、問題が残ったかもしれませんが、その事を今日、「神明」の問題、「触穢」の問題、「王法」の問題という、こういった問題を見る中で、浄土真宗に於ける仏事そのものを顕らかにしていく事ができたらと思うています。
 それで、いきなりですが「神明(神道)・触穢(習俗)・王法(国家・政治)」の問題です。こういう問題に対して、念仏者はどういうふうに対応していくのか。実はそれ等との関係の中で、逆に浄土真宗をより具体的に示していくという、そういう縁にもなるわけです。
 この「神明・触穢・王法」の問題なんですが、これは親鸞聖人当時から法難という、法難を念仏者は常に受けておるわけです。その法難を受ける根本に「神明・触穢・王法」の問題があるわけです。特に親鸞聖人も法然上人と共に体験された「承元の法難」、また「嘉禄の法難」、また晩年に親鸞聖人に縁のある関東の弟子達が体験した「建長の法難」です。そういう法難が何故起きたのか、何故念仏者は法難を受ける事になるのかという問題に、「神明・触穢・王法」の問題が直接関係してくるわけです。それは、「建長の法難」、これは晩年なんです。また「承元の法難」、これは親鸞聖人が直接体験されるわけです。この「建長の法難」とか「承元の法難」は、「承元の法難」の時は興福寺が朝廷へ念仏者の過失を一つ一つ具体的に示して九失ですが、それを朝廷に訴えています 。この「建長の法難」は比叡山です。叡山が念仏者の過失を六失取り上げて訴えて出たと 。それが一つ大きなきっかけになって法難が起きるわけです。唯なんとなく法難ではなしに、法難という時には念仏者の過失が告発されて、法難だという事です。しかもそれは、当時の仏教界の中心になる比叡山であるとか興福寺からの批判です。だから仏教界の誰かが非難したんではなしに、仏教界の中心である比叡山とか興福寺が念仏者の過失を非難したんです。朝廷に訴えたという事ですね。
 どういった事がそこで問題になっているかと言うと、殆ど共通しているんですけれども、一つは法然上人が本願他力念仏宗を興行しておられるけれども、これは「公」になっていないと。これは大問題です。今でもそうなんです。江戸時代でもそうなんですけれども、日本に於いては何が公なのかという問題があるわけです。念仏宗を興行しておると、それは公になっていない。つまり、新しい宗を立てておるけれども、それは公ではないと。だから「新宗を立つる失」と、こういう非難です。比叡山でも同じ事を言うておるわけです。これは何が公なのかという問題です。今でも同じです。これは本当にぎりぎりのところで問題になる事です。何が公なのか。その時は必ず「勅許」だと。この勅許というのは天皇が許可するという事です。天皇が許可して、それを「公家処分」する。公家処分というのは、国家が認める。だから、天皇が許可したものを国家の名において認めていくということが公だというわけです。それが、法然上人は本願他力念仏宗を興行しておるけれども、それは公になっていないと。全くこれは「私」だという事で朝廷に申し出ているわけです。
 それと同時に、勅許とか公家処分がどこで公だと言えるのかという根拠です。何故、勅許が公なのかというそのの根拠です。ここに「神明」問題が出てくるわけです。「興福寺奏状」では「霊神に背く失」と。「比叡山奏状」では「向背神明」と、「神明に向背する不当の事」と。この「霊神に背く」とか「向背神明」という事は、一つの権威の問題なんです。勅許であるとか公家処分が公だという時に、どうしてそう言えるのかというと、その根拠が「霊神」であるとか「神明」に関わるからです。それが権威に関わる問題なんです。その権威に関わる問題を念仏者は否定しているという事なんです。権威に関わる問題を否定しているから、当然その公という事を無視しておるんだという事になるわけですね。だから公を無視するという事は、一番根本の権威を否定しているんだという問題として批判しているんです。そしてこの「比叡山奏状」というのは、非常にそこのところをはっきりしています。それは、
吾が朝は神国なり。神道を敬うを国の勤めと為す(「比叡山奏状」)
