第四章





08、和国の伝承

 限られた時間の中で問題を見ていっているわけです。
 親鸞聖人が願われた国家がどのように顕らかになるのかということが問題です。それが原点であり根本です。そこへ帰っていけるのかどうかということです。
 親鸞聖人が晩年に書かれた、現在高田の専修寺にある、『曇摩訶菩薩文』というものがあります。曇摩訶菩薩といのは法蔵菩薩のことです。
娑婆世界王、無諍念王、出家後、名法蔵比丘
このように記されているものが残されているわけです。この法蔵菩薩というのは、『大無量寿経』の中でも、
時有国王。聞仏説法、心懐悦予、尋発無上正真道意。棄国捐  王、行作沙門、号曰法蔵。(『聖典』10頁)
と説かれています。法蔵菩薩が実は四十八願を建て阿弥陀と成って浄土を建立します。『大無量寿経』はそういう展開になると記しています。法蔵菩薩と名告る前は娑婆の国王でした。法蔵菩薩に成る前の娑婆の国王について、『曇摩訶菩薩文』は「無諍念王」だと記しているわけです。この名は『悲華経』の中に出てきます。また『述文賛』 の中に「無諍王」という言い方として出てきます。親鸞聖人はどこからこの「無諍念王」という言葉を引用しておられるのかということは、親鸞聖人は何も言われていませんので定かでない。しかし、「時に国王有り」の国王が「無諍念王」であったということに大きな意味があると思います。無諍―諍いの無いことを願うという国王です。
 私達が生きていれば、そこには必ず争いということが起きてきます。みんなが自我を中心に生きていると、自我意識を中心にしてそこには争いが起きる。我々人間だけでなく動物の世界でも、互いに殺して食べ合うということも起きてくるわけです。そういう意味で、生きている限り、争わないでは生きることができないという、悲惨なかたちで生きるということが展開していくわけです。しかし、その争いの中で、争いの無いことを深く願っていく、そういう願いが深まるということもあります。争いの真っ直中にいながら、争いの無いことを深く願っている一人の国王。その国王が、たまたま世自在王仏の説法を聞いて、ここに争わないで生きていける世界があると気付いた。そういうことから仏法に帰依していったという経緯が読みとれます。
 「時に国王有り」の国王は「無諍念王」であり、この「無諍念王」が世自在王仏に出遇い、法蔵菩薩と成ったと。親鸞聖人は、法蔵菩薩の棄てられた国と建立された国が、どのような国であったのかということに関心を持っておられたわけです。四十八願を成就して浄土という国を建立されたということがありますが、それを単に『大無量寿経』の物語にある国ということではなく、親鸞聖人は具体的にどのような国が実現したのかということに関心を持っておられたということが分かります。
 親鸞聖人は阿闍世王に深い関心を持たれています。阿闍世は外道提婆との関係の中で父王頻婆娑羅を殺します。そしてその提婆と父を殺した阿闍世と共に新しい国を造るわけです。けれども後に仏縁があって、父を殺したことを深く懺悔する中で、提婆と離れて釋尊との出遇いの中で「無根の信」を得たと『涅槃経』 には記してあります。この「無根の信」とは、本願念仏の仏法に出遇って念仏者に成ったことを表しています。そして念仏者に成った阿闍世がどのような国を実現したのかということに、親鸞聖人は関心を持っておられます。ですから『涅槃経』の中で阿闍世がどのように救済されたかということを、信巻の中で長々と引用されているわけです。単に阿闍世が救済されたということではなく、阿闍世が救済されることによって、国王としてどのような国を建立したのかが重要なことです。国王として建立する国がどのような国かによって、国民全体が助けられていくことになります。
 そういう問題を親鸞聖人は、聖徳太子のところに展開されています。阿闍世が念仏者と成ってどのような国を造っていったのかという関心が、阿闍世のところでは切れてしまうわけです。阿闍世が実現した国、本願に帰依した念仏者としての国王阿闍世がどのような国を実現したのかを、聖徳太子の問題と重ねてみておられます。それは「和讃」に於いても、聖徳太子関係の「和讃」は多いわけですし、『七十五首和讃』だとか『百十四首和讃』だとかがあります。「三帖和讃」の中にある『皇太子聖徳奉讃』は十一首ですが、ここに聖徳太子のことを、「和国の教主聖徳皇」という言い方で表されています。
