第二章





04、崩壊していく「家」

 それでは後もう少しお話しして、最後は皆さんの方で質問でもあれば、それをお聞きしてと思います。
 色々と、皆さんも初めて聞かれるという事で、びっくりされるような事も多いのではないかと思うんです。先程言いました『無縁慈悲集』ですが、これがあるんだという事で、私も苦労してやっと手にして読んでみました。色々問題があります。日本の葬送儀礼を集大成して、それをこういうふうに執り行うものなんだという事で一つ定着していったんだろうと思うんです。そういった事で、色々問題が多いなという事です。
 特に仏事問題です。その仏事問題が、江戸時代はやはり追善という形で亡くなった者を家の先祖にしていくと。後はその先祖を祀っていくと。しかし、祀る事によって子孫が先祖によって縛られてしまう。そういう仕組みが未だに続いています。例えば、貴方は誰ですかと聞かれた時に、私はこういう者ですと言いますと、よく分からんから戸籍謄本を持ってきなさいと。戸籍謄本でもよく分からんと。そうすると、結局貴方の先祖は誰なんだと、こういう事になって、そうすると当然そこに家柄とか血統の問題が出てしまう。それが日本の先祖問題です。ですから、日本の家そのものが先祖が祀られていく場所です。先祖祀りが行われている場所が家なんです。こういうことが一つあるんです。その先祖が祀られていく場として、さっきも言いましたように仏壇があると。その仏壇は位牌が中心だと。こういった事は、今でも家の後を継ぐというような時に、それはどういう事が家の後を継いだ事になるかと言うと、これは先祖を祀る、先祖祀りの司祭権を受け継いだという事が家の後を継いだという事です。先祖というものを持つ事によって権威を持ち、そして一つの権力を持つ事になったわけです。
 ですから現在は「家族という名の孤独」というのが非常に流行語なんです。「家族という名の孤独」です。家族というのはお互いのことを案じ合うのが家族です。家族の誰かが外へ出ていった時に帰りが遅い。どうしておるだろうかと、帰りを待ちかねて落ち着かなくなると。待っておる者は、家族が帰ってくればやれやれです。そういうふうに待ち合うと。だから、帰ってくる者もそこへ帰れば安心だと。そういう家族の居るのが家なんです。だから「家族という名の孤独」というのは、家が崩壊しておるという事なんですね。何故家が崩壊していくのかと。これは現在は、一方は父性の復権という事が非常に叫ばれておるわけです。父性の復権というのは、お父さんにしっかりしてもらうという事なんです。お父さんはどこでしっかりしていたかと言うと、先祖を司祭する事によってお父さんはしっかりしていた。父親の権威というのは、先祖祀りをしっかりするという事で一つの権威を保っておったし、それが一つの力になるわけです。例えば今度父親の十三回忌を勤めるんだと。あの親戚はどうも問題があるという事であると案内を出さない。そういう事を決めていくのが司祭権を持っておる者なんです。そうすると司祭権を持つ事によって、先祖祀りに参加をさせない。これはある意味で仲間外れにするという事です。ですから、先祖を中心にした一つの共同体では。それを統合するのが一つの司祭権を持っておる父親です。そういう意味では、日本の国家というのは家制国家ですから、天皇というのはそういう皇祖神・天照大神を司祭する司祭権を持っておるわけでしょう。だから、天皇が力を持ってくるというのは司祭権を持つ事です。私は別だと言うと仲間に入れてもらえないわけですし、あそこは除けておこうという事になると、完全に疎外されるんです。それはかつては非国民として、生活権とか生存権を奪われる問題になってきます。生き死にに関わる。現在はそういう意味で父性の復権という事ですから、家が崩壊しているのです。家をどこで建て直すのかと。お父さんが力を持つというても、お父さんより子供の方が体格的に強くなりますと、完全に暴力では負けるんです。今はそういう意味では暴力時代なんです。暴力時代というのは、王舎城の悲劇のように結局は子供が親を殺すと。殺さなくても親を無視すると。そうすると、これはみんな雄雌になるわけです。雄雌になると、結局暴力です。力が全てです。父性の復権というのは、ただお父さんが力が強くなるという事ではなしに、一つの秩序です。秩序というようなものを回復する事によって、お父さんが権威を持って力を持っていくんです。
 今戦後五十年経って、そういう問題が一つの大きな国家問題としてもあるんです。日本の家というものは、先祖がおられて先祖が祀られる場所が家なんだと。それでその家の先祖を祀るのが司祭権を持っているお父さん、そういう事です。次男とか三男は新宅しても先祖を持ち出せないわけです。他宗は絶対先祖を持ち出せないわけです。先祖は本家です。新宅というのは先祖を持ち出せないわけですから、仏壇が無いのが当たり前です。新宅した者が亡くなって初めて仏壇が入って、新宅した者がやがて家の先祖として祀られていくわけです。これは皇室の場合は一番はっきりしているわけです。次男三男というのは、みんな宮家を起こされるんです。今だったら秋篠宮家です。だから秋篠宮家という形で秋篠家を起こされるわけです。そしてやがて先祖に成られるわけです。長男は本家で天照大神を祀る司祭者に成られるわけです。そういう先祖を中心として、という事が解体してきているという現実があるわけです。だから、家を回復しようという考えは、先祖を中心に据えて家を作ろうと。そういう意味では反動化しておるわけです。同朋会運動が始まった頃は「家の宗教から、個の自覚の宗教へ」と言うておったんですが、今は家そのものが無いわけですからもう一度家を回復していくと。それから始めるといういう事であれば、物凄い反動です。そういう家は回復できないわけです。そういう家をもう一度回復するという事ではないんです。