と、こういう事をはっきりと言い切っているわけです。日本の国は神国である、神道を敬うのは日本の国に身を置く者にすれば勤めだと。それを念仏者は、本願にことを寄せてそれを敬わないと。そういう批判なんです。更に念仏者は「触穢」というものを無視して、神社を行ったり来たりしていると。こういう事を「神明に向背」すると言うて、大きな過失だと言うて非難しているんです。  つまり勅許が公だという事は、天皇が絶対的な権威だということです。それは何故かと言うと、日本の国は神国であると。その天皇というのは昨日も言いましたように、皇祖神である天照大神、日本民族の全ての先祖である皇祖神・天照大神です。これが「霊神」になるわけですね。その天照大神を敬わないと。そういう大きな過失があるという事でですね訴えておるわけです。それは、何が公なのか、何が真実の権威なのかという、こういう問題なんです。
 これは江戸時代でも、昨日も言いましたが、幕藩体制の中で檀家制度というものが政治的に定められてくるわけです。その時に寺というのは、本願寺で得度すれば本願寺の僧なんです。本願寺で御本尊を下付してもらい、寺号を下付してもらえば、本願寺の末寺になるわけです。それで寺として僧として世間で認められておるのかというと、そうではないわけです。それは藩で認める。もっと言えば国家で認める。そういう事がないと、正式な僧でもなければ正式な寺でもないんだと。こういう正式な僧でもなければ正式な寺でもないと、こういう時には「毛坊主」と言うわけです。「道場」です。道場というのは、これは正式な寺ではないと。正式な僧ではないというのは、これは毛坊主です。だからあくまで国家が認めていなければ正式な寺ではない、国家が認めていなければ正式な僧ではない。だから寺請という事自体が出来ないわけです。だから正式に檀家を持つ事は出来ないわけです。寺請というのは、寺が檀家を請け取るわけです。その時の寺というのは、正式に国家が認めた寺という事です。だから正式に国家が認めた寺であれば、檀家を持つわけです。だから過去帳というても、そういう寺に限ってはあるわけです。そうでない場合は寺でもなければ、そういう檀家を預かるという事もできないから過去帳もないわけです。だからこの赤野井別院は、そういう意味では正式な寺になっていたんだと思うんです。そうすると道場は、その寺に所属する道場です。沢山があるわけです。その道場が、寺の管轄の中の檀家に対して世話をしていくわけです。けれども、だいたい寛文期になるとそういう幕藩体制というものが弱くなりますから、道場が寺に成っていくわけです。江戸期の中期から道場が寺になるわけです。例えば、皆さんの縁のある寺でも、余間に御絵像の御本尊がお給仕されていて、木像の阿弥陀如来が中心に据えてあると。その余間の御本尊は道場時代の御本尊なんです。そういう道場時代の御本尊というのは、地方に行きますと、寺ではなしに檀家の所でお給仕されている場合があります。お葬式だというと檀家の所でお給仕されている御本尊を迎えてきて、臨終の枕元に掛けるという、そういう事が行われているんです。これは「無常仏」なんです。その無常仏の事を「惣仏」とも言うんです。ひょっとしたらここら辺りでも、そう言われているかもしれません。惣門徒、門徒全体がお給仕している仏と、そういう仏なんです。無常仏と言われたり、臨終仏と言われたりするわけです。ムジョウブツとはどんな字かなというと、無上仏ではなしに、無常仏なんです。道場時代の御本尊です。蓮如上人の場合は割合後になって六字名号という事がありますが、早い時期は多く御絵像の御本尊が下付されたと。非常に美しいんです。私も初めてこの赤野井別院に来た時に、この御本尊が非常に美しいので感動した事があるんです。やはり、御絵像の阿弥陀如来というのは非常に美しいものです。浄土真宗では、常来迎という事ですから、常に我が前に現前される阿弥陀如来という事でもあるし、また臨終に現れる阿弥陀如来でもあります。私は生まれは関西の方ですけれども、よくお葬式の後で、門徒の方がお礼に来られるわけです。私は父がお葬式に出たから、お礼に来ておられるのかと思うたらそうではないんです。阿弥陀如来にお礼に来て来られるわけです。何故かと言うと、阿弥陀如来が亡くなった者を浄土に引接して下さったという事で、御本尊にお礼に参っておられるんです。そういうのは案外未だに続いている所もあると思うんです。


