当流の門人と号する輩、祖師先徳報恩謝徳の集会のみぎりにありて、往生浄土の信心においてはその沙汰に及ばず、没後葬礼をもって本とすべきように衆議評定する、いわれなき事。(『改邪鈔』十六『真宗聖典』(以下『聖典』)P689)と。その「没後葬礼をもって本とす」というのを少し展開して、
往生の信心の沙汰をば手がけもせずして、没後喪礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするように談合するによりて、祖師の御己証もあらわれず、道俗・男女、往生浄土のみちをもしらず、ただ世間浅近の無常講とかやのように諸人思いなすこと、心うきことなり。(『聖典』P690)つまり親鸞聖人の浄土真宗の流れを「無常講」と間違えておると。この事が非常に心が痛むという事を覚如が言うておるわけです。この「無常講」とか「無常導師の作法」、これは、没後葬礼と言いますか、人が亡くなった後、六道の事を説いたり、浄土の事を説いたり、また追善をしていく、そういう事を問題にしていくのが無常講だと。その無常講は浄土真宗と別なんだという事を言っているわけです。
もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまいるべきは安養の浄土なりと、おもうべきなり。(『聖典』P772)ここに出てくる「死出の山路のすえ」、或いは「三途の大河」、これが『十王経』の世界を表しているわけです。この『十王経』というのは日本で作られたとも言われる偽経なんです。きちんと言えば『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』というんですが、これは経とは言っているけれども偽経なんです。しかし、この『十王経』で説かれていることが、日本人の霊魂観とか先祖観とか他界観に受け入れ易い。その為、この『十王経』がどんどん一人歩きをするんです。伝承される過程で、民衆の中で『十王経』がどんどん作り替えられていく。例えば今でも、誰かが亡くなると、葬儀屋さんがみえると。大体棺桶の中に六文銭を入れるとか草鞋を入れるとか杖を入れるとか、そういう事がされます。これは全て『十王経』の、死出の山路を越えて行く時に杖と草鞋が必要だと。三途の河を渡る時、船頭にわたす金だと。そういうような信仰です。『十王経』は偽のお経ですけれども、『十王経』の中では三途の河に船なんか無いわけです。それがあるようになってしまっているという事は、民間に『十王経』が伝承されながら定着して作り替えられている事を示すわけです。
中有というは、十王の裁断なり。これは、存覚上人に『至道鈔』というものがあって、この『至道鈔』というものを元にして蓮如上人が「御文」を作っておられるわけです。出てくる元は存覚の『至道鈔』なんです。「中有というは、十王の裁断なり」という、これは今でも中陰というものが勤められているわけですけれども、中陰の事を言うておられるわけです。これは何故かというと、四有説というものがあって、命有るもの、存在しておるものはですね、生有、本有、死有、中有という存在のあり方をすると。生有というのは、我々ですと母親の胎内に宿ってオギャーと産声を上げて生まれてくるその時を生有というんです。今生きておるわけですけれども、やがて死んでいくわけですね。その死ぬ時を死有。生まれて死ぬまでの間を本有。死んだらそれで終わりかというと、死んだ時に、これがさっきの霊魂問題なんです。
願わくは師弟芳契の宿因によりて、必ず最初引接の利益を垂れたまえ(『聖典』P742)と、こういうふうに親鸞聖人の大きな教化にあずかりたいという事が言われておるわけです。
「上の置き字」○○○(戒名)「下の置き字」だから、真ん中にどんな戒名を記すかよりも、上と下にどういう字が置いてあるかによって、序列が分かるような仕組みになっているんです。差別戒名問題という事で、色々告発もあったし、そういう事が明るみにも出たんですけれども、『無縁慈悲集』を見るかぎり、そういうルールになっているんです。だから、住職がそういうルールに従って、しておるのかしておらないのかという事がチェックされるわけです。そういう時に、大谷派の初代講師の恵空は、門徒に限ってそういう上の置き字も下の置き字もないんだと言い切っております。そう意味では上に字を置くとか下に字を置くという事は無いわけです。上と下の置き字は、これで身分が分かってしまうんです。そういう仕組みなんです。