麻原彰晃こと松本知津夫を教祖・創始者とするオウム真理教の教義を広め、これを実現することを目的とし、同人が主宰し、同人及び信徒、信徒を指導する者その他の同教義に従う者によって構成されている団体(「公安調査庁告示第一号」岩波ブックレット『破防法とオウム真理教』)であると。この団体は、
政治上の主義として、現行憲法に基づく民主主義を廃し、麻原彰晃こと松本知津夫を独裁的主権者とする祭政一致の専制政治体制を我が国に樹立することを目的としているものである。(同上)そして、
本団体は、松本を絶対者とし、目的のためには手段を選ばず 殺人行為をも正当化する教義を盲信して、同人の意のままに行動する多数の者によって構成されている。(同上)だから危険で問題だと。こういう理由によって「破防法」を適用するようにと公安調査庁長官の名に於いて請求しているわけです。
聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり。(後序『真宗聖典』(以下『聖典』)P398)と言われるわけです。浄土真宗の場合、行は如来によって選択され回向された念仏ということです。ですから行はあるわけです。あとは信です。念仏を取って、信じたてまつるかどうかという問題ですから、信が中心です。行が中心の教えは聖道自力の教えです。信が中心の教えは浄土真宗の教えです。信心が決定したかどうかは、行に就いて信を立てる―就行立信です。南無阿弥陀仏をとって、信じるのか信じないのかの問題です。衆生往生の行としては念仏です。ですから改めて行を云々することはないのです。ここにはっきりと、行を中心とした教えと信を中心とした教えの違いがあるわけです。
ちくまライブラリー『沈黙の宗教──儒教』加地伸行 『往生要集』巻上欣求浄土、『真宗聖教全書(以下聖教全書)一』三経七祖部P770 「第八に見仏聞法の楽とは、今此の娑婆世界は、仏を見たてまつりて法を聞くこと甚だ難し。(略)かの国の衆生は、常に弥陀仏を見たてまつり、恒に深妙の法を聞く。」 同上P773 「第十に増進仏道の楽とは、今此の娑婆世界は、道を修めて果を得ること甚だ難し。」 |
詮じそうろうところは、御身にかぎらず、念仏もうさんひとびと、わが御身の料は、おぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をもうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし。(『聖典』P568)という、こういう言葉あります。この「朝家の御ため国民のため」というこの言葉が、何時でも国家問題が出てきた時、親鸞聖人がこのように言うておられるのだということで、国家に尽くしていくのだという態度決定を教団が採ったということがあります。この言葉を金科玉条のようにして、親鸞聖人がこう言われているのだということを盾にして、国家問題に突き進んだということがありました。
我が御身の料は 思召さずとも朝家の御ため国民のために念仏をまふし合せ給ふべしとの祖訓を体したるすがたといふべし これまことに深遠なる 皇恩仏恩に報ずる所以にしてまた殉国の将士に対する追恩のつとめたるべきものなりとあります。結局国の為に死んでいかれたということは、皇恩に報い仏恩に報いる尊いことだとして、それを慰め讃嘆していく言葉として、親鸞聖人の「御消息」の言葉が使われていたということなのです。
六月一日の御文、くわしくみそうらいぬ。さては、鎌倉にての、御うったえのようは、おろおろうけたまわりそうろう。(『聖典』P568)となっています。この「鎌倉」というのは幕府です。鎌倉幕府から性信が呼び出されて糾明されたという事実が、この親鸞聖人のお手紙の中でも分かるわけです。
まず、よろずの仏・菩薩をかろしめまいらせ、よろずの神祇・冥道をあなずりすてたてまつるともうすこと、このこと、ゆめゆめなきことなり。(『聖典』P571)と。「こと」というように言われているわけです。万の仏や菩薩を軽しめる、万の神祇や冥道を侮りすてることは、あってはならない「こと」であると言われています。そして次の頁に「つぎに」という言葉があります。