『興福寺奏状』
 「興福寺僧網大法師等、誠惶誠恐謹言。
   殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙  門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその  過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。
  九ヶ条の失の事
  第一 新宗を立つる失
  第二 新像を図する失
  第三 釋尊を軽んずる失
  第四 不善を妨ぐる失
  第五 霊神に背く失
  第六 浄土に暗き失
  第七 念仏を誤る失
  第八 釋衆を損ずる失
  第九 国土を乱る失」

『延暦寺(比叡山)奏状』
 「延暦寺三千大衆・法師等、誠惶誠恐謹言。
  天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状
  一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事
  一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事
  一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事
  一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事
  一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事
  一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事」





09、和国──本願史観と神国──皇国史観の差異

 そういう寺というても、国家が認めた寺は正式であるし、僧侶でも国家が認めて正式だと。そうでない限りこれは毛坊主だと。親鸞聖人当時でも、承元の法難の時に、
僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。 (『聖典』P398)
というふうに言われているでしょう。「後序」の所に、親鸞聖人自身がしっかりとその事を記しておられます。この「僧儀を改めて姓名を賜うて」のその姓名が俗名になっているんです。これは、日本の律令体制の中で、僧という事が正式に決まった時は、俗ではないという事です。俗ではない僧だと。それが問題があるという事で還俗という事です。還俗というのは、もう僧ではないんだ、俗へ戻すんだという事です。だから日本の身分制度の一番基礎になっているのが、これは僧か俗かという事です。身分制度というのは、日本の社会の中での「社会的身体」という事です。その身分制度の一番基は、僧であるのか俗であるのか、こういうように身分を分けるわけです。政治によって、一つの社会的身体を決めていくわけです。僧というのは無縁という事なんです。無縁というのは世間との縁が切れたという事ですね。だから戸籍が抹消されたという事なんで。だから、俗について細身分化するわけです。これが江戸時代になりますと、非常に身分制度が厳しくなります。士農工商、更に穢多・非人という非常に酷い形の身分制度をそこに設けたという事です。
 ですからこういう僧とか俗とか言うても、政治によって作られた一つの身分だという事です。そういう政治によって作られた身分というものを、認めていく時の手続きが勅許であったり公家処分なんです。だから、問題があるという事でこの僧を消して元の俗へ戻したと。そうすると親鸞聖人はそれをきっかけにして、最終的に親鸞聖人の名告りは、「和朝非僧非俗愚禿釋親鸞」です。これが親鸞聖人のフルネームなんです。これは特別な意味があるわけです。この「和朝」です。これは最晩年に親鸞聖人が自分を名告られるのに「和朝愚禿釋親鸞」と、こういうふうに言われるわけです。これは『尊号真像銘文』の一ヶ所だけ出てくるんです。親鸞聖人の晩年、道場に親鸞聖人の御絵像を安置して、上と下に讃文として『正信偈』が記してあったと。その『正信偈』について、田舎の人達に分かり易く解説しておられる文ですね。そこに
和朝愚禿釋の親鸞が「正信偈」の文(『聖典』P530)
と出てくるでしょう。これははっきりと、「神国」ではないと言っておれるんです。だからこの「和朝」というのは、「和国の朝家」だと。親鸞聖人は聖徳太子を非常に尊敬されるわけです。それは何も親鸞聖人個人の問題ではなしに、念仏に縁を持つ多くの門徒の人達は、聖徳太子を非常に尊敬しておるわけです。その聖徳太子は「和国の教主聖徳皇」です。この「和国」というのは、本願念仏の仏法に帰依された聖徳太子が、その仏法によって一つの国を作り出されたんだと。だからその「和国」というのは浄土を映し出しておるんだと。浄土ではないんだけれども、その浄土を映し出しておる国がそこに具体化しておるんだと。それを「和国の朝家」と。しかも『正信偈』というのは、