和国の教主聖徳皇  広大恩徳謝しがたし  一心に帰命したてまつり  奉讃不退ならしめよ(『皇太子聖徳奉讃』八、『聖典』508頁)
と。ここでは「和国の教主聖徳王」ですが、聖徳太子は『十七条憲法』を作って、『十七条憲法』によって国家というものを具体化されています。『七十五首和讃』の中では、
十七の憲章つくりては  皇法の規模としたまえり  朝家安穏の御のりなり  国土豊饒のたからなり(『皇太子聖徳奉讃』五八、『聖教全書』二宗祖部538頁)
という「和讃」があります。ここに「皇法の規模」とか「朝家」という言葉があります。この「朝家」は、確かに天皇によって統治される国ですが、この「朝家」は神国としての「朝家」ではないわけです。「十七の憲章」そのものが仏法を中心にした憲章ですし、その仏法は如来の悲願です。本願念仏の仏法です。そういう意味では、決して神国としての「朝家」を言うておられるのではなく、本願念仏の仏法によって造り上げられた「朝家」、そういう国家です。これが「和国」です。「和国の朝家」です。親鸞聖人は晩年、自らを「和朝愚禿釈の親鸞」と名告っておられますが、この「和朝」は単純に日本国という意味ではなく、本願念仏の仏法に依って造り出された国、浄土を映し出すような国としての国家です。はっきりそこに、親鸞聖人が国家というものを、聖徳太子の上に見ておられます。それは親鸞聖人の独断と偏見ということがあるかもしれませんが、聖徳太子の仏法というのは、念仏なのだ。そしてその念仏に依って国家を造られたのだ。だから神国ではない、「和国」なのだと言われているわけです。ですから聖徳太子の絵像というものが、門徒の寺の余間に必ずお給仕されているわけです。それは神国の聖徳太子ではなく、和国の聖徳太子であると。門徒の中では、聖徳太子をお備えする中で、「和国」としての「朝家」を願っていた歴史があります。
 蓮如上人が最晩年石山に本願寺を建立されるのですが、石山本願寺は吉崎であるとか山科とは違うわけです。それは蓮如上人が門徒の人達に名号本尊を書いて与えた、その冥加のお金、懇志によって石山本願寺は建立されたわけです。蓮如上人は、これは他とは違うのだといことをはっきり言われています。また聖徳太子が四天王寺を建てられる前に寺を建立されたのが石山で、その後に本願寺が建てられたという伝説があります。そういう意味では、聖徳太子に対する信仰は門徒の人達の中で、長い時間を貫いてあるわけです。それは「和国」への悲願です。寺側と言いますか、住職側は、「和国」を忘れて神国だということになっても、門徒の人達にすれば、やっぱり「和国」なのだと。そのように、民衆と言いますか、門徒の中で念持し相続されたのが聖徳太子です。ですから門徒の寺には必ず聖徳太子の絵像があります。
 親鸞聖人は、このような和国観を聖徳太子の中にみておられます。浄土を映し出すような国家、国というものは、一人一人が本願念仏に遇うということを抜きにしては実現しないわけです。ですから権力闘争をして「和国」を実現するということではないわけです。
 蓮如上人の頃、室町幕府の末期に応仁の乱が勃発します。応仁の乱の時の一方の総大将は細川勝元です。この細川勝元の息子の政元が聖徳太子の生まれ変わりだという伝説があります。どうも聖徳太子の問題というのは蓮如上人の頃から切れてしまいます。何故切れるのということは、はっきりしません。しかし和国としての国家―本願念仏の仏法を中心にした国造りというものを、世直しと言いますか、権力闘争、武力闘争で実現しようとした門徒の人達もあったのではないかと思われます。それを代表するのが細川政元です。蓮如上人はそういう形での「和国」の実現ということを、吉崎合戦以後放棄しておられます。吉崎の合戦というものは、仏法の為ということで戦闘に入るわけです。蓮如上人はそれを放棄され、そういう形では駄目なのだということを言い続けられます。「和国」は、本当に一人一人に念仏相続をすることに依ってしか実現しないのだということです。そういう意味で蓮如上人は、戦略を変えておられるわけです。そういう意味で、聖徳太子を立てて、世直し的に「和国」実現の為に一揆を起こしていくという線と決別しておられる。よくみると、蓮如上人の場合にはそういう状況があります。