つぎに、念仏せさたまうひとびとのこと、弥陀の御ちかいは、煩悩具足のひとのためなりと、信ぜられそうろうは、めでたきようなり。ただし、わろきもののためなりとて、ことさらに、ひがごとをこころにもおもい、身にも口にももうすべしとは、浄土宗にもうすことならねば、ひとびとにもかたることそうらわず。(『聖典』P572)万の仏・菩薩を軽しめるな、万の神祇や冥道を侮りすてるなという事と、後の方は、造悪無碍の異義を正されている、この二つの事はあってはならない事だと親鸞聖人は言われています。親鸞聖人は関東の念仏者に対して、この二つの事はあってはならないと知らせておられるわけです。古田さんが言われる「建長の事書」というのは、我々はこの二つの事に関して問題を持つ者ではないと文書にして提出した。二十四輩というのは、その時に署名した者達なのだということを、論じておられるわけです。丁度これは、親鸞聖人が法然上人の下で学習しておられる時、比叡山の念仏者は色々と問題があるという訴えに対して、法然上人が七ヶ条にわたって起請された『七箇条の制誡』と同じことであると、古田さんは読まれたわけです。
さては、念仏のあいだのことによりて、ところせきようにうけたまわりそうろう。(『聖典』P576)と。「ところせき」というのは、念仏者達がもうその場所におれなくなって、厳しい状態に追い込まれているということが親鸞聖人へ知らせがあって、そのことを案じておられるということです。更に親鸞聖人は、その人達に対して、
そのところの縁つきておわしましそうらわば、いずれのところにても、うつらせたまいそうろうておわしますように御はからいそうろうべし。(『同上』)その土地におれなくなってしまう程の迫害が行われてきた。そうすると、その土地におれなくなったのならば、何処へでも移って行って、念仏の申せる所で生きて死んだらよいのだと言われてます。そこまで状況が厳しくなっているわけです。建長七年の「まず」とか「つぎに」というときには、それ程厳しい状態ではないのですが、ここでは非常に厳しい状態がきて、その土地におれなくなる程に追い詰められてしまった。親鸞聖人はそれに対して、それなら何処でも移って、念仏を申す中で生き死んだらいいと、こういうことを言われているわけです。
慈信坊がもうしそうろうことをたのみおぼしめして、これよりは余のひとを強縁として念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず。きわまれるひがごとにてそうろう。 (『同上』)慈信坊というのは、親鸞聖人の長男の慈信坊善鸞です。この慈信坊善鸞が、関東の門弟に対して、「余のひとを強縁として念仏を広めなさいと父親鸞は言うているからそうしなさい」と勧めているわけです。これが慈信坊善鸞が抱えた問題です。「余のひと」というのは、当時の守護であるとか地頭であるとか名主です。この人達は当時の権力者です。この権力者は先祖を大切にしているわけです。先祖を大事にしているということは、神祇・冥道を大事にしているということです。先祖を神として祀っているわけです。「強縁として」ということは手を結んでということです。そういう権力者と手を結んで、念仏を広めたらよいのだと父親鸞は言うていると善鸞は言うて、関東の門弟を混乱させたということがありました。そういうことは、「ゆめゆめもうしたることそうらわず」──自分が言うたことはないし、「きわまれるひがごとにてそうろう」──あってはならないことだと、親鸞聖人は言い切られています。状況が厳しくなった時、念仏をはっきり言い切っていかないと、権力者と妥協していくということが起こります。これは完全に鎮護国家です。日本の仏教そのものが鎮護国家の流れにあります。仏教が渡来した当時から、仏教とは国家を鎮護する教えなのだとされています。親鸞聖人が比叡山から迫害を受けられるのも、念仏の教えは鎮護国家の教えではないと言い切られたからです。そこに逆転していくことを、善鸞は勧めているわけです。それに対して、親鸞聖人はあってはならないと言われています。
それも日ごろのひとびとの信のさだまらずそうらいけることの、あらわれきこえそうろう。かえすがえす、不便にそうらいけり。(『聖典』P577)と。そして、
ひとびとの信心のまことならぬことのあらわれてそうろう。よきことにてそうろう。(『同上』)と言われています。善鸞の言葉で人々が混乱しているのは、信心がはっきりしていないからだ。それが現れているのだ。不便なことではあるけれども善いことだと、言い切っておられるのが、この言葉です。善鸞は体制の中に入って体制に尽くして、念仏を生かしたという問題があって、義絶されたということです。ここではっきり、何故迫害を受けるのか、何故善鸞を義絶されたのかということが出ています。