如来所以興出世 唯説弥陀本願海(『教行信証』行巻『聖典』P204)
です。三国七高僧でしょう。三国七高僧というのは、インド・中国・日本です。そこでは一つの国家問題とか民族問題を抱えております。国家問題とか民族問題を抱えておるんだけれども、そこには「唯説弥陀本願海」です。だから、如来の本願真実と、浄土真実と、そういう事を身を持って示された、そういう三国七高僧なんだと。ですから、最後は、
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(『聖典』P208)
です。「唯斯の高僧の説を信ずべし」と。この『正信偈』というのは、阿弥陀如来の本願が真実であり、浄土が真実である事を証明してきた一つの歴史なんです。それを示しておるのが『正信偈』です。そして、日本の国は聖徳太子から始まるんだという意味で「和国の教主聖徳皇」と。だからこの「和朝」というのは、単に日本の国を「和朝」と言うておるのではない。阿弥陀如の本願を本当に身を持って具体化された、そういう聖徳太子によって願われもし、具体的に示された、その「和国の朝家」の親鸞なんだという事です。
 この「非僧非俗」というのは、今言いましたような世間の中で言う僧とか俗とかは、これは身分なんです。しかも、僧でもない俗でもないと。これはどういう事かと言うと「凡夫」ということです。一人の凡夫として本願によって救われたんだと。だから凡夫ではあるけれども、単なる凡夫ではないと。阿弥陀の本願というものに帰依するが故に本願を生きた。本願を証明した。そういう仏弟子、愚禿釋親鸞なんだと。この僧というのは身分なんです、日本では。それを親鸞聖人は破ったわけです。承元の法難をきかっけにしてです。この僧というのは身分としての僧なのか。いやそうではないんだと。本当の僧は「釋」だという事です。これは自覚です。だから「自覚的身体」です。社会的身体ではなしに自覚的身体を表すんです。一人の凡夫として本願に帰し、その本願をいのちとして生きる仏弟子であると。そういう事を名告り切っているのが「和朝非僧非俗愚禿釋親鸞」という事なんです。承元の法難の時に、「僧儀を改めて」という事を通して「釋」を名告られたんです。だから浄土真宗に限って「釋」の伝統があるんです。門徒の人であっても住職であっても、僧とか俗とは社会的にあるんだけれども根本は一緒です。「非僧非俗愚禿釋○○」です。フルネームで言えば「和朝非僧非愚禿釋○○」。そういう意味を聖人は獲得しておられるんです。
 江戸時代でもそういう事があったわけです。現在でもそうです。現在は宗教法人法でしょう。宗教法人法によって国家が認めていると。そういう事の中で寺というのが存在するわけです。しかし、単に宗教法人法の枠の中で全てなのかと言うと、やはり依然として「釋」の伝統がある。やっぱり仏弟子として名告っていくという伝統があります。今は門徒の人はみんな帰敬式を受けてという事が新しい「宗憲」 で願われています。それは「唯可信斯高僧説」という事です。新しく本願に生きる者として一人一人が選んでいくということです。ここに「本願史観」があるわけです。しかし、親鸞聖人が承元の法難に遭われたり、門徒の人が建長の法難に遭われたりする時は、勅許だとか公家処分という事を以て初めて公という事です。だからこれは「皇国史観」ですね。親鸞聖人当時から既に皇国史観です。天皇の国なんだ、それが一つの公なんだと。だから天皇が勅許する事が公なんだと。その天皇が何故権威を持つのかというと、それは皇祖神・天照大神というものを先祖に持って司祭しておるという事ですから。これこそが皇国史観です。皇国史観と本願史観が、言えば、まともにぶつかったのが承元の法難だとか建長の法難とかです。それ以後、念仏者が法難を受けるとか迫害を受けるとかという時は、そういう問題があるんです。だから法難が無いという事は、これは逆に言えば取り込まれたという事です。法難が無いという事は、完全に本願史観に生きる者という証明が曖昧になっているという事になってしまうわけです。
 そういう親鸞聖人の承元の法難の時、又は建長の法難の時にあったのは、興福寺なり比叡山が何が公なのかと、何が真実の権威なのかという問い掛けです。そういう中で、やはり本願真実、浄土真実と、阿弥陀如来の本願こそが、何時の何処の誰に於いても仰がれていくべき、帰依されていくべき真実だという事をはっきりと証明しながら、法難をむしろ浄土真宗を興隆させるチャンスにされたんです。だから、承元の法難のところで、
真宗興隆の太祖源空法師『聖典』P398)
と、法難の真っ直中ですね「真宗興隆」という言葉が親鸞聖人によって言い切られています。  そういう問題があります。


