吾が朝は神国なり。神道を敬うを国の勤めと為す(「比叡山奏状」)と、こういう事をはっきりと言い切っているわけです。日本の国は神国である、神道を敬うのは日本の国に身を置く者にすれば勤めだと。それを念仏者は、本願にことを寄せてそれを敬わないと。そういう批判なんです。更に念仏者は「触穢」というものを無視して、神社を行ったり来たりしていると。こういう事を「神明に向背」すると言うて、大きな過失だと言うて非難しているんです。 つまり勅許が公だという事は、天皇が絶対的な権威だということです。それは何故かと言うと、日本の国は神国であると。その天皇というのは昨日も言いましたように、皇祖神である天照大神、日本民族の全ての先祖である皇祖神・天照大神です。これが「霊神」になるわけですね。その天照大神を敬わないと。そういう大きな過失があるという事でですね訴えておるわけです。それは、何が公なのか、何が真実の権威なのかという、こういう問題なんです。
『興福寺奏状』 「興福寺僧網大法師等、誠惶誠恐謹言。 殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙 門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその 過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。 九ヶ条の失の事 第一 新宗を立つる失 第二 新像を図する失 第三 釋尊を軽んずる失 第四 不善を妨ぐる失 第五 霊神に背く失 第六 浄土に暗き失 第七 念仏を誤る失 第八 釋衆を損ずる失 第九 国土を乱る失」 『延暦寺(比叡山)奏状』 「延暦寺三千大衆・法師等、誠惶誠恐謹言。 天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状 一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事 一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事 一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事 一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事 一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事 一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事」 |
僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。 (『聖典』P398)というふうに言われているでしょう。「後序」の所に、親鸞聖人自身がしっかりとその事を記しておられます。この「僧儀を改めて姓名を賜うて」のその姓名が俗名になっているんです。これは、日本の律令体制の中で、僧という事が正式に決まった時は、俗ではないという事です。俗ではない僧だと。それが問題があるという事で還俗という事です。還俗というのは、もう僧ではないんだ、俗へ戻すんだという事です。だから日本の身分制度の一番基礎になっているのが、これは僧か俗かという事です。身分制度というのは、日本の社会の中での「社会的身体」という事です。その身分制度の一番基は、僧であるのか俗であるのか、こういうように身分を分けるわけです。政治によって、一つの社会的身体を決めていくわけです。僧というのは無縁という事なんです。無縁というのは世間との縁が切れたという事ですね。だから戸籍が抹消されたという事なんで。だから、俗について細身分化するわけです。これが江戸時代になりますと、非常に身分制度が厳しくなります。士農工商、更に穢多・非人という非常に酷い形の身分制度をそこに設けたという事です。
和朝愚禿釋の親鸞が「正信偈」の文(『聖典』P530)と出てくるでしょう。これははっきりと、「神国」ではないと言っておれるんです。だからこの「和朝」というのは、「和国の朝家」だと。親鸞聖人は聖徳太子を非常に尊敬されるわけです。それは何も親鸞聖人個人の問題ではなしに、念仏に縁を持つ多くの門徒の人達は、聖徳太子を非常に尊敬しておるわけです。その聖徳太子は「和国の教主聖徳皇」です。この「和国」というのは、本願念仏の仏法に帰依された聖徳太子が、その仏法によって一つの国を作り出されたんだと。だからその「和国」というのは浄土を映し出しておるんだと。浄土ではないんだけれども、その浄土を映し出しておる国がそこに具体化しておるんだと。それを「和国の朝家」と。しかも『正信偈』というのは、
如来所以興出世 唯説弥陀本願海(『教行信証』行巻『聖典』P204)です。三国七高僧でしょう。三国七高僧というのは、インド・中国・日本です。そこでは一つの国家問題とか民族問題を抱えております。国家問題とか民族問題を抱えておるんだけれども、そこには「唯説弥陀本願海」です。だから、如来の本願真実と、浄土真実と、そういう事を身を持って示された、そういう三国七高僧なんだと。ですから、最後は、