 本願寺で「酬徳会」というのが勤められていました。この「酬徳会」というのは、どちらかというと本願念仏を相続するのにご苦労のあった人達を讃えるというお勤めでした。これは明治以降のことです。戦時中になってから、国家の為に戦死するのは仏法の為に死んでいくことと同じだということで、戦死者の為に「酬徳会」が勤められていたわけです。亀山天皇の天牌を中心にして「酬徳会」を勤められます。これは改めなければならないという運動がありました。その時、どのような人の名前が記されているのか、私も見る機会がありました。本願寺の為と言いますか、法義相続の為に特に苦労された方々の名前です。戦死した方の名前は書かれていませんでしたが。ただ、細川勝元と細川政元の名前が書いてあったのには驚きました。「酬徳会」に於いて、細川勝元と政元の名前を記して勤めていたのです。皆さんはご存知ないかもしれません。何故細川勝元、政元なのかというと、これはやはり聖徳太子の問題です。
 門徒大衆の中にあるのは、親鸞聖人が言われるような「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」ということが具体的に実現しなければ、そういう国家にならなければということがあるわけです。「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」という時、国家がどのような国家であるのかということが左右するわけです。本当に仏法に依る国家、聖徳太子が願われたような仏法に依る国家が本当に造られている時、民衆というのは安心して生きていくことができるのだと門徒の人達は考えているわけです。そういう意味で国家願望というものが強くあるわけです。その国家願望の底を流れているのが「和国」です。親鸞聖人もそうでしたし、蓮如上人の選択としては、一人一人に念仏が相続され、その念仏者によって「和国」が実現することを願われました。
 具体的にどういうことか。単純に言ってしまえば、法然上人が承元の法難の時に讃岐の国に流罪に処せられた時、今でもありますが四国に入ってすぐの所に塩飽島という島があります。そこに高階入道西忍という念仏に深く縁を結んでいた者がいて、そこに法然上人が寄られて念仏を勧めておられます。その時このようなことを言うておられます。「常不軽菩薩のように、どのようなはかりごとをめぐらしても、念仏を相続するように」と語り掛けておられるのが、法然上人の絵伝などを見ているとあるわけです。この常不軽菩薩というのは、『法華経』の中の「常不軽菩薩品」に説かれる菩薩です。常不軽というのは、どのような人に会っても、「貴方の中には仏性が宿っていて、やがて仏に成られる尊い方だ。だから貴方を本当に尊敬します」と言って、手を合わせて礼拝した菩薩です。すると皆が、この人はおかしいのではないかと、石をぶつけたり木で打ったりする。すると常不軽菩薩は逃げる。けれどもやはり、「貴方を尊敬する」とその人を礼拝し続けたのが常不軽菩薩です。
 一切衆生は、阿弥陀如来によって仏に成る者なのだと尊敬もされ信頼もされている。だから諸仏たちは我々を、どのような時も軽蔑したり排除したり見捨てたりしないで縁を結び続けられ、念仏申して浄土に生まれよと呼び掛けられています。ですから阿弥陀如来の本願に遇うた者は、一切衆生が阿弥陀如来によって必ず仏に成る者として見出されているのだと、一切の人を尊敬し信頼するのです。そういったことがあって、法然上人は常不軽菩薩のことを取り上げておられます。常不軽菩薩のような者が念仏者なのだということを、法然上人が身近なかたちで言うておられるわけです。
 ですから浄土を映し出す国というのは、一切の人を尊敬し信頼するからこそ、問題があるならば、はっきりと問題があると言っていく。そのことが念仏相続です。そのような念仏者が生まれることを通して造り出されるような世―界国です。
 先日私は死刑制度のことで明治大学の菊田先生と出会ってきました。この方は犯罪学を専門に学んでおられる方です。この方と話をしていると、菊田先生は自らを親鸞聖人と縁のある門徒だと言われていました。この方は親鸞聖人の教えをよく分かって下さっていて、様々なことをする時、親鸞聖人の門徒として親鸞聖人の教えを基礎として、それぞれ活かしていくことがあるのだと言われていました。そう考えますと、様々な分野で活躍されている方―政治家、学者、経営者などが本願に遇われる、念仏者に成られると、そこで浄土造りをされるわけです。ですからその人達に念仏が伝われば、その人達が念仏者として自分の生活の現場を造り変えていかれるということがあると思います。