『宗憲』第二節第八十二条二項
 「すべて門徒は、帰敬式を受け、宗門及び寺院、教会の護持興隆に努めなければならない」





10、門徒にとっての聖徳太子

 それで先程も親鸞聖人自身が「和朝」と言われた時には、「和国の朝家」ということで、根本は聖徳太子に深く関係するという事だったんですが。これは門徒の寺の余間には必ず聖徳太子の御絵像をお給仕しているわけです。しかもその聖徳太子の御絵像には銘文が記してあるわけです。別院はこの銘文が消してあります。本願寺も消してあるわけですね。消しておるという事は問題があるからということです。この銘文というのは聖徳太子の魂です。聖徳太子の一つの精神です。聖徳太子の御絵像に銘文を記して、お給仕してきておる伝統があるわけです。聖徳太子が、袈裟を着けて柄香炉を持られている、そういう御絵像です。これは「孝養の像」と言われるんですけれども、これは守屋誅伐の、守屋降伏の像というふうにもいわれているわけです。それは物部守屋を討ち滅ぼしたという、その時の像だと、その時の姿を表しているんだと言われているわけです。そして、時々見かけるんですけれども、この銘文が、これは親鸞聖人自身が関心を持っておられるわけですけれども、こういう銘文が記してあるんです。皆さんの寺の余間の聖徳太子の銘文を確かめられたらいいと思うんです。どういう銘文が記してあるか。こういう銘文がひょっとして記してあるかもしれないと思うんですけれども。それは、
吾、利生の為、彼の衝山を出て、この日域に入る。守屋の邪見を降伏して、ついに仏法の威徳を顕せり。
こういう銘文が記してあるんです。非常に古い銘文です。これは、親鸞聖人には、聖徳太子の関係の「和讃」が百十四首和讃とか七十五首和讃とかがあります。普通私達が親しんでおるのは『正像末和讃』の中にある『皇太子聖徳奉讃』の十一首です。その七十五首和讃、これは建長七年に親鸞聖人が詠まれている比較的早い時期の聖徳太子の「和讃」です。そこに、
仏法興隆せしめつゝ
 有情利益のためにとて
 かの衝山よりいでゞ
 かの日域にいりたふ
守屋の邪見を降伏して
 仏法の威徳をあらわせり
 いまに教法ひろまりて
 安養の往生さかりなり(『皇太子聖徳奉讃』『聖教全書二』宗祖部P539)
こういう「和讃」があるんです。この銘文を和讃化しておられるんです。つまり、中国の天台山の恵思禅師という、非常に破邪顕正ということを盛んにされた禅師なんです。その恵思禅師が、衆生を利益する為に中国の衝山、天台山から出て、この日域に現れられ聖徳太子になられたと。輪廻転生みたいな事なんですけれども、それはそういう事ではなしに、本当に本願というものを尊ぶ心と言いますか、本願を尊崇する心が恵思禅師にも現れ、聖徳太子にも現れてという意味なんです。守屋というのは物部守屋です。これは神道ですね。神道というものを奉じている中心にあるのが物部守屋なんです。その物部守屋を降伏して、仏法を日本の国に顕らかにされたという「和讃」なんです。こういう銘文が、聖徳太子の御絵像の銘文として、ずっと今日までお給仕されてきておるという事です。
 江戸時代というのは、林羅山とか多くの儒学者達はみんな物部姓を名告るわけです。だから物部姓を名告った儒学者達が世間を押さえておるんです。神国というものが復活している時代なんです。だから寺請制度というても、それは神国ということを前提にしてキリシタンを禁制したわけです。そういう時代の中にあっても、門徒の寺では聖徳太子がお給仕されておったという事です。「和国の教主聖徳皇」だと。これは凄いと思うんです。「和国の教主聖徳皇」と、そういう事を憶念して、念仏を相続したのが門徒の人達です。住職さんは下ろしたいんだけれども、門徒の人が聖徳太子というものを通して、浄土を映し出すようなそういう国を願っておられたんです。それが聖徳太子の問題です。そのことが、親鸞聖人を見ていく時に曖昧にできないわけです。それは神国に選んで和国という事なんです。