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(『聖典』P208)です。「唯斯の高僧の説を信ずべし」と。この『正信偈』というのは、阿弥陀如来の本願が真実であり、浄土が真実である事を証明してきた一つの歴史なんです。それを示しておるのが『正信偈』です。そして、日本の国は聖徳太子から始まるんだという意味で「和国の教主聖徳皇」と。だからこの「和朝」というのは、単に日本の国を「和朝」と言うておるのではない。阿弥陀如の本願を本当に身を持って具体化された、そういう聖徳太子によって願われもし、具体的に示された、その「和国の朝家」の親鸞なんだという事です。
真宗興隆の太祖源空法師『聖典』P398)と、法難の真っ直中ですね「真宗興隆」という言葉が親鸞聖人によって言い切られています。 そういう問題があります。
『宗憲』第二節第八十二条二項 「すべて門徒は、帰敬式を受け、宗門及び寺院、教会の護持興隆に努めなければならない」 |
吾、利生の為、彼の衝山を出て、この日域に入る。守屋の邪見を降伏して、ついに仏法の威徳を顕せり。こういう銘文が記してあるんです。非常に古い銘文です。これは、親鸞聖人には、聖徳太子の関係の「和讃」が百十四首和讃とか七十五首和讃とかがあります。普通私達が親しんでおるのは『正像末和讃』の中にある『皇太子聖徳奉讃』の十一首です。その七十五首和讃、これは建長七年に親鸞聖人が詠まれている比較的早い時期の聖徳太子の「和讃」です。そこに、
仏法興隆せしめつゝこういう「和讃」があるんです。この銘文を和讃化しておられるんです。つまり、中国の天台山の恵思禅師という、非常に破邪顕正ということを盛んにされた禅師なんです。その恵思禅師が、衆生を利益する為に中国の衝山、天台山から出て、この日域に現れられ聖徳太子になられたと。輪廻転生みたいな事なんですけれども、それはそういう事ではなしに、本当に本願というものを尊ぶ心と言いますか、本願を尊崇する心が恵思禅師にも現れ、聖徳太子にも現れてという意味なんです。守屋というのは物部守屋です。これは神道ですね。神道というものを奉じている中心にあるのが物部守屋なんです。その物部守屋を降伏して、仏法を日本の国に顕らかにされたという「和讃」なんです。こういう銘文が、聖徳太子の御絵像の銘文として、ずっと今日までお給仕されてきておるという事です。
有情利益のためにとて
かの衝山よりいでゞ
かの日域にいりたふ
守屋の邪見を降伏して
仏法の威徳をあらわせり
いまに教法ひろまりて
安養の往生さかりなり(『皇太子聖徳奉讃』『聖教全書二』宗祖部P539)
さればとて、念仏をとどめられそうらいしが、世にくせごとのおこりそうらいしかば、 (『御消息集(広本)』七『聖典』P568)ということです。この「世にくせごと」というのは承久の乱の事を言うておられるわけです。「念仏をとどめられそうらいしが」というのが、後鳥羽上皇が念仏者を斬首したり流罪にしたり念仏を禁止したりしたと。そういう事があって、念仏者を弾圧するとか念仏を禁止するとかいうのは謗法という事です。だから大きな「くせごと」が起きたんです。それは、承久の乱のような大きな戦争が起こって国家がひっくり返ったと。天皇が隠岐に流されるという事ですから、これは大変な事件だと。その後、「それにつけても」と、だからこそなんだとして、
それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう。(同上)と。どうか人々に念仏を伝えて、本当に日本の国に、世間に念仏者が満ち溢れ、和国というものが実現するようにと。そういう事を性信房に激励しておられる手紙なんです。その後すぐに、
朝家の御ため国民のために、(同上)と続いているんです。この「朝家」というのをずっと読み間違えていたんです。これは、和国の朝ではなしに神国として思い込んできたんです。神国としての朝家と読み間違えたんです。慰霊祭なんかの時に、必ず小名号と、釋闡如という名で『御消息』が出ています。その時に、一緒に出ている小名号の両脇に「朝家の御ため国民のため」「念仏もうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし」と割って書いてあります。そういう小名号が結構あるんです。私も実際に実物を見た事があるんです。その時の「朝家」というのは、これは神国の「朝家」です。ここで親鸞聖人が言われるのは「和国の朝家」なんです。一番親鸞聖人において和国という事が問題になって、本当にそれが成熟していく時の手紙なんです。そういう当時の神国を、やはり和国として、聖徳太子を尊崇しながら、道場の余間に聖徳太子を安置してお給仕したと。これは、和国なんだと、聖徳太子から始まっておる和国なんだということですね。そういう心をやはり真宗教団の初期の頃は非常に大事にしたんです。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、(五帖目十六通『聖典』P842)その後、
