第三章





05、檀家制度の構造

 こんばんは。
 今回は、昨年に充分展開できなかった問題を「真宗門徒の国家観─―鬼神信仰としての神社信仰―─」という大きな問題を立ててお話ししております。昨日からの流れで続けてお話しをしていきます。最後に昨日のことも含めて、質疑の時間を持ちたいと思っております。
 蓮如上人が本願寺を再興された、親鸞聖人一流を再興された。それはどのように再興されることになったのかということを、少し急いで話しました。
 今日は、江戸時代に本願寺教団がどのような状況の中にあったのか、その時代に教団はどのような国家観を明らかにしていったのかを少し見ていきたいを思います。江戸時代の教団問題は今日にまで及んでいるわけですから、親鸞聖人のところに帰ろうと言っても、なかなか容易ではないということがはっきりしてきておるわけです。江戸時代の本願寺教団の実態を展開します。その時代の資料は沢山有りますが、それを取り上げて問題にするということはされておりません。資料が消されているということはないと思うのです。
 本願寺を中心にした本願寺教団の実態ということで、一つは過去帳の問題があります。そのことから、本願寺教団の実態を見られているという状況もありますが、あまりはっきりとはしていません。顕如上人の時とか教如上人の時は石山合戦を経過していく中で、本願寺が変質していくという問題があります。それは東西に分かれてしまうということも含めた問題です。石山合戦に敗れたと。一応朝廷を交えて和議を調えたということですが、織田または豊臣との武力衝突の中で本願寺教団は敗れました。そのことが、後に尾を引く問題としてあるわけです。
 その顕如上人、教如上人の時に本願寺が門跡寺院になったということが決定的な意味を持つわけです。皇族がその寺に入ってその寺の住職になる、その時に門跡とか門跡寺院ということになるわけです。今でも青蓮院の門跡であるとか大覚寺の門跡という言い方をします。本願寺の住職が門跡になるということは有り得ないことです。何故かと言うと、本願寺の親鸞聖人の流れを汲んでいる者達、つまり血統は直接天皇家と縁がありませんので、門跡になってみようがないわけです。顕如上人の時に九条家の当主と猶子関係を結んだと。猶子関係とは、血は繋がっていないのだけれども、親と子の関係を結ぶということです。本願寺の住職が、九条家の当主と猶子の関係を結んだ。その時初めて、門跡としての資格を得るわけです。そういうことから、顕如上人の時から門跡ということになります。
 東西が分かれた時に、教如上人は徳川幕府と縁があって、近衛家との関係の中で猶子になって門跡になると。東本願寺の方は近衛家の流れになるわけです。西本願寺の方は九条家の流れになるわけです。そういった門跡制というのは、江戸時代を通してありまして、明治時代になって大谷家の人々が伯爵となって門跡制度がなくなるわけです。ですが未だに門跡ということを言われる。東京へ出られた方は自らを浅草門跡だと、今でも、門跡、門跡と言うておられます。
 江戸時代は門跡であるということが一つの権威になるわけです。江戸時代は徹底した身分制度ということが一方にあります。そして徹底した寺請制度を布くわけです。寺請制度ということは、民衆がどこかの寺に所属するということによって、寺の住職が民衆を思想管理するわけです。初めはキリシタンということになるわけですから、キリシタンにならないように寺の住職が監視する。檀家が疑われれば住職は出かけて行って、その者はうちの檀家であってキリシタンに縁を持つ者ではないのだということで請け取る。そういう仕組みになっていました。ですから葬式の時でも、今でもですが亡くなった人の顔に白い布を掛けて、それをめくって死相を確かめるという作法が残っています。これは検死です。検死するということは、その者がキリシタンではないということを、死相を確かめながら、住職が最終的に引導を渡すということです。
 どこまでも日本は神国であるのです。だからキリシタンが入ってきて日本の民衆を全てキリシタンにしてしまって、神国を奪い取ってしまうのではないかという恐れの中から、鎖国もし寺請制度を徹底した。民衆がキリシタンにならないように監視していったのが、寺請制度であり檀家制度です。寺請制度、檀家制度は仏教ですが、根本は神国を前提にしているわけです。そういう寺請制度を布きながら、全体としてはこういう構造になります。「天皇―将軍―大名」という権力の流れで民衆を統治していくといくことがあります。その権力の流れだけでは民衆を押さえきれない。ですから「天皇─門跡―住職」という権威の流れで民衆を統治するということがありました。こういう構造が、江戸時代が三百年間続いた根本になるわけです。この時に門跡を権威付けるのが天皇になります。将軍といっても、天皇の承認の中ではじめて将軍ということです。天皇によって権威が裏打ちされているわけです。権威、権力を裏打ちしていく絶対的なものとして天皇は機能していたわけです。江戸時代の寺請制度、仏教政策というのは一番根本に天皇の絶対的な権威を立ててということになります。
 寺請制度といっても、はじめのうち民衆側は、それぞれ「私は一向宗に依って、私は禅宗に依って、私は浄土宗に依って」と、一人一人が自分の帰依する宗旨を選んで寺請制度は成り立っていました。ですから、お爺ちゃんは禅宗、お婆ちゃんは日蓮宗というようなことが成り立っていました。しかし後には家単位になります。そしてそれが五人組単位になります。また、初めは戸籍を寺が預かるわけですから、寺は行政側の仕事をしています。行政の仕事をしているためにその禄として、檀家の教化を許されるという形になってしまいます。禅宗になると禄は大名が寄進するわけですから、教化はしなくてもよいということになりました。後に行政の仕事が藩に移ってしまうと寺の仕事がなくなりますので、寺は過去帳を以て先祖を管理しながら、先祖祀りを勧めていくというふうに変遷していきます。当然、一人一人が「私は何宗に依って」ということではなく、家の先祖を祀っていくと。その場合、寺は葬送儀礼に関係するだけになります。亡くなった時に出掛けて行って、おかみそりをしたり戒名、法名を与えたりしてお葬式をする。その後、徹底して三十三回忌まで勤めていく。そのように先祖祀りに深く関係していく。そういうものが、現在まで続く檀家制度になっているわけです。
 門徒と言うても、本当に親鸞聖人の教えに遇うことができているのかということでなしに、住職さんに葬送儀礼、先祖供養をお願いしているということだけです。住職の方も、一人一人に本願の教えを相続するということではなく、亡くなった時に葬式を出して、迷わないで浄土に往生して仏に成るようにしていくということです。そういう意味では、住職さんが権威でなければなりません。住職が権威化していく時、本願寺の住職が権威を持っていないと地方の寺院住職の権威が崩れます。本願寺の住職は生き仏でした。