 そういう意味では、小淵総理が念仏者になるとか天皇が念仏者になるというようなことを、親鸞聖人当時の門徒の人は単純に願われ、そうなる世界を願われておられました。そこへ蓮如上人も行かれたわけです。本当に本願を信じれば、如来を信じれば通じていくのだと、そのような関係の仕方です。そして縁ある人が念仏者に成られたならば、その場から浄土造りが始まるのだと信じておられました。そういう教化、念仏相続による「和国」の実現、念仏を中心にしながらの国造りということは、決して夢のような話ではないのだということを、蓮如上人は実際に実践されたのだと思います。けれども江戸時代に入りますと、そのことを諦めてしまった。だからこそ逆に現代に於いて、親鸞聖人の教えの元に帰ろうということです。
 親鸞聖人や門徒達が願われた「和国」の実現ということが、現代の課題としてあるのではないかと思います。そのようなことを、現代に於いて総括的にみておくべきだと思います。そういったことで、今回は「門徒にとっての国家観―鬼神信仰としての神社信仰」ということを批判するかたちで話をしました。  少し時間がありますので質疑を受けてと思います。



『教行信証』行巻、『聖典』183頁
「すでにこの土にして菩薩の行を修すと言えり。すなわち知りぬ。無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり、と。」

『教行信証』信巻、『聖典』265頁
「世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。」

『妙法蓮華経』常不軽菩薩品第二十、平楽寺書店版『縮刷妙法蓮華経』386頁
「時に一の菩薩比丘有り、常不軽と名く。得大勢。何の因縁を以てか常不軽と名る。是比丘、凡そ見る所有る比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を、皆悉く礼拝讃歎して、是言を作く、「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は何、汝等皆菩薩道を行じて、当に作仏することを得べし」。(略)四衆の中に、瞋恚を生じ、心不浄なる者有り。悪口罵詈して言う。「是の無智の比丘、何の所従り来て、自ら我汝を軽しせずと、我等に記する、当に作仏することを得べしと授記する。我等是の如きの虚妄の授記を用いず」と。此の如く多年を経歴して、常に罵詈せられるも瞋恚を生ぜず。常に是言を作す。汝当に作仏す。是語を説く時、衆人或いは杖木瓦石を以て、之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶高声に唱えて言う。「我敢えて汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし」と」





09、南無阿弥陀仏の自己決定(質疑応答)

《質問者A》講義の中で江戸時代の支配体系を、権力の系図、権威の系図ということで言われていました。この権威の系図というのであれば、神社を利用した方がよかったのではないかと思います。何故この役割を仏教寺院がしたのでしょうか。
《講師》皇室は仏教にも深く縁があったということがあったわけです。  後鳥羽上皇も実は仏法に帰依しておられた。しかし本当に念仏者に成っておられたのかというと、そうではない。それは、承久の乱の時に隠岐に流された後です。
 親鸞聖人はこのことについて『三帖和讃』の中に、このようなことを書かれています。これについて親鸞聖人は何も語っておられませんので、読む側で考えていかねばなりません。ここに、
阿弥陀如来  観世音菩薩
         大勢至菩薩
釋迦牟尼如来 富楼那尊者
         大目 連
         阿難尊者
頻婆娑羅王  韋提夫人
         耆婆大臣
         月光大臣
提婆尊者   阿闍世王
         雨行大臣