11、 念仏者としての後鳥羽上皇

 しかも、昨日もちょっと言いましたけれども、後鳥羽上皇の問題です。後鳥羽上皇は安楽房を斬首したわけです。首をはねて殺したわけです。そして吉水の教団を潰して、法然上人は四国、親鸞聖人は越後へそれぞれに流罪した人です。この後鳥羽上皇に対して安楽房が念仏相続しているわけです。これは、『阿弥陀経』を善導大師が読んでおられるのが『法事讃』です。その『法事讃』の一番最後です。それは『阿弥陀経』の流通分といわれ、念仏を相続する部分を読まれているんです 。そこは法然上人が『選択集』で「慇懃念仏付属章」 として非常に大事にしておらます。そういう『法事讃』の念仏相続の所の文を後鳥羽上皇に向かって、「本願を謗る、念仏を謗るような者は永遠に地獄に沈むんことになるから、どうか回心懺悔して念仏者に成って欲しい」と言われるわけです 。そういう念仏相続をして殺されていくわけです。建永二年の二月九日です。これは安楽房の命日なんです。その命日に必ず聖徳太子が親鸞聖人の夢に現れるとか、門徒の人達の夢に現れておられるわけです。安楽房の命日に聖徳太子が現れておられる。それは聖人や門徒の人達が、やはり和国というものを願われていたと思うんです。聖徳太子を思い起こすというのは、やはり和国を願われていたと思うんです。
 事実、この後鳥羽上皇は「承久の乱」で、関東の武士と戦争をして破れて隠岐島に流されるんです。その事を親鸞聖人はちゃんとお手紙の中にも記しておられます。後鳥羽上皇に親鸞聖人は関心を持っておられるわけです。これは性信房に宛てた手紙ですけれども、これは初めから終いまで読む必要のある非常に大事な手紙なんですけれども、
さればとて、念仏をとどめられそうらいしが、世にくせごとのおこりそうらいしかば、 (『御消息集(広本)』七『聖典』P568)
ということです。この「世にくせごと」というのは承久の乱の事を言うておられるわけです。「念仏をとどめられそうらいしが」というのが、後鳥羽上皇が念仏者を斬首したり流罪にしたり念仏を禁止したりしたと。そういう事があって、念仏者を弾圧するとか念仏を禁止するとかいうのは謗法という事です。だから大きな「くせごと」が起きたんです。それは、承久の乱のような大きな戦争が起こって国家がひっくり返ったと。天皇が隠岐に流されるという事ですから、これは大変な事件だと。その後、「それにつけても」と、だからこそなんだとして、
それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう。(同上)
と。どうか人々に念仏を伝えて、本当に日本の国に、世間に念仏者が満ち溢れ、和国というものが実現するようにと。そういう事を性信房に激励しておられる手紙なんです。その後すぐに、
朝家の御ため国民のために、(同上)
と続いているんです。この「朝家」というのをずっと読み間違えていたんです。これは、和国の朝ではなしに神国として思い込んできたんです。神国としての朝家と読み間違えたんです。慰霊祭なんかの時に、必ず小名号と、釋闡如という名で『御消息』が出ています。その時に、一緒に出ている小名号の両脇に「朝家の御ため国民のため」「念仏もうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし」と割って書いてあります。そういう小名号が結構あるんです。私も実際に実物を見た事があるんです。その時の「朝家」というのは、これは神国の「朝家」です。ここで親鸞聖人が言われるのは「和国の朝家」なんです。一番親鸞聖人において和国という事が問題になって、本当にそれが成熟していく時の手紙なんです。そういう当時の神国を、やはり和国として、聖徳太子を尊崇しながら、道場の余間に聖徳太子を安置してお給仕したと。これは、和国なんだと、聖徳太子から始まっておる和国なんだということですね。そういう心をやはり真宗教団の初期の頃は非常に大事にしたんです。
 後鳥羽上皇は、承久の乱の時に隠岐に流されて、最後は隠岐で死なれるんです。けれども、その時に『無常講式』 というものを残しておられるんです。この『無常講式』とは何かと言うと、後鳥羽上皇が念仏者に成られたことの証明です。後鳥羽上皇は最後は念仏者に成って命終わっておられるんです。この『無常講式』が、そのまま『白骨の御文』になっておるんです。蓮如上人はどうして『白骨の御文』を作られたかと、存覚上人が『無常講式』を紹介しておられるから、それを基本にして『白骨の御文』を作られたのでしょう。蓮如上人も法難問題には非常に深い関心を持っておられますから、後鳥羽上皇の『無常講式』そのものを手に取って見られて、『白骨の御文』を作成されたのではとも思うんです。『白骨の御文』のここの所は『無常講式』がそのまま「御文」になっておる所なんです。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、(五帖目十六通『聖典』P842)
その後、
おおよそはかなきものは、この世の始中終、(同上)
とありますけれども、『無常講式』では、
おおよそはかなきものは、人の始中終、幻の如くなる一期に過ぎる程なり。
となり、その後『白骨の御文』は、
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。(同上)
と。これは後鳥羽上皇の『無常講式』がそのままコピーされておるわけです。『無常講式』では、最後に後鳥羽上皇は、
憑みてもなお憑むべきは、弥陀誓願の助け也
という事をはっきり言っておられるわけです。後鳥羽上皇は念仏者の首をはねられたんだけれども、安楽房は首をはねられてでも念仏を相続したと。そういった事が後鳥羽上皇をして念仏者に生まれ変わらせたと。そういった事が事実としてあるんです。蓮如上人をはじめ蓮如上人当時の門徒の人も、知っておられたんじゃないかと思うんです。弥陀の本願は、何時の何処の誰にでも、本願真実という事は伝わっていくんだと。本願真実という事は、何時の何処の誰でも必ず分かっていくんだと。そういう絶対的な信頼です。そういうものを持って、難しい状況の中でも、如来の本願を信じ、そして全ての人が本願に頷いていく事があるんだという事を信じ念仏を相続したということです。そういう歴史が浄土真宗の歴史です。
 そういうことが余間に聖徳太子の御絵像を安置し給仕したということです。いろんな種類の言葉が記してありますけれども、一番根本は今の「守屋の邪見を降伏して」という事です。そこに国家観というものを親鸞聖人は持っておられたんです。そういう国家観というのは非常に素朴ですけれども、一つの原点です。真宗門徒にとっての国家観の原点みたいなものが、和国という事であったんじゃないかと思います。そういう法難を通しながら、念仏を公にしていった、そういう歩みがあるんだという事です。