06、二尊教と一尊教の差異

 親鸞聖人の浄土真宗は二尊教です。二尊教というのは、釈迦・弥陀二尊釈迦諸仏と弥陀如来です。その時、釈迦・諸仏・善知識というのは教主になります。「私は阿弥陀如来に依って助けられた。皆さんも阿弥陀如来に依って助けられなさい」と、阿弥陀如来の下へ往くことを勧めていくわけです。これが発遣です。発遣の教命です。阿弥陀如来の下へ往くことを勧めることが教化です。ですから「私が助ける」ということではないわけです。救主は阿弥陀如来になります。教主と救主を立てていく。我々も教主の勧めに依って阿弥陀如来に出遇い、阿弥陀如来に依って助けられていくわけです。阿弥陀如来との関係で言えば、教主も我々も同じであると言えます。
 ここに三宝が成立するわけです。釈迦諸仏は仏そのもの―法を説く者です。阿弥陀如来とは法です。そして我々は釈迦諸仏の説かれる法を聞くと。そこに仏弟子としての私が成り立つわけです。仏弟子と成って、僧となって、釈迦諸仏の説かれる仏法に遇うて阿弥陀如来に救われていくのです。そういう意味では、三宝を具体的に示すのが浄土真宗の僧伽の特長です。
 浄土真宗は二尊教ですが、説くのも面倒ですし聞くのもなかなか面倒です。説くのを止めて聞くのを止めると、教主を救主にしてしまうということが起こるのです。そうすると教主がそのまま救主、つまり教主がそのまま阿弥陀如来になってしまいます。蓮如上人当時でも「知識帰命」という異義が盛んでした。「知識帰命」というのは、結局善知識を阿弥陀如来にしてしまうわけです。そうすると説きもしないし聞きもしない。善知識としての阿弥陀如来が助かると言われれば助かるし、助からないと言われれば助からないわけです。これが「知識帰命」です。蓮如上人は親鸞聖人の弟子になる中で、二尊教としての浄土真宗を顕らかにして真宗再興をされたということです。阿弥陀如来と釈迦諸仏を一緒にしてしまうのが一尊教ですし、一尊教が生き仏信仰です。
 早い時期に法主権というのができてきます。蓮如上人の頃にはきちんとした形ではありません。法主権というのは「後生御免」と生害権です。「後生御免」というのは、往生極楽についての決定権を持つわけです。その者を往生させるのもさせないのも、その決定権を持っているのが法主ということになるわけです。法主が往生させないと言えば、それは地獄に堕ちるしかないわけです。生害権というのは、法主からあの者は駄目だと言われて追放されると、殺されるのと同じだということです。つまり教団の中では破門された者をかばうことができないし、教団以外の誰かがその者をかばえば、かばった者を教団が潰してしまうということですから、誰も破門された者をかばうことができない。結局は野垂れ死にしてしまうわけです。法主は生害権を持っていたわけです。これが生き仏という意味になります。
 そのような生き仏を権威付けていくのが門跡です。つまり天皇家の血を引いていると。親鸞聖人の血では不足だということでしょうか。親鸞聖人の血では不足で天皇の血を入れて門跡となって、自らを権威付けていくわけです。本願寺教団に所属する者にとっては本願寺住職はそれだけで権威です。しかし一般の者にとっては、それはどうということはありません。けれども門跡ということになれば、日本人全体が天皇の血を立てる者として、これは権威になります。これが門跡信仰です。大谷家の人達も、長男だけは九条家と親子だとか近衛家と親子ですが、あとの者はそうではない。あとの者は親鸞聖人の血を引いているだけだけれども、長男は天皇家と縁を結んでいるということになると、非常にややこしいことになったのではないかと思われます。
 そのように血統を権威にする時に、一番根本にあるのが天皇信仰です。血脈(法脈)と言いますか、親鸞聖人の教えの流れの中で阿弥陀如来の本願に出遇うということがない限り、阿弥陀如来のもとに於いて皆兄弟だということが言えない。何時でも血統信仰との葛藤があります。  結婚にしてもそうです。最近は門徒の方でもお内仏の前での仏前結婚式はときどきあるようですが、寺に住む者の場合は御本尊の前での結婚式です。私はよく仲人をする機会がありますが、寺の場合でも先祖にどのような人がおられたかが問題になることがあります。けれども阿弥陀如来の前での結婚式ということになれば、お互いに阿弥陀如来の子としてそこにおいて結婚するということです。ですから世間の色々な事は、そこには無いことです。阿弥陀如来の子として迎えたとか、阿弥陀如来の子として来たとか、阿弥陀如来の子としてここで式を挙げるのだと。ですから先祖がどうとかという世間のことを超えて、阿弥陀如来の子が来られたと一言言えばいいことです。門徒の場合、御本尊の前の結婚とは、阿弥陀如来の子が一人来られたという意味を持ち、そのことが伝統されてきたのではないかと思います。