05、如来・聖人の在す「家」

 そこに、門徒の家は他宗の家と違うんだと。さっきも言っておりますけれども、仏壇とも言うけれどもそれはお内佛なんだと。これは御本尊・阿弥陀如来を中心としているんです。他宗の人は先祖が中心であるという事は、隠された本尊としての天牌があるという事なんです。これが見えるか見えないかという事ですね。天牌というのは、かつて大谷派の寺でも天牌があったわけです。それぞれの家が位牌を中心にして仏壇を持っておるという事は、隠された本尊は天牌なんだと。家が潰れたという事は、先祖が曖昧になったと。そうすると家を回復するという事には、隠された本尊としての天牌、位牌を中心とした家作りという事があるんです。けれども、門徒の場合は、仏壇とも言うけれどもお内佛だと。お内佛は御本尊・阿弥陀如来です。江戸時代でも、新宅する時に、親が借金してでも新宅をする者にお内佛を用意したと。これ一つあればとか、これが無ければという、やっぱり家というものが単なる家ではなしに、御本尊を中心にした家、如来の家、如来在す家だとして相続してきたんです。
 初代講師の恵空に『叢林集』というて、これは仏事問題なんかも非常に詳しく教学を押さえて展開してあります。そこに、門徒の家は如来がおられる家だと。そういう意味では、家の主人は、如来聖人をお給仕するんだと。お給仕するというのは、如来聖人に仕えるという事です。仕えるという事は如来聖人の仰せに従うという事です。だから、世間がどう言おうと如来聖人の仰せに従うと。そういう意味では、天皇陛下の言われる事よりも、阿弥陀如来の言われる事を聞くんだと。そういう覚悟みたいなものを持っていたんです。もう亡くなられた住職さんが言うておられたですけれども、戦時中やはり憲兵が来るというんです。憲兵が来て、貴方達は阿弥陀さんの子だと言うておるけれども本当なのかと、こういう言い方です。天皇の赤子ではないのかと。そういうような言い方です。だから、江戸時代はそんなにきつくなくても、明治から天皇制が強くなった時は「天皇帰一」です。一に帰すべきものは天皇であると言うて、後は弥陀帰依だと。天皇帰一で後は弥陀帰依だと。阿弥陀如来に帰依するとか大日如来に帰依するとか、それはそれぞれであって、一に帰すべきものは天皇だと。そういうような中で、やっぱり阿弥陀如来なんだと言う事はなかなか勇気がいるし、一つ間違うと潰されてしまうという事もあるんです。それは住職だけではなしに、門徒の方がみんな天皇帰一という事になっておる時に、住職は憲兵にやられるよりも、門徒の人から出て行けという事になってしまうんです。
 そういう意味で、家は御本尊・阿弥陀如来を中心にした家だと。そこでの仏事があるわけです。これを「報恩としての仏事」といいます。だから報恩講というのは、何も親鸞聖人の命日が報恩講ではなしに、毎日毎日が報恩としての仏事だと。そういう事が大事に伝統された、一つの仏事の形です。この報恩としての仏事というものが決まってくるわけです。それは、法然上人が亡くなられた時に遺言があるわけですね。親鸞聖人もきちんと問題にしておられますけれども、『没後二箇條』*というて、法然上人が亡くなられる時に、二つの事について遺言されているわけです。その一つに、仏事についての遺言がされているわけです。それがですね、「私が亡くなった後、図仏写経等の善、浴室檀施等の行を一向に修すべからず」と、こう言われたわけです。これが追善回向の仏事の事なんです。非常に具体的な追善回向の仏事です。
 「図仏」というのは、先程言いました江戸時代の仏事の中に、『無縁慈悲集』の中に出てくるんですけれども、亡くなった者達は四十九本の釘を体に打たれると、こういう事が「閻魔王の勧文」というて出てくるんです。そこに一尺の釘を四十九本、体に打たれるんだと。その釘を抜くのにどうしたら抜けるかという事を言うておるわけです。その時に、目に二本、耳に二本、舌に六本、胸に十八本、足に十五本、腹に六本とこういうふうに打たれるんだと。それを、図仏写経、仏をつくり経を写すと、この時に腹の六本の釘が抜かれるという事を言うておるわけです。法然上人当時でも、図仏写経して回向をすると、亡くなった者が自らの善根として助かっていくんだと。そういう意味での追善なんです。それから「浴室檀施等の行」と。これは私もよく分からなかったんですけれども、絵巻物なんか見ますと、大きな法要の時に必ず大衆に対して供養があるわけです。その供養というのは、食事を供養するというのと、お風呂を沸かして供養するという事があるんです。驚いたんですが、「浴室」というのは身を清めるようにとそれを大衆に供養するという事です。「檀施」というのは、これは食事を用意すると。そういうのが行なんだと。確かにそうなんです、親が亡くなったら子供達が親の法要を勤めて、多くの人達に供養をしていけば、その人達は親を讃嘆する事になるわけです。その息子さんを讃嘆するというよりも親を讃嘆する。そういう親を讃嘆するという事が亡くなった親の善根になったり功徳になるんです。亡くなってしまったから善根功徳を修する事ができない。しかし、その子供達が図仏写経等の善、浴室檀施等の行をする事によって親が讃嘆され、親の善根になっていくんだと。そういう意味での追善回向です。




