善光寺の如来の われらをあわれみましましてこの「守屋」が物部守屋です。神道を敬って大事にしていた守屋です。
なにわのうらにきたります
御名をもしらぬ守屋にて(一、『聖典』P510)
そのときほとおりけともうしけるこの「ほとほる」というのは、体が火照る、だから熱病なんです。高い熱が出る。それで命を落としていくと。そういう流行病、疫病が流行ったときに、これは蕃神−外から来た神を祀るからだと言うて、浪速の海に捨ててしまったんだと。その時に御名を知らないものだから「ほとおりけ」、物の怪の「け」です。我々に体に高い熱を出させて我々の命を奪う、そういう疫病だという事で「ほとおりけ」と呼んだと。それが詰まってホトケになったんだと。こういう呼び方は外道の呼び方だと言って、親鸞聖人は絶対にホトケとは言うておられないわけです。
疫癘あるいはこのゆえと
守屋がたぐいはみなともに
ほとおりけとぞもうしける(二、同上)
やすくすすめんためにとて
ほとけと守屋はもうすゆえ
ときの外道はみなともに
如来をほとけとさだめたり(三、同上)
この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけともうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり(四、同上)
弓削の守屋の大連
邪見のきわまりなきゆえに
よろずのものをすすめんと
やすくほとけともうしけり(五、同上)
『諸神本懐集』、『真宗資料集成』第一巻P697 「それ仏陀は神明の本地、神明は仏陀の垂迹なり。(中略)このゆえに垂迹の神明に帰せんとおもわば、ただ本地の仏陀に帰すべき なり。いまそのおもむきをのべんとするに三つの門をもって分別すべし。 第一に権社の霊神をあかして本地の利生を尊ぶべきことを教うというは、和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のおわりなり。 これすなわち権社というは往古の如来、深位の菩薩、衆生を利益せんがために、かりに神明のかたちを現したまえり。 第二に実社の邪神をあかして承事の思いを止むべきむねをすすむというは、生霊・死霊等の神なりこれは如来垂迹にもあらず、もし は人類にてもあれ、もしは畜類にてもあれ、祟りをなし悩ますことあれ、これを宥めんがために神と崇めたる類なり。 第三に諸神の本懐をあらして仏法を行じ念仏を修すべきおもむきを知らしめんというは、一切の神明ほかには仏法に違する姿を示し、 内には仏道を勧むるをもって志とす、これすなわち和光同塵の本意をなずぬるに、しかしながら八相成道の来縁を結ばんがためなる ゆえなり。」 『皇太子聖徳奉讃』、『聖典』P507 「救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 多多のごとくすてずして 阿摩のごとくにそいたまう」 |
そもそも、当宗を、昔よりひとこぞりておかしくきたなき宗ともうすなり。これまことに道理のさすところなり。そのゆえは、当流人数のなかにおいて、あるいは他門他宗に対してはばかりなく、我が家の義をもうしあらわせるいわれなり。これおおいなるあやまりなり。それ、当流におきてをまもるというは、わが流につたうるところの義をしかと内心にたくわえて、外相にそのいろをあらわさぬを、よくものにこころえたるひととはいうなり。しかるに、当世は、わが宗のことを他門他宗にむかいて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、当流をひとのあさまにおもうなり。かようにこころえのわろきひとのあるによりて、当流をきたなくいまわしき宗とひとおもえり。さらにもってこれは他人わろきにあらず。自流のひとわろきによるなりとこころうべし。(一帖目九通、『聖典』P769)と、こういう「御文」です。自流の人が悪いんだということです。それは掟を守らないからだと、そういう言い方です。やはり世間の中では、一番忌むという事を大事にしたわけです。
仏法を主とし、世間を客人とせよ。(『蓮如上人御一代記聞書』一五七、『聖典』P883)ということです。世間の中で生きなければならないわけですが、世間を主とするのではないんです。仏法を主として世間の中で生きるんだと。どっちが第一義なのかという事なんです。どっちが第一義なのかということをはっきりして、世間の中で、これはいいだとうと、これもいいだとうと、でもこれは駄目なんだという。そういう、譲るところは譲るけれども、譲れないところは譲れないのだという、ある意味で体を張ってでも譲れないと言わないといけない。それがラッキョの皮みたいに、剥いても何も無かったと。そうなると、仏法を第一義としていないという事なんです。そういう問題が神道問題だと思うんです。ここはいい、これは駄目なんだと、その時にはっきり決着を立てると。そういう事で時間がかかると思います。一気には無理だと。日常生活の中に入ってきておりますから。「御文」にありますが、蓮如上人の時でも、お酒を飲む時に、一杯二杯三杯、その次の四杯はとばすといいます。四そのものが死に繋がるんです。世間にそういう飲み方があるんだけれども、それはおかしいんだと。そするとこれは忌み言葉になるんです。今でもそうでしょう。ホテルなども四という数字は無い所がありあます。それ程に深く日本人の体質の中に死を畏れ、死を穢れとして忌み嫌う神道の問題があるんです。死を忌み嫌う。その中で、そうではなくて、死から始まる、死すべき生をどう生きるかからスタートするのが仏道なんです。死というものに目を瞑ってしまえば、本当にこれは全部迷いという事になるんです。そういう意味で、その事をよく納得した上で神道問題というものを、基本的に根源的に、死というものを忌み嫌うんではないんだと。死というものを受け止めたところから、生きるという事が本当に始まるんだと。そこに「生死を出離する」という仏道の大きな問題があります。そういう基本的な事から神道問題というものを見ていかなければならないのではないかと思います。