 そういう意味で、法がはっきりするとか血脈(法脈)ということがはっきりしないと、血統の中では、親鸞聖人の血筋すら除けて、最終的な権威として門跡だと言うて天皇の血を立ててしまったのです。この伝統は江戸時代を通じてあったということです。この仕組みが江戸時代の寺請制度が持っている問題です。何も仏法がはっきりしてということではなく、葬儀の時の引導とか極楽往生間違いないと見届けたとか、その為の権威付けの為の血統信仰です。
 近年「過去帳問題」が色々なかたちで明るみに出てきています。過去帳について私も色々調べてみました。過去帳というものは、源信僧都の頃から始まっているわけです。源信僧都の頃というのは、浄土で再会しようと約束した者達が念仏結社を作って、亡くなっていった者の名を過去帳に記したわけです。またその過去帳には、その者の死に様とか略歴を書いています。略歴とは、天皇であれば天皇というように、世間でその者がどの様な者であったのかを記します。死に様というのは、臨終の良し悪しということに非常に拘っています。臨終の良し悪しというのは、臨終の一念が正念であったのか正念を失ったのか、それによって何処へ生まれることになったのが定まるということが信じられたわけです。源信僧都はしきりにそういうことを言います。臨終の一念に生処が決定するわけです。ですから臨終の一念を記録するわけです。
 源信僧都の当時でしたら、臨終の時どの様な世界が現れているのか見えているのかを確かめながら記録したということです。その現れている世界の所へ往くのだと。地獄が現れているのなら地獄であり、浄土が現れている者は浄土なのだということです。ですから浄土が現れている中で死なせようとするわけです。これが浄土宗などにも伝統されている臨終来迎です。来迎絵などを示して、「浄土が見えた」と言わせながら死なせていくわけです。浄土が表れもしないし、浄土が見えないまま死んでいったということになれば、そこに問題が残ったということで、死に様を記録して追善をしたということです。浄土で再会しようということですから、何としてもその者を浄土へ生まれさせていこうということで、追善を徹底しました。そういう意味で、過去帳には死に様と略歴を書き残しました。
 その過去帳が江戸時代に復活してきます。江戸時代に過去帳が復活した時には、記載の仕方だけが復活しました。現在では寺の過去帳は封印がしてありますが、同和推進本部が一部調査をしてそれが『真宗』誌に出ました。
 過去帳の問題もですが、位牌の問題もあります。位牌にその者の戒名を記していくわけですが、位牌に記す戒名そのものが、その者が誰であるのかが分かるように記すわけです。その戒名を誰が見てもそれが誰であったのかが分かるということであれば、それは社会的身体です。身分記載になります。
 そのように色々な問題を抱えながら、先祖にしていくというのが、江戸時代の檀家制度の中の先祖祀りです。
 昨日も言いましたが、追善し回向することによって、往生を全うさせ成仏を全うさせていくという仏事の側面はあるわけですが、最終的には先祖にしていくことです。そしてそれは家の先祖だということですから、仏に成られたといっても家の先祖である。その家というのは仕組みがあって、天皇家の先祖の天照大神を頂点にした家の序列、先祖の序列ということになってしまいます。いくら成仏されました、往生されましたと言っても、先祖という限りはそれは家の先祖であると。そういう仕組みの中の先祖であると。檀家制度はそういう問題を抱え込んでしまっているということです。それは、いくら仏教だといっても、それは民族宗教としての神道です。総括として、江戸時代の寺請制度が持っている問題をはっきりとみていくことです。だからこそ、親鸞聖人の教えに適うように浄土真宗を再興しなければならないのです。そうした時に血脈(法脈)がはっきりしないと説けないわけです。本願に遇うということがない限り説けないわけです。その時、一尊教では浄土真宗はどこまでいっても顕らかにならないのです。
 蓮如上人もその問題に非常に苦労されたわけです。一面、勅願所としての本願寺は社会的存在としてはやむを得ない。けれども、内心に深く信心をたくわえてということがあります。そういう意味では徹底して念仏を伝えていく。やはり阿弥陀如来との出遇いがないと助からないのだと、一人一人に信心相続をされているわけです。ですから蓮如上人当時、教団が僧伽化しているわけです。ですから真宗再興ということがあるわけですが、それが石山合戦を通して本願寺が大名化していくわけです。しかも門跡寺院という問題を抱える中で江戸時代を迎えてしまう。浄土真宗といっても、本当に浄土真宗なのかと、そういう問題を抱え込んで江戸時代から明治時代という時代を迎えていきます。