おおよそはかなきものは、この世の始中終、(同上)とありますけれども、『無常講式』では、
おおよそはかなきものは、人の始中終、幻の如くなる一期に過ぎる程なり。となり、その後『白骨の御文』は、
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。(同上)と。これは後鳥羽上皇の『無常講式』がそのままコピーされておるわけです。『無常講式』では、最後に後鳥羽上皇は、
憑みてもなお憑むべきは、弥陀誓願の助け也という事をはっきり言っておられるわけです。後鳥羽上皇は念仏者の首をはねられたんだけれども、安楽房は首をはねられてでも念仏を相続したと。そういった事が後鳥羽上皇をして念仏者に生まれ変わらせたと。そういった事が事実としてあるんです。蓮如上人をはじめ蓮如上人当時の門徒の人も、知っておられたんじゃないかと思うんです。弥陀の本願は、何時の何処の誰にでも、本願真実という事は伝わっていくんだと。本願真実という事は、何時の何処の誰でも必ず分かっていくんだと。そういう絶対的な信頼です。そういうものを持って、難しい状況の中でも、如来の本願を信じ、そして全ての人が本願に頷いていく事があるんだという事を信じ念仏を相続したということです。そういう歴史が浄土真宗の歴史です。
『法事讃』、『聖教全書一』三経七祖部P605 「五濁増の時は多く疑謗し、道俗あい嫌いて聞くことを用いず。修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競いて怨を生 ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べから ず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ。」 『選択本願念仏集』慇懃念仏付属章、『聖教全書一』三経七祖部P988 『勅修吉水円光大師御伝』/藤原定家『名月記』 『無常講式』、南条文雄「無常講式並びに存覚法語とお文」『無尽燈』二四号より 「世をこぞって蜉蝣の如し。朝に死し、夕べに死し、別れるものの幾許ぞや。或いは、昨日已に埋みて、墓の下に涙を拭う者、或い は今夜に送らんと欲して、棺前に別れを泣く人。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一期の過ぎる程なり。三界無常な り。古より未だ万歳の人身あることを聞かず。一生過ぎやすし。今にいたって、たれか百年の形態を保つべきや。実に我や前、人や 前、今日とも知らず、明日とも知らず、後れ先だつ人、本の滴、末の露よりも繁し。原野を指して、独り逝地と為す。墳墓を築き、 永く栖み家と為す。焼きて灰となり、埋みて土となる。人の成 りゆく終わりのすがたなり。」 『存覚法語』、『聖教全書三』歴代部P360 |
うえ人しにてそののちにと、こういう「和讃」を残されているわけです。片岳山で行き倒れている人がいると。その人に声を掛けて食を与えて、紫の衣も与えたと。しかし、その飢え人が亡くなってしまったと。その時に、飢え人に与えた衣を取り寄せて、もとの如くに皇太子が着られたという「和讃」なんです。これは触穢でしょう。自分の与えた衣だけれども、与えた者が死んでしまえば死に触れたという事です。これは触穢です。それを全然問題にしないで着られたという事です。本願というのは善悪浄穢を選ばないんです。善悪浄穢を選ぶ事によって非常に閉鎖していくわけです。関係が閉鎖していくわけです。だから本願によって、選ばないんだという、そういう形で解放され、自由無碍に出会っていくわけです。だから、そういう意味でこの善悪浄穢を選ばない伝統です。これは親鸞聖人御自身の「和讃」なんです。聖徳太子は、自分の与えた衣だけれども与えた者が死んだと、しかしそれを自ら着られたと。こういう「和讃」を以て、本願に依って生きるという事と神道に依って生きる事の差異をはっきりとさせられたんです。 こういった事は、蓮如上人の頃にはとても言い切れないという事で、いろんな「おきて」が出てきます。一帖目九通の「御文」 がありますけれども、ここでは世間に出たら世間が物忌みされる時はそれに従わなければならないという「御文」です。それだけ社会の中での生活が厳しくなったという事があったからです。
むらさきの御衣をとりよせて
もとのごとくに皇太子
著服してぞおはします(『聖徳太子奉讃』九五『聖教全書四』拾遺部下P39)
『御文』一帖目九通、『聖典』P689 「それ、当流におきてをまもるというは、わが流につたうるところの義をしかと内心にたくわえて、外相にそのいろをあらわさぬを、 よくものにこころえたらうひととはいうなり。(略)つぎに、物忌ということは、わが流には仏法につきてものいまぬといえることな り。他宗にも公方にも対して、などか物をいまざらんや。他宗他門にむかいては、もとよりいむべきこと勿論なり。」 |