         守門者(『聖典』483頁)
と。このように四つのグループに分かれて、それぞれ名前を記してあります。頻婆娑羅とは釈迦如来に帰依している在家の信者です。在家の信者であるけれども、仏法に帰依する者という立場で、国王として政治をしているわけではない。阿闍世の場合は、初めは提婆に帰依し父を殺し、そのことを縁として自分の救済の問題を抱え、釈迦に遇い阿弥陀如来に遇いました。頻婆娑羅の場合は、自分が本当に救済されなければならない者として仏法に帰依しているのではない。外護者と言いますか、仏法を外から護る者です。
 同じような意味が天皇にあります。そういう意味で、仏法に帰依者ではないけれども仏法を外護する者です。それは利益を求めてのことです。例えば比叡山は鎮護国家の為、天皇や国家の利益の為を祈祷する場です。そういう意味で仏法に帰依して生きるのではなく、一つ間違えば今の自分の立場を鎮護し祈祷する為に仏法を利用していくわけです。吉凶禍福です。吉と福を求め凶と禍を払う、正に罪福信仰です。この罪福心に立って仏法を帰依する。天皇はこのようなかたちで仏法に縁を結んでおられたと思います。そういうことですから、根本的には帰依するものは先祖であるとか神道です。
 一般に浸透しているのは仏法です。後生の問題から、神徒まで仏に帰依することがあったわけです。これは蓮如上人当時から同じです。蓮如上人のお弟子に幕府に出入りしている医者の仰西房という人がいました。この人は蓮如上人に対して、「この世のことは天照大神に頼んで、後生のことは貴方に頼むのだ」と言われて、蓮如上人と深く縁を結んだということが記録にもあります。
 後生の問題は神の力でもどうすることもできないので、仏法に帰依する仏に帰依という考え方を民衆全体が持っていたのです。この世は神様、死後は仏様という非常に素朴な信仰形態が全体に行き渡っていたと思われます。神仏混合と言いますけれども、今でも生まれた時は神社、死んだ時は寺だと。生きている時は神社・神様、死んだ時は寺・仏様ということが、何の矛盾もなく共存しています。
 民俗学では、プラスの「晴」とマイナスの「晴」ということを言います。プラスの「晴」は神事、マイナスの「晴」は仏事です。この「晴」というのは、共同体のメンバーが全て集まる正式な時と場です。神事にしても仏事にしても「晴」です。その時は共同体が全員集まるわけですから、そこに参加しないと共同体から外される。その「晴」の時は秩序がはっきりと公になる時です。例えば焼香の順番が狂ってはいけないとか、結婚式の時に何処へ誰が座るか間違うと大変だということです。そして普段の生活のことを「褻」と言います。この「褻」も、「晴」ということを心に収めておいてのことです。この「褻」が「カレル」─―「ケカレル」と秩序が混乱するわけです。秩序が混乱することを「褻」がかれたと言うわけです。「褻」がかれた時にもう一度「晴」をする。「晴」をすると秩序が混乱している状態を直し、秩序が回復するわけです。「晴」をすることによって、かれた「褻」を健康な状態に回復して日常の生活を回復するのです。
 生きている時は神事、死んだら仏事です。しかし、生きていても死んでも秩序は変わらないわけです。先祖と言うても生きている時の秩序はそのままです。あの世でもこの世でも、秩序は変わらないわけです。それが混乱してはいけないということで、神事をしたり仏事をしたりするわけです。一貫しているのは、日本の社会の中での秩序です。それが血統信仰になってしまっています。
 門徒の場合はそこに違う秩序をもうけました。それが報恩講です。報恩講が「晴」です。これは御本尊・阿弥陀如来を中心とした秩序ですから、一切衆生は全て同じだということになります。御同朋としての秩序です。御同朋としての秩序は、本願の開く時と場に参加することによって回復される。それが報恩講です。蓮如上人は報恩講を非常に大事にされます。報恩講の中で改悔懺悔しなさいと言われます。一人一人が阿弥陀如来との関係を回復しなさい。その為に改悔懺悔しなさいと言われるわけです。改悔懺悔とは親鸞聖人と真向かいになるということです。親鸞聖人の前に一人一人出て改悔懺悔した。一人一人は大変なので『改悔文』を作って皆で改悔した。そういう意味で門徒の「晴」は報恩講ですし、御本尊を中心とした秩序の回復を願ってのことです。