「御文」二帖目十一通、『聖典』790頁
「されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりとこころうべきものなり。」

『往生要集』巻中別時念仏、『聖教全書一』三経七祖部859頁
「臨終の一念は百年の業に勝るといふ、若し此の刹那を過ぎなば、生処応に一定すべし」





07、親鸞聖人への反逆

 清沢先生の問題もありますが時間がありません。ですからいきなりですが、昭和になって教団が抱えた問題をみていきます。
 昭和十五年に東本願寺から、浄土真宗とはこのような教えなのだということが、公にされて発表されたという記録があります。驚くような内容です。題は「国体観念と真宗教義」というものです。これを見ますと、
真宗の教義は皇法を奉戴して成立せる日本仏教の性格をそなえたるものである。
とあります。ここに「皇法を奉戴して成立せる日本仏教」とあります。
 親鸞聖人が法然上人と共に承元の法難に遭われた時、また晩年に建長の法難に遭われた時、興福寺や比叡山から念仏者は問題があると訴えられます。その訴えの中で念仏者はどこに問題があるのかが示されています。それは、念仏者は勅許がないのに本願他力念仏宗を名告っている、一宗を名告っていることが問題なのだ。勅許がなければ私であると。私であるにも拘わらず、一宗を興行していることは以ての外であるという批判があります。どこで公と言えるのかという時、勅許があって初めて公であるというわけです。勅許も待たないで一宗を名告るということは、全く私的なことであって問題があるというわけです。そしてもう一つ、念仏者は霊神や神明に背き、それを疎かにしていることが問題であると訴えられています。この霊神というのは、皇祖神である天照大神です。念仏者は、本願だ念仏だ阿弥陀如来だといって、天照大神や神々を疎かにしている。これが問題だということです。
 こいうかたちの批判を比叡山や興福寺がしているわけです。ですから比叡山や興福寺というのは鎮護国家の宗教ということになります。国家を鎮護する為にある仏教です。親鸞聖人は何が公なのかを問題にして、それは阿弥陀如来の本願であり、仏法なのだと。本願に従い仏法に従うことが「公」なのだと言い切られています。これは鎮護国家の宗教と違いがあるわけです。ですから弾圧が起こっていきます。
 ですから、「真宗の教義は皇法を奉戴して成立せる日本仏教の性格をそなえたるものである」という言い方は、大いに問題があります。蓮如上人は本願寺を勅願所と言われていますし、江戸時代を通して、親鸞聖人の教えが見えなくなっているということではないかと思います。
 また「国体観念と真宗の教義」はこう続きます。
真宗教徒たるものは、各自が自己の職責を通して大政を翼賛したてまつり、大御心を奉戴し臣民道を全うすることが絶対の道である
と。「大政を翼賛」とか「大御心を奉戴し」ということがはっきりと言われているわけです。非常事態になってきた時、地方の住職もどのように対応してよいのか分からない。そういうことで、本願寺から「国体観念と真宗教義」というかたちで、情報が流れてくるわけです。そこで、「真宗教徒たるものは、各自が自己の職責を通して体制を翼賛したてまつり、大御心を奉戴し臣民道を全うすることが絶対の道」だと、そういう達しがあるわけです。そしてこの中で、
天皇帰一
ということが繰り返し言われています。天皇に帰一することが根本であると。一に帰すべきは天皇であると。この「真宗の教義」というものが永遠ならば、現在でもそうなってしまいます。天皇帰一であって弥陀帰一ではない。一に帰すべきは天皇であって、弥陀ではない。弥陀は帰依だと。ですから、阿弥陀如来に帰依しようと、釈迦如来に帰依しようと、大日如来に帰依しようと、それは天皇帰一ということが根本にあった上でのことであるということです。真宗教義の理解を、こういうかたちで情報として全国に流すわけです。