「日本の祭──物忌と精進」、ちくま文庫『柳田國男全集』十三巻P301 「しかるに仏教もことに民間に流布した宗旨では、むしろこれを嫌わぬという一大特徴をもって、平たく言うならば競争に勝ったの である。その代りにはこのために仏者は神に近づくことができなかった。一向宗だけはいっこうにかまわぬと言って、そんな制限無 視しようとするが、その他の派では神に参ることを差し控え、正月も寺年始は四日からときめてあって、その前に注連をはずし松を 取り、法師に注連縄の下をくぐらせぬという鉄則を守っている地方もある。」 |
忌といふ文字の訓はいみなり、 普通発音すればキですけれど、訓読みはイミだと。
是則その亡日にをいて、「亡日」亡くなった日だと。御正忌とかのキでもあるわけです。
是則その亡日にをいて、かの徳を謝するよりほかに他事をいみて禁断する義なり。(『聖教全書五』拾遺部下P265)こういうふうに存覚上人が言うておるわけです。更に、
外典の書に『礼記』というふ文にはこの義をあかせり。また内典(仏教の書)の書に『梵網経』に、もし父母・兄弟死亡の日は法師(僧侶)を請じて追福を修すべきむねをとけり。二親並びに兄弟等の亡日には諸事をなげすてゝ仏事報恩をいとなむべきこと、内外の両典にすゝむる所一なり。 (同上)とあります。そういう意味では、「忌」というのは単に神道と言うよりも、仏法に於いても、縁の深い者が亡くなった日にはその徳を謝すと。だから他の事を全部止めて、それに終始して徳を謝すと。それが「忌」という事だと。それはさっきも言いましたように、仏教では徳を謝するという事なんですけれども、それが神道になると死というものを穢れと言うてしまうから、その死を除く為に潔斎するんだと。これが身近なところでは、精進していくと、宍を食わない。肉を食わないというのは精進なんです。神道でいう精進というのは宍を食わないという。だから、宍を食わない形で、実は潔斎をする事が、亡くなった者の穢れを浄化していくんだということです。
そのそも、今日は鸞聖人の御明日として(『聖典』P806)という。ここは「明」という字を使っておられます。この「御明日」というのは、「声明の日」というような意味だというふうに読まれているんです。これは、声明という形で讃嘆する日なんだという意味だと思うんです。親鸞聖人の「明日」だと。親鸞聖人を讃嘆する日なんだと。そういうふうに「明」という字を、蓮如上人は一ヶ所だけですけれども用いておられます。そういう意味では、神道的なものに対する配慮みたいなものがあったんだと思うんです。割合、この「忌」という字が、圧倒的に「物忌み」という形で使われるものですから、その時にやはり「物忌み」というのは神道の忌み嫌うという「忌」という、そっちの方が圧倒的に生活レベルでは根付いていたと思うんです。ですから、門徒の方が今度でも「蓮如上人五百回御遠忌」ではないかと言うて、怒っておられる事があるわけです。だからそういう時の「忌」というのは、存覚上人が言われるような、仏典においても、讃嘆していくとか、思い起こして本当に報恩していくという意味もあるんだというところを、きちんと言うておく必要がありますね。そうでないと、一般的に言えば「忌」という字だけで、忌み嫌うという事になってしまいますから。
主上臣下、法に背き義に違し (『教行信証』後序、『聖典』三九八頁)と、こういう表現をしておられます。これは承元の法難の時に関係して言われる言葉なんです。「主上臣下、法に背き義に違し」という、これは天皇とか国家の問題に対して、親鸞聖人がどういう天皇観を持ち国家観を持っておられたかという事を端的に記しておられるわけです。
阿弥陀如来 観世音菩薩四つグループを記して、下にそれぞれ関係のある者を記してあるわけです。親鸞聖人が一番関心を持っておられるのは、提婆尊者との関係での阿闍世王です。この阿闍世王は、初めは提婆の弟子として父を殺したと。そして国王になったと。提婆の教えによって阿闍世は父を殺して国王になったと。この時は、はっきりと、外道に帰依する国王が仏法に帰依する国王頻婆娑羅を殺して、国王になったんだと。そういう問題がそこにあるんです。しかし、阿闍世は、父を殺す事を通して非常に深い罪の問題を抱えて、後に釋尊に遇い、「無根の信」を得たと。「無根の信」というのは、これは念仏の信心です。だから、阿闍世は外道提婆の弟子として父を殺し、父に代わって外道の国を建てたんだけれども、罪の意識から仏に遇い、仏の弟子と成って、「無根の信」を得て、最終的には阿弥陀如来の弟子に成ったと。阿弥陀如来の弟子になって、阿闍世がどういう国を創ったのか、これが親鸞聖人の一番の関心事なんです。阿闍世が、唯父を殺して懺悔して念仏者に成ったという事に留まらないで、阿闍世は国王なんです。だから、念仏者として国王に成った阿闍世が、どういう国を創ったのかという。それが聖人にとっては物凄い関心事なんです。それが実は聖徳太子になるんです。親鸞聖人の中に流れてくる問題は国家問題です。阿闍世は阿弥陀の弟子と成って、どういう国を創ったか、それが聖徳太子が念仏者として和国を創られたんだと、その「和国観」です。
阿弥陀如来 大勢至菩薩
釋迦牟尼如来 富楼那尊者
釋迦牟尼如来 大目 連
釋迦牟尼如来 阿難尊者
頻婆娑羅王 韋提夫人
頻婆娑羅王 耆婆大臣
頻婆娑羅王 月光大臣
提婆尊者 阿闍世王
提婆尊者 雨行大臣
提婆尊者 守門者(『聖典』P483)