06、二尊教としての浄土真宗

 そういう事が行われていたのが、そういう事は一向に修する必要はない。
 法然上人は
もし追善報恩の志し有らん人は、唯一向に念仏の行を修すべし。(『西方指南抄−没後二箇條』『聖教全書四』拾遺部上P157)
と。これは念仏を相続して欲しいという事です。だから、報恩としての念仏相続をして欲しいと。こういった事が遺言として残されたんです。
 それで弟子達は法然上人が亡くなられた後、法然上人の遺言もあることだし、世間で行われているような仏事をしないでおこうといういうふうになったというんです。その当時、もう既に十五仏事が行われているわけです。親鸞聖人が「元仁元年」と言われるのは、法然上人の十三回忌に当たる年なんです。だから十三年という事を、親鸞聖人が大きな意味として受け止められているわけです。それは報恩です。法然上人から『選択集』を通して念仏を相続したと。それの報恩として『教行信証』を公にすると。それが「元仁元年」の意味なんです。これは十三回忌です。
 ですから、仏事というのは多く行われていたんです。そういう仏事をしないでおこうかという事になったんだけれども、やはり弟子達の中でですね、世間の風儀に従って七七の仏事が勤められたんです。こういった事が『法然上人絵伝』に出てくるわけです。聖覚法印が導師になって法然上人の六七日を勤めたと。その時に表白を作っているわけです。『法然上人御仏事表白』と。表白を作ってそれを読んで勤めたという事が記録にあります。その時の表白が、実は『尊号真像銘文』の中に出てくるわけです。『尊号真像銘文』というのは、尊号と真像の銘文という事なんです。尊号と真像の銘文というのは、真ん中に南無阿弥陀佛なら南無阿弥陀佛。その上と下に『大無量寿経』の願文を書くと。これが銘文になるわけです。真像の場合なら、真ん中に聖覚法印の真像、その銘文に、実は法然上人の六七日に『法然上人御仏事表白』としたその表白文が記されていたという事です。原始教団では聖覚も真像として道場に安置されていたという事が分かるんです。聖覚の真像に記された銘文が、法然上人の仏事の時の表白なんです。そこに「法印聖覚和尚の銘文」として出てきます。これは法然上人の六七日に法然上人の恩徳を讃嘆した表白なんです。その中に
倩教授の恩徳を思うに実に弥陀悲願に等しき者(『聖典』P528)
とこう言って、
粉骨可報之摧身可謝之(『聖典』P528)
と。私達が親しんでおる、「如来大悲の恩徳は」の『恩徳讃』は、そのまま聖覚法印が法然上人を讃嘆しておられる言葉なんです。親鸞聖人は聖覚法印の言葉をそのまま用いておられるわけです。
如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし(『正像末和讃』五八『聖典』P505)
この「如来大悲」というのは阿弥陀如来です。「師主知識」というのは親鸞聖人にすれば法然上人とか七高僧です。ですからここに「二尊」という事です。浄土真宗は二尊教ですけれども、「如来大悲」というのは阿弥陀如来です。この阿弥陀如来は救主です。この「師主知識」というのは教主としての諸仏善知識です。この救主・阿弥陀如来、教主−聖覚法印からすれば法然上人です。聖覚法印が真実信心の人として自己を決定されたのは教主としての法然上人を通して、救主としての阿弥陀如来に出遇ってのことであり、そのことによって助けられたんだと。