念仏のうったえのこと、しずまりてそうろうよし、かたがたよりうけたまわりそうらえば、うれしうこそそうらえ。いまは、よくよく念仏もひろまりそうらわんずらんと、よろこびいりてそうろう。 (『聖典』P578)とあります。鎌倉の訴えに対して、性信坊が適切に対応して、逆に念仏のことが相手に分かってもらえて、念仏が広まっていく兆しがあるようで、非常に喜ばしいことだと親鸞聖人は言われています。それに続けて、
これにつけても、御身の料はいまさだまらせたまいたり。念仏を御こころにいれてつねにもうして、念仏そしらんひとびと、この世のちの世までのことを、いのりあわせたまうべくそうろう。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせたまうべき。ただ、ひごうだる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかいにいれとおぼしめしあわば、仏の御恩を報じまいらせたまうになりそうろうべし。よくよく御こころにいれてもうしあわせたまうべくそうろう。聖人の廿五日の御念仏も、詮ずるところ、かようの邪見のものをたすけん料にこそもうしあわせたまえと、もうすことにてそうらえば、よくよく、念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあわせたまうべくそうろう。(『同上』)と。「聖人の廿五日の御念仏」というのは、法然上人の命日です。法然上人の命日に、縁ある念仏者達が、それぞれの道場に集まって、そこで念仏を申し合わせていたと。「念仏そしらんひと」の為に、また「ひごうだる世」を本当に仏法が広まる世にしていく為に、そのことを確認し合って念仏相続していくことをお互いに申し合わせたというのが、「廿五日の御念仏」です。
このようは、故聖人の御とき、この身どもの、ようようにもうされそうらいしことなり。こともあたらしきうったえにてそうろうなり。(『聖典』P568頁)とあることによって分かります。「そうろうなり」は「そうらわぬなり」の間違いということは、この言葉を読んでいけば分かります。そして次に、
さればとて、念仏をとどめられそうらいしが、世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう。(『同上』)とあります。「さればとて、念仏をとどめられそうらいしが」というのは、承元の法難の時、後鳥羽上皇が念仏を禁止されて、吉水の教団を解体されたことを言うておられるわけです。念仏者を迫害し、念仏を禁止された後鳥羽上皇の当時に「世にくせごと」があったと。この「世にくせごと」とは承久の乱のことです。後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦闘状態に入られて、結局は敗退して隠岐島に流されてしまった。つまり承久の乱という、上皇が流罪に処せられるという、国家がひっくり返るような大きな出来事があった。それも親鸞聖人からすれば、後鳥羽上皇が念仏を禁止されるということがあったから、こんな大きなくせごとがあったのだという読み方をしておられます。そういう意味では、何ととしてでも念仏を相続していかねばならない。その事の他に「朝家の御ため、国民のため」はないという意味をもって、この事件を見ておられます。
和朝愚禿釈の親鸞が『正信偈』の文(『聖典』P530)と。このことは前回も申し上げました。この「和朝」というのは「和国の朝家」であって、神国の朝家ではない。ここで親鸞聖人の国家観がはっきりしています。神国としての国家観ではない。和国としての国家観だと。それなのに、「朝家の御ため、国民のために、念仏をもうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし」を「神国としての朝家」と読んでしまったのです。これは親鸞聖人が義絶された、善鸞の立場です。そういうことが、先程言いました「軍人遺家族への御消息」に、親鸞聖人のこの言葉を歪曲して解釈をした意味で載せていますし、「小名号」の脇にまで書いています。