『法事讃』、『聖教全書一』三経七祖部P605
「五濁増の時は多く疑謗し、道俗あい嫌いて聞くことを用いず。修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競いて怨を生 ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べから ず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ。」

『選択本願念仏集』慇懃念仏付属章、『聖教全書一』三経七祖部P988

『勅修吉水円光大師御伝』/藤原定家『名月記』

『無常講式』、南条文雄「無常講式並びに存覚法語とお文」『無尽燈』二四号より 「世をこぞって蜉蝣の如し。朝に死し、夕べに死し、別れるものの幾許ぞや。或いは、昨日已に埋みて、墓の下に涙を拭う者、或い は今夜に送らんと欲して、棺前に別れを泣く人。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一期の過ぎる程なり。三界無常な り。古より未だ万歳の人身あることを聞かず。一生過ぎやすし。今にいたって、たれか百年の形態を保つべきや。実に我や前、人や 前、今日とも知らず、明日とも知らず、後れ先だつ人、本の滴、末の露よりも繁し。原野を指して、独り逝地と為す。墳墓を築き、 永く栖み家と為す。焼きて灰となり、埋みて土となる。人の成 りゆく終わりのすがたなり。」
『存覚法語』、『聖教全書三』歴代部P360




12、 神国・神道・神事の問題

 それで「比叡山奏状」でも「興福寺奏状」でも「神国・神道・神事」が問題になっています。神道というのは先祖を祀る事ですし、神事というのは触穢の問題、穢を忌むという事です。その一番根本は、天照大神自身に出生の秘密があるわけです。それは、『古事記』でも『日本書紀』でも出てきますけれども、伊邪那岐と伊邪那美に関わることです。女神の伊邪那美が亡くなったと。その為、男神の伊邪那岐が寂しいという事で黄泉の国に行ったと。そうすると、伊邪那美は見るなという事ですが、伊邪那岐は見てしまった。伊邪那美に蛆が涌いていたという事です。見てはならないものを見てしまったという事で、伊邪那岐は逃げて帰って、顔を洗い身体を洗っています。その時、左の目を洗った時に生まれたのが天照大神という事です。これが出生の秘密なんです。右の目を洗った時は月読神です。鼻を洗った時には須佐之男命です。そういう意味で神というのは出生の秘密があるんです。死を穢れとして忌むという根本はそこにあるんです。そういう意味では死を除けるわけです。死というものを近づけないんです。だから今でも誰か身内の死者ができると神棚に白い紙を貼るでしょう。これは一番の禁忌なんです。神に対して死を見せるという事は、必ず神を怒らせるという事です。だから共同体の中で、それをしてはならない禁忌としておるわけです。だから神社に参る時でも、身内に死者が出て、まだ忌が明けていないのに一緒に参ってきたら、来てはいけないんだと、門徒の人でも言われるとことを私は聞いたんです。私が親しくしている住職が、門徒の人が市会議員になったと。その選挙の時に用があるというので、選挙事務所に行ったというんです。住職が行ったら、そこにいたのは殆ど門徒の人達なんですけれども、目の色が変わったというんです。どうも様子が変だなということで、選挙事務所を出た時に、住職は来てはならん所に来たんだと、昨日神主さんを呼んで事務所開きをしたばっかりだと、もし選挙に落選したら全部あんたの責任だ、と言われたというんです。門徒の人の中にもあるわけです。