そういう意味では、浄土真宗というのは釋迦諸仏の弟子になる事を通して、阿弥陀如来の弟子になると。これで救済が完結する事になるです。我々はみんな法名として「釋○○」と。仏弟子です。仏弟子に成って、我々の救主は阿弥陀如来だという事をはっきりさせようと。阿弥陀如来との関係の中で、阿弥陀如来の弟子に成ったと。こういう事が一つ助かったという事なんです。阿弥陀如来の弟子という事については、全て一列平等なんです。善知識というても、確かに阿弥陀如来を私に知らせて下さったという意味では尊い方ですけれども、阿弥陀如来との関係の中では、たとえ善知識といえども御同朋として一緒だということです。だから釋迦諸仏の弟子に留まっては駄目なんです。釋迦諸仏の弟子に成る事を通して阿弥陀如来に遇うた。阿弥陀如来の弟子に成ったという事で助かったと。だから「如来大悲の恩徳」という事になるんです。この「如来大悲の恩徳」と言えるように成ったのは、「師主知識の恩徳」なんです。これが二尊教なんです。
 ここが曖昧になると、結局「生き仏信仰」になるんです。生き仏信仰というのは一尊教なんです。一尊教というのは、救主と教主を一つにするわけです。教主と救主を一つにすると、救主は説かないんです。だから我々は聞く必要が無いんです。教主を救主にしてしまって、教主を阿弥陀如来にしてしまう。だから救主が助かると言われれば助かるし、助からないと言われれば助かないわけです。そういうふうに、説くのを止め聞くのを止めると。そういう形で、生き仏信仰とか生き神信仰というのは一尊教なんです。これが鬼神信仰なんです。これが鬼神信仰なんです。日本ではやはり天皇を鬼神にするということです。この鬼神の証拠というのは、オウム事件の時にやはり麻原彰晃というのはカリスマ、鬼神です。どうして鬼神かと言うと、殺す事が出来る者が鬼神なんです。鬼神というのは殺す事ができる者です。地獄へその者を突き堕とす事が出来る者です。そういう力を持つからこそ、助ける事もできるものだとして信仰されるんです。だからカリスマによって助かろうとする者は、やはりそのものに殺す自由を与えてしまうんです。殺す自由を与える事によって、そのものを徹底的な生き神にするとか生き仏にするんです。
 だからこれは蓮如上人の時でも、やはり出ています。生害権です。生害権とか往生決定権です。これが後に法主権になるわけです。法主権というのは、後生御免という力と、生害権といってその者を破門だと言うて殺す事が出来る力を持つんです。
 それはみんな二尊教である事を止めたからです。だから住職さんは説く必要もないし、門徒の人も聞く必要がない。聞かんでも説かんでも助かるというのは、住職さんがカリスマだという事です。そういうのは浄土真宗ではない。浄土真宗は二尊教なんです。その事を讃嘆しているのが『恩徳讃』なんです。だから、法然上人をどこで讃嘆しているのか。法然上人に遇って、私は阿弥陀如来に遇って助けられたと、そういう讃嘆です。
 だから、報恩という事が出てくるわけです。「身を粉にして」とか「ほねをくだきて」とかと言うと、何か非常に大袈裟なような事ですけれども、そういう事が言えたという形で実は助けられたという事の証となっているんです。そういう「報恩としての仏事」ということが始まったんです。世間の仏事に従っておるんだけれども、全く意味が違うと。世間の追善供養の仏事が主流の中で、全く意味の違った仏事、報恩としての念仏相続の仏事が始まったということです。それが法然上人の滅後、行われたという事です。