 親鸞聖人は、「御消息」の中で、その土地で念仏ができないのなら、どこの土地に移ってでも念仏を申し、生き死んだらよいと言われました。また、念仏を謗る者に念仏を伝えることが報恩なのだ。もし天皇が念仏に背かれるならば、天皇に念仏を勧めることが報恩なのだと、言いもし実際にそうされたわけです。それが、「朝家のおんため、国民のため」であって、天皇帰一と天皇の為ではない。弥陀の心が徹底することが「朝家のおんため」なのだと、「国民のため」なのだと言い切られているわけです。弥陀の御心が広がることが報恩でもあり、それが世の中安穏なることだと。その為に力を尽くそうと呼び掛けることが親鸞聖人の激励です。
 昭和十五年、「国体観念と真宗教義」ということでまとめたものが報告されもし流されもしているわけです。そういう中で、昭和十六年二月の十三日十四日十五日と「真宗教学懇談会」というものが開催されます。非常事態の中で教団としてどう対応していくのかということで、当時の教学者が召集されて会が開かれたわけです。当時、金子大栄先生とか曽我量深先生とか暁烏敏先生という若い先生達や、安井広度とか稲葉昌丸とか加藤智学だとか、そういう人達も含めて、真宗の教えに立って、「神祇」―神道問題を浄土真宗の中でどのように位置付けるのかという問題。ここに靖国神社の問題も論じられています。また「浄土教の厭離穢土欣求浄土に就て」とか、「真俗二諦」―これは臣民道として論点を絞って話されています。そして最後に「時代相応の真宗教学に就て」です。この四つにテーマを絞って三日間に亘って激論が交わされました。これが記録に残っていて、今から十五年程前にこれが公開された時には、みんなが驚愕したわけです。これを人に見せてもよいのかと問題になりました。当然、これを見て知って、そして担ってということがないと始まらないということで本にもなりました。
 ここで金子先生とか曽我先生が何を言うておられるかというと、それは驚くべき内容です。曽我先生は、「阿弥陀如来の本願と天照大神の本願は同じだ。違ったら大変だ」、と頭に血を上らせながら語っておられます。親鸞聖人についても「親鸞神社を造ったらどうだ」ということさえ言われているわけです。金子先生も『浄土の観念』で宗門を追放されましたが、浄土の問題について非常に深くみておられます。それでも、国家の問題は見落としてしまわれるわけです。国家を相対化しようとしても、国家の中に居るわけですから、国家が相対化できないわけです。念仏に依って本願に遇うて浄土に心が開かれた者は、国家が相対化できるはずです。それが何故そうならないのかと言うと、それは浄土というても、死んだ後の浄土が問題になっているからです。生きている間はこの世、死んだ後は浄土と分かれてしまっている。信心決定の時に即得往生と心に浄土が開かれるわけですから、心に浄土が開かれた者として、ここを生きるのだと。ですから心に浄土が開かれた者は国籍が二つあるのです。浄土こそ故郷本国だということです。そのことを繰り返し親鸞聖人は言うておられますが、それが落ちてしまっている。それは江戸時代を通して、全て死んだ後のことであるという仕組みの中に飲み込まれていたという状況でした。ですから近代に入ってもそれがはっきりしなかったわけです。それが戦後、やっと問題になってきた。そのことが問題になってきた中で、新たに同和問題であるとか靖国問題が問われてきました。
 そしてもう一つ問題になるのは仏事問題です。私は必ず仏事問題が問題になってくると思っているのですが、今は逆に仏事ブームで、大切なことが問題にならない。問題にならないということは、反動として過去の在り様に戻ってしまう。
 そういう意味で今の時代は、元へ戻るのか、問題を抱えて前に出るのか、大きな選択の時、決断の時です。そういう状況の中で、もう一度親鸞聖人がどういう国家を願われたかを見ていかなければならないと思います。
 少し休憩をいたします。