 神さん信仰というのは禁忌が中心になるんです。禁忌というのは「しるしをつける」という意味なんです。仲間という事なんです。してはならない事をしない事によって仲間になるんです。ですから、その禁忌を破ったら、これは完全に仲間ではないという事になるんです。私は貴方達の仲間ではないんだという事で、自分の方から仲間を出たという事で、潰されるという事です。神道の場合は、恐ろしいのは「共同体信仰」なんです。神道は共同体信仰なんです。私は神さんを信じておるとか回心をしたとかそんな事は無いんです。つまり、仲間になるかならないかという事で、神さんという事になるわけです。だから、断ったら完全に仲間から外され、その共同体の中では生活権を奪われると、生存権を奪われるとかです。そこまでいくのが共同体信仰としての神道の持っておる問題なんです。
 そういう中でもね、親鸞聖人は聖徳太子の「和讃」の中に、
うえ人しにてそののちに
 むらさきの御衣をとりよせて
 もとのごとくに皇太子
 著服してぞおはします(『聖徳太子奉讃』九五『聖教全書四』拾遺部下P39)
と、こういう「和讃」を残されているわけです。片岳山で行き倒れている人がいると。その人に声を掛けて食を与えて、紫の衣も与えたと。しかし、その飢え人が亡くなってしまったと。その時に、飢え人に与えた衣を取り寄せて、もとの如くに皇太子が着られたという「和讃」なんです。これは触穢でしょう。自分の与えた衣だけれども、与えた者が死んでしまえば死に触れたという事です。これは触穢です。それを全然問題にしないで着られたという事です。本願というのは善悪浄穢を選ばないんです。善悪浄穢を選ぶ事によって非常に閉鎖していくわけです。関係が閉鎖していくわけです。だから本願によって、選ばないんだという、そういう形で解放され、自由無碍に出会っていくわけです。だから、そういう意味でこの善悪浄穢を選ばない伝統です。これは親鸞聖人御自身の「和讃」なんです。聖徳太子は、自分の与えた衣だけれども与えた者が死んだと、しかしそれを自ら着られたと。こういう「和讃」を以て、本願に依って生きるという事と神道に依って生きる事の差異をはっきりとさせられたんです。  こういった事は、蓮如上人の頃にはとても言い切れないという事で、いろんな「おきて」が出てきます。一帖目九通の「御文」 がありますけれども、ここでは世間に出たら世間が物忌みされる時はそれに従わなければならないという「御文」です。それだけ社会の中での生活が厳しくなったという事があったからです。
 そういう、「神国・神道・神事」という中で、本願に依る生活というものを「和国・仏道・仏事」というふうにはっきりと示して、浄土真宗というものを普遍化されたという、そのことが始めにあるんだという事です。それは色々言われる事はあっても、やっぱり始めにこういう事があるんだと。それは「神国・神道・神事」にはっきりと差異を立てて、「和国・仏道・仏事」なんだと。  しかし、「神国・神道・神事」と「和国・仏道・仏事」が一つになっていくんです。これを一つにしたのが存覚上人なんです。「和国−神国・仏道−神道・神事−仏事」と、これを一体化してしまっているんです。これが存覚上人の『諸神本懐集』です。この『諸神本懐集』というもので、「和国──神国・仏道──神道・神事──仏事」、これを一つにしてしまった。この伝統が蓮如上人の「御文」なんかに非常に強く生きておるんです。親鸞聖人の神道観と、存覚上人以後の神道観がですね変わってきておるんです。こういう事が現在も尾を引いておるのではないかと思います。
 ちょっと時間が伸びて申し訳ありませんがここで休憩にします。


『御文』一帖目九通、『聖典』P689
「それ、当流におきてをまもるというは、わが流につたうるところの義をしかと内心にたくわえて、外相にそのいろをあらわさぬを、 よくものにこころえたらうひととはいうなり。(略)つぎに、物忌ということは、わが流には仏法につきてものいまぬといえることな り。他宗にも公方にも対して、などか物をいまざらんや。他宗他門にむかいては、もとよりいむべきこと勿論なり。」









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