もし追善報恩の志し有らん人は、唯一向に念仏の行を修すべし。(『西方指南抄−没後二箇條』『聖教全書四』拾遺部上P157)と。これは念仏を相続して欲しいという事です。だから、報恩としての念仏相続をして欲しいと。こういった事が遺言として残されたんです。
倩教授の恩徳を思うに実に弥陀悲願に等しき者(『聖典』P528)とこう言って、
粉骨可報之摧身可謝之(『聖典』P528)と。私達が親しんでおる、「如来大悲の恩徳は」の『恩徳讃』は、そのまま聖覚法印が法然上人を讃嘆しておられる言葉なんです。親鸞聖人は聖覚法印の言葉をそのまま用いておられるわけです。
如来大悲の恩徳はこの「如来大悲」というのは阿弥陀如来です。「師主知識」というのは親鸞聖人にすれば法然上人とか七高僧です。ですからここに「二尊」という事です。浄土真宗は二尊教ですけれども、「如来大悲」というのは阿弥陀如来です。この阿弥陀如来は救主です。この「師主知識」というのは教主としての諸仏善知識です。この救主・阿弥陀如来、教主−聖覚法印からすれば法然上人です。聖覚法印が真実信心の人として自己を決定されたのは教主としての法然上人を通して、救主としての阿弥陀如来に出遇ってのことであり、そのことによって助けられたんだと。そういう意味では、浄土真宗というのは釋迦諸仏の弟子になる事を通して、阿弥陀如来の弟子になると。これで救済が完結する事になるです。我々はみんな法名として「釋○○」と。仏弟子です。仏弟子に成って、我々の救主は阿弥陀如来だという事をはっきりさせようと。阿弥陀如来との関係の中で、阿弥陀如来の弟子に成ったと。こういう事が一つ助かったという事なんです。阿弥陀如来の弟子という事については、全て一列平等なんです。善知識というても、確かに阿弥陀如来を私に知らせて下さったという意味では尊い方ですけれども、阿弥陀如来との関係の中では、たとえ善知識といえども御同朋として一緒だということです。だから釋迦諸仏の弟子に留まっては駄目なんです。釋迦諸仏の弟子に成る事を通して阿弥陀如来に遇うた。阿弥陀如来の弟子に成ったという事で助かったと。だから「如来大悲の恩徳」という事になるんです。この「如来大悲の恩徳」と言えるように成ったのは、「師主知識の恩徳」なんです。これが二尊教なんです。
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし(『正像末和讃』五八『聖典』P505)
聖人の廿五日の御念仏も、詮ずるところは、かようの邪見のものをたすけん料にこそもうしあわせたまえと、もうすことにてそうらえば、よくよく、念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあわせたまうべくそうろう。(『親鸞聖人御消息集(広本)』十三通、『聖典』P578)と。この「廿五日の御念仏」というのは、これは法然上人の命日なんです。ですから廿五日、法然上人の命日に、それぞれ縁のある道場に集まって念仏相続の使命を確認しようという事なんです。 そして「二月九日」という日が繰り返し出てくるわけです。それは『正像末和讃』の初めに、
康元二歳丁巳二月九日夜(『聖典』P500)と。この二月九日は『御伝鈔』 にも出てくるわけです。これは建長八年の二月九日というふうになっているんです。両方とも、二月の九日には聖徳太子が夢に現れるわけです。これは、私も調べたんですが、結局二月九日というのは安楽房の命日なんです。これは建永二年二月九日、これは安楽房が後鳥羽上皇に念仏を勧めて、その事を責められて六条河原で首をはねられた日なんです。その後、一気に吉水の教団が潰されて法然上人が四国、親鸞聖人が越後に流されています。だからこの日は安楽房が斬首された日なんです。つまり、後鳥羽上皇に命がけで念仏を相続しようとして殺された日なんです。それを門徒に人達が、二月九日を忘れないようにとしたんです。