「国体観念と真宗教義」、北陸群生社編『資料集大日本帝国下の真宗大谷派教団』39頁
「一、国体観念と真宗教義
真宗の教義は皇法を奉戴して成立せる日本仏教の性格を備えたものである。
故に真宗教徒たるものは各自が自己の職分を通して大政を翼賛し奉り大御心を奉戴して臣民道を全うすることが絶対の道であって天皇に帰一し奉る国民の態度に一二のあるべき筈なし。真宗の皇法為本と立てるのは真宗教徒はそのまま国民としての臣民道を全うすべきき大責任を荷負しこの生活を離れては信仰存立の意義をなさぬからである。従って皇法為本とは国民生活の立場から言えば臣道為本と解釈すべきである。
天皇帰一の臣民道と阿弥陀仏の信仰(弥陀帰一)とは如何なる関係を為すものかと言うに仏教はその伝来の初め先ず皇法の中に受容せられ歴朝の大御心により御加護を賜って居るのであるから阿弥陀仏の信仰は皇法の中に包摂せられるものといただかれる。而してこの信念の必要なる所以のものはまことの臣民道を全うする上に於いて真に自我を滅し天皇に帰一し奉るべき指導的精神と感受せられるからである。
滅私奉公の臣民道の完成が国民の絶対目的であると信ずる吾々にとってはその完成の道として仰がれる真宗の信仰は言うまでもなく真実のものでなくてはならない。蓋し真の生活行為は真実の信仰によってのみ実現せれるからである。国民が自己の職分を遂行する道は種々雑多である。然しその何れにしても自己の行為をあやまって完全なりと是認し@慢に流れるが如きことが若しあるならばそれこそ全く臣民道に反することとなるのは明らかである。由来日本精神は諸外国の文化を拒否して自己の殻中に閉じ篭るような固陋なるものではなくて常に謙虚な心を以て一切の文化を受け入れよくこれを同化して行く生成発展の精神である。されば我等はどこまでも謙虚な心を以て反省につとめ素直に教を聞いてゆくものでなくてはならない。従って真宗に於て自力無効を説き絶対他力の救済を強調する所以のものは現実生活に於ける国民道徳の遂行を弱めるものでは勿論なく謙虚な心に受け容れられる他力回向の大信によって愈々天業の翼賛に邁進するものである。真宗教徒による臣民道の達成即ち従来真宗の強調し来れる皇法為本の生活はその信の本質からして報恩感謝の心持に終始裏付けられて来たのであるがこの報恩行を説き勧める真宗の教が国民道徳の自立的な信念を益々昂揚し来れることは歴史的事実の証明するところである。
かくして天皇帰一と弥陀帰一との意味に関して天皇帰一に対して正しくは弥陀帰依と呼ばるべきものであり弥陀一仏を信ずる意味であるから天皇帰一と相対すべきものでないことを特に注意する必要がある。」

「真宗教学懇談会」、北陸群生社編『資料集大日本帝国下の真宗大谷派教団』3頁











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