 普通に言う秩序は天牌を中心とした秩序です。江戸時代の位牌の意味は、天牌を中心とした位牌の序列です。ですから隠された本尊があるわけです。それが天皇の尊牌です。

《質問者B》山折哲雄などは本願寺派の僧侶であるのに、民俗学の立場で神事や仏事について発言をしている。そのことが、先程からの先生のお話しに出てきます宗教環境の中で生活している一般の門徒の人には入り易いように思います。そのことが我々僧侶の立場としては困ります。
 真宗の僧侶と山折哲雄のような立場には、ずれがあるように思うのですが。
《講師》山折さんもオウム事件が起きた時、『歎異抄』の三章は問題である、悪人正機は問題であるという発言をされました。「御堂新聞」で寺川先生が山折批判をされました。それに対して山折側から反論があるのかと思っていたら、ありませんでしたが。
 失礼になるかもしれませんが、本願を選んでおられるという徹底がなければ何とでも言えます。御本尊についても、南無ということがなければ本尊になりません。
 この間も学生が感話をしました。小さい子供が念仏を喜んでいる。何時でも南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えているということで、お婆ちゃんが非常に感心な孫だと褒めていた。ある時このお婆ちゃんは孫に対して、「どういう心でお念仏しているのか」と聞いてみた。孫は「言うてもいいか」と何回も念を押してから、「お婆ちゃんが早く死ぬようにや」と答えたそうです。阿弥陀如来に参っているし、念仏も称えている。しかし南無がない。自分の立場を全うする為の阿弥陀如来だとか念仏です。手段化された念仏です。これが罪福心です。
 本尊というのは、南無した者のところにしかないわけです。南無阿弥陀仏と阿弥陀仏に南無することが決定していないと、何とでも言えます。  神道も仏教も自我を中心とした鬼神信仰なってしまっています。鬼神信仰というのは外にあるのでなく、内の吉凶禍福に迷う心が鬼神を作ってしまう。内なる鬼神です。それにとどめを刺すのが南無阿弥陀仏です。
 山折さんが門徒だと言うても、阿弥陀仏に南無するという自己決定をしておられないと、何とでも言えるということです。
《質問者B》山折さんが本願寺派で葬式の導師をしておられると、我々と同じ立場にみられてしまいます。
《講師》オウム事件の時に悪人正機が問題だと言われた。世間が悪人を批判している時に、悪人が助かるのでは都合が悪いということで、教義から悪人正機を除けようとするわけですから、世間体とか世間の都合に合わしているわけです。世間によっては、念仏で敵兵を殺すことも有り得るわけです。
 阿弥陀如来の摂取不捨の心、大慈悲の心に従って生きるということは、南無ということがないとありません。ですから阿弥陀如来を利用する結果になります。
 高史明さんが言われていましたが、阿弥陀如来に南無するという自己決定をすると日蓮宗から声が掛からない。自己決定してしまうと、かえって狭くなるような気がするのではないかと言われていました。しかし、阿弥陀如来に南無するとはっきり言われたのは高先生です。ですから文化人が自己決定するということは、それだけ世界が狭くなると思うてしまうのです。しかし、南無阿弥陀仏と自己決定したことによって、逆に日蓮宗の人ともキリスト教の人とも話ができるようになるはずです。本願は十方衆生への本願ですから、仮の仏弟子も偽の仏弟子も全て包んでしまうのだという、そういう意味での自己決定はなかなかし難いものです。
 自己決定すると世間的には一つのセクトのようになってしまいます。浄土真宗という一つのセクトです。親鸞聖人が浄土真宗と言われる時は大乗の至極としての浄土真宗であるから、偽の仏弟子も仮の仏弟子も包んのことです。しかし現在は、セクトでない浄土真宗というのは分かり難くなっているのではないかと思います。「貴方は何宗ですか」と聞かれた時に、何も答えないわけにはいかない。「私は浄土真宗に帰依して生きているのだ。法に帰依し真実に帰依して生きているのだ。そういうセクトとしての何宗ということではないのだ」という言い方が正しいかもしれません。









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