1、僧伽と教団との相互関係「真宗門徒の国家観」ということで話をしてきております。その「真宗門徒の国家観」が、親鸞聖人の場合はどうなっておるのかということを見てきました。親鸞聖人の時は「教団」という組織になっていないわけです。ですから単純明快です。しかし我々の場合は、その教団という社会的存在の中に位置付けられておりますから、親鸞聖人の教えを一人の人間として聞く場合と、教団に所属している者として聞く場合と、そこに色々と難しい問題があります。教団の問題として国家の問題を言う時に、蓮如上人はどうであったかが問われてきます。昨年は蓮如上人の御遠忌でしたが、何かもう一つ蓮如上人の抱えておられる問題をはっきりさせないままで終わってしまいました。
2、阿弥陀如来の御掟と開山聖人の御掟係ただ蓮如上人には二つの掟というものがあります。『蓮如上人御一代記聞書』の七十六条の中で、
聖人の御一流は、阿弥陀如来の御掟なり。(『聖典』869頁)と言われています。「阿弥陀如来の御掟」というのは「唯除」ということです。「唯除」というのは、知らしめることによって、その者を摂取していくということです。ですから、我々が五逆の者である、また謗法の者である―本願の縁ができたのだけれども本願を疑っているとか、如来に縁ができたのだけれども如来を疑っているとか、そういう問題を抱えている者である。「唯除」とは、その本願を疑う罪の深さというものを徹底的に知らせて、そして本願との関係を確保していくということです。これは「信心為本」です。信心為本というものは、「唯除」の自覚です。阿弥陀如来は、「唯除五逆、誹謗正法」というかたちで問題を知らせながら、本願との関係を修正する。これが阿弥陀如来の掟です。一人一人が信心の行者として立ち上がっていけるように、掟と言っても裁いて排除するのではなく、知らせて摂取するという掟です。
右斯聖教者、為当流大事聖教也。 於無宿善機、無左右不可許之者也。(『聖典』642頁)という言葉があります。我々が本願に遇いながら本願を疑う。だから本願を手段としていく問題を厳しく知らせていくのが、蓮如上人の「無宿善の機」の問題です。
まず開山聖人のさだめおかれし御掟のむねを、よく存知すべし。その御ことばにいわく、「たとい牛盗人とはよばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべからず。(『聖典』810頁)これは先程申しました「阿弥陀如来の御掟」と深く関係する言葉です。問題はその次です。
またほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさきとし、 内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねん ごろにおおせさだめおかれしところに、(同上)これが蓮如上人が言われる「開山聖人の御掟」です。「ほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさき」とする。「内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」と。ですから、内心に深く本願他力の信心をたくわえていくということと、「ほか」―世間の中で生活していく時には、仁義礼智信をまもりて王法をさきとすべきだという言い方です。蓮如上人は、「開山聖人がさだめおかれし御掟」と言って、教団に所属する者として外には王法を先とすべきだと言われているわけです。三帖目の十二通目にも同じような、
まず王法をもって本とし、(『聖典』812頁)と。「本とし」と言われてしまったところに、蓮如上人の大きなつまずきがあるわけです。三帖目十一通目のところは、「王法をもってさきとし」と。「本」ではなく「さき」、つまり「王法為先」なのだと言われています。ところが、それを「王法為本」だと言うところに、蓮如上人の曖昧なところがある。それがつまずきです。徹底した「信心為本」ではないわけです。「王法為先」ではなく、「為本」と言ってしまうと、「信心為本」と「王法為本」が二本立てになってしまいます。根本は「信心為本」です。ですから、ぎりぎりのところは、先程言いました親鸞聖人の「御消息」にあるように、そこで念仏ができなければ、何処へでも行って念仏申して生き、そして死んだらよいのだという選択が、やはり「信心為本」です。だから、場合によっては教団が潰れてもよいのだということです。「ここは譲れない」と言っていくのが、「信心為本」です。「ここは譲れる、ここは譲れない」と言っていくのは「王法為先」です。そして世間通途の理に従うのです。
『尊号真像銘文』、『聖典』513頁 「「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。」 |