 ですからお手紙なんか見ましても、この親鸞聖人のお手紙の中で「廿五日の御念仏」というのが出てくるんです。
聖人の廿五日の御念仏も、詮ずるところは、かようの邪見のものをたすけん料にこそもうしあわせたまえと、もうすことにてそうらえば、よくよく、念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあわせたまうべくそうろう。(『親鸞聖人御消息集(広本)』十三通、『聖典』P578)
と。この「廿五日の御念仏」というのは、これは法然上人の命日なんです。ですから廿五日、法然上人の命日に、それぞれ縁のある道場に集まって念仏相続の使命を確認しようという事なんです。  そして「二月九日」という日が繰り返し出てくるわけです。それは『正像末和讃』の初めに、
康元二歳丁巳二月九日夜(『聖典』P500)
と。この二月九日は『御伝鈔』 にも出てくるわけです。これは建長八年の二月九日というふうになっているんです。両方とも、二月の九日には聖徳太子が夢に現れるわけです。これは、私も調べたんですが、結局二月九日というのは安楽房の命日なんです。これは建永二年二月九日、これは安楽房が後鳥羽上皇に念仏を勧めて、その事を責められて六条河原で首をはねられた日なんです。その後、一気に吉水の教団が潰されて法然上人が四国、親鸞聖人が越後に流されています。だからこの日は安楽房が斬首された日なんです。つまり、後鳥羽上皇に命がけで念仏を相続しようとして殺された日なんです。それを門徒に人達が、二月九日を忘れないようにとしたんです。
 何故聖徳太子が現れてくるかと言うと、これは「和国の教主」です。「和国の教主聖徳皇」です。ですから、天皇が本当に念仏者に成られるならば、神国でなくて、聖徳太子のように和国になるんだと。そういう意味で、天皇にまともに念仏を相続しようとしたわけです。そういう一つの悲願を持っていたわけです。それが念仏相続なんです。報恩としての念仏相続の、そういう深い意味を持つわけです。神国ではなしに、和国の教主としての聖徳太子。和国という浄土を映し出すような国になる事を願ったということです。親鸞聖人当時の門徒の人達が、二月九日、安楽房の命日にですね聖徳太子に思いを寄せながら、和国を願って念仏を相続したということです。そういった事が報恩としての仏事の伝統なんです。
 それは江戸時代もずっと続いて、やはり門徒は、家の中にお内仏を持ったと。それが念仏を相続する大きな仏事だったと。それが報恩としての仏事です。そういう伝統が今日もやはり消えないであると。これを復活する事によって、家族という名の孤独とか家が崩壊すると、そういう中で先祖を中心にした家を復活するのではなしに、如来聖人の在す家を復活するという、そういう大きな責任が問われているのではないかと言えます。そういう事が仏事を見ていく中で、再度問われる問題ではないかと思います。
 時間がきておりますし、今日はここで終わっておきまして、明日は、初めに言いました「神明」と「触穢」の問題。これは習俗という事で、日常生活の身近にある問題です。「神明」と「触穢」の問題、そういった事に対して念仏者はどうあるべきなのか。これは親鸞聖人当時から一番苦労しているところです。そういった事を見られたらと思います。今日はここまでにしておいて、もし質問等がありましたら。


『教行信証』化身土本巻、『聖典』P360
「三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に 至るまで、二千一百八十三歳なり。」

『法然上人御仏事表白』、『聖教全書五』拾遺部下P92
「倩教授の恩徳を思えば、実に弥陀悲願に等しきものか。骨を粉にして之を報ずべし、身を摧きても之を謝すべし。依って報恩の斉 会眼前に修して、値遇の願念心中に萠す。」

『御伝鈔』上本巻、『聖典』P726
「建長八歳 丙辰 二月九日夜寅時、釈蓮位夢想の告げに云わく、聖徳太子、親鸞聖人を礼したてまつりてのたまわく、「敬礼大慈 阿弥陀仏 為妙流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無常覚也。」しかれば祖師聖人、弥陀如来の化現にてましますという事明 らかなり。」




07、無常院のはじめ(質疑応答)

《質問者》 最初の話しで些細な事なんですが。源信僧都が「二十五三昧会」をやられますが、これは出家だけの事ですか。
《講師》 いやそうではない。在家の人も入っておられました。二十五三昧会の時は在家の人も入っておられました。
《質問者》 それは町でやられたんですか、それとも比叡山ですか。
《講師》 比叡山ではなしに在所でやられました。その時は、「同心斉志」の者が中心でした。心を同じくし、志を斉しくすると。この同心斉志の者は誰でもなんです。浄土で再会しようと、そういう約束をするわけです。浄土を願生するその心を同じくする、その志を斉しくする者で結成されたんです。それが曖昧になった時は結社から外すわけです。
《質問者》 そうしますと、今までの仏教教団というのはお寺と檀那で分けておったんですが、横川の源信僧都のお仕事というのは、臨終というそこに僧俗を問わんところに一つの特長があるんですね。
《講師》 そうですね。源信僧都が問題にしておるのは祇園精舎です。祇園精舎というのは、祇樹給孤独園です。祇陀太子とそれから須達多という長者の寄進した精舎です。給孤独園というのは、須達多という長者が孤独な者達に家を与えて食を与えて世話をしておるんですが、釋尊の話しを聞いて、孤独な者達が本当に救われていく世界が、仏の説かれる教えに示してあるという事で、わざわざ釋尊を舎衛国に呼んで、そこで自分が道場を建てたんです。その時に祇陀太子の園を買って道場を建てたいという事です。その時、祇陀太子が、金を園に敷いて、その敷いた所を与えようと告げた。須達多長者が、金を敷き初めた。祇陀太子は須達多長者が、そこまでして仏の教えを聞こうとしておる心に感動して、自分の樹林を寄進したと。そういうふうにして出来たのがこの祇園精舎なんです。これは耆闍崛山とは違うわけです。『阿弥陀経』そのものが、道場に於いて、民衆の願いの中で建てられた道場に於いて、説かれたのが『阿弥陀経』の教えなんです。
 無常院というものの始まりは祇園精舎です。祇園精舎の西北の隅に無常院は建てられたんだと。そういう事を源信僧都は『往生要集』の中で書かれております。祇園精舎に無常院はあったんだと。だから、念仏者が臨終を迎える時に、そこに入ってそこで来迎を受けて死ぬんだと。これは大衆の中に建てられた道場だと。だから、そこへは誰でもなんだと。浄土を願生する者は誰でもなんだと言うて開かれたわけです。そういう伝統があるんです。


『往生要集』巻上極楽証拠、『聖教全書一』三経七祖部P777
「何に況や、祇園精舎の無常院には、病者をして西に面かへて、仏の浄刹に往く想いをなさしめんや。つぶさには下の臨終の行儀の ごとし。」

『往生要集』巻中別時念仏、『聖教全書一』三経七部部P854
「祇園の西北の角、日光の没する処に無常院となせり。もし病者あらば安置してなかに在く。おおよそ貪染を生ずるものは、本房の うちの衣鉢・衆具を見て、多く恋着を生じ、心に厭背なきをもってのゆえに、制して別処に至らしむるなり。堂を無常と号くるなり。」









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