見る人が見れば背景だけで分かると思いますが
このコーナーは主にプロレス≠フことが書かれる予定です。
何を隠そう良覚寺の住職は子どもの頃からプロレス≠フファンなのでした。
興味のない方はとばしてください。

ある方曰く
「プロレスは真宗なんです」
「前田日明の生き方に親鸞があるんです」
30年以上、プロレス者として生き、
しかも浄土真宗の坊さんでもあるボクにも
容易に頷けない理屈。
ただ、ほんとにそうかもしれないなあ
って思う部分もあります。
そういうことも考えていきたいですなあ。



【原体験】
 2002年の12月31日、猪木はやっぱり猪木でしたね。でも笑われてるのが気になる。子どもの頃、生で見た猪木は殺気があって恐かったです。握手してもらおうと思って、近付いたたら睨まれたし、当時若手だったヒロ斉藤に「近付くんじゃねぇ」って怒られたし。
 king of sport , professional wrestling 何と心地よい響きでしょう(これだけでたくさんの人の引く音がする)。
 プロレスが好きになった原体験は『タイガーマスク』。佐山聡じゃなくて、アニメのやつです。私は3歳くらいでした。とりあえず孤児院≠ネるものの存在はタイガーマスクに教えてもらったよね。当時、ウルトラマンより仮面ライダーよりタイガーマスクでした。
 梶山一騎独得の根性モンなんだけど、雰囲気の暗さは『あしたのジョー』とか『巨人の星』とは違って見てて恐かったなあ。虎の穴はアルプスにあるんだって。子どもの頃はミスターXに連れ去られるんじゃないかって眠れませんでした。馬場というのは強いんだって刷り込まれてたから、全日放送で本物の動く馬場を見たときの衝撃といったら…。

(2003/2/10up)


 アニメ『タイガーマスク』は設定が力道山の流れの日本プロレスだったんで、馬場は猪木より格上として描かれます。その印象があったんで、「馬場は猪木より強い」と思ってました。でも小学校1年生とか2年生の頃、大人達はこう言ってました。「馬場の方は八百長やけど、猪木の方は真剣勝負らしい」。
 だから、まず猪木の方=新日本プロレスの「ワールドプロレスリング」は物心がつくかつかないくらいの歳から「真剣勝負なんだ」と思って観ていましたよ。ただ、猪木の方のプロレスは子どもには退屈だったんですよね。前半はすごく静かな展開。足をとったり腕をとったりを繰り返す。後半バックドロップとかブレーンバスターとか卍固めが出るまで眠くなってしまう。やっぱり馬場の方=全日本プロレスが面白いかもとか思ってました。
 これは今から思えば、対戦相手がひどかったということもありますね。例えばジョニー・パワーズ。8字固めという4字固めと全く同じ技を使う、不器用でどうしようもないレスラーとか。ちなみに、猪木はこの人からNWF世界ヘビー級のベルトを奪取します(僕の記憶にはないけどね)。
 最初に『タイガーマスク』ではなく、ほんとのプロレスが凄いと思った試合は、1974年3月19日に蔵前国技館で行われたNWF世界ヘビー級選手権の「アントニオ猪木VSストロング小林」です。その時、僕にとっての猪木は退屈な試合をする人≠ナしかなかったんですけど、この試合で俄然印象が変わりましたね。試合が行われた状況は知らなかったんですけど、会場の熱気がテレビを通して伝わってくる。当時日本人対決をタブー視する中、新日エースの猪木と国際プロレス元エース小林が戦うということで、妙な盛り上がりがあったということは後で知ることになります。29分の試合中、ピリピリしたテンションが途切れませんでした。一本勝負というのも良かったのでしょうけど、その間中僕はずっと猪木を応援してたことを覚えてます。そして最後は猪木がジャーマンスープレックスホールドでピンフォール。
 最近この試合をビデオで見直しました。そこで気付いたことは、ストロング小林はすごく不器用であるということ。技の入り方が鈍重な感じがする。でも猪木は華麗だしスピーディー。ボディビル出身の小林とカール・ゴッチにランカシャーレスリングを叩き込まれた猪木じゃあ、所詮基礎が違うって感じ。でもその鈍重で不器用な小林とあそこまでの名勝負をやる猪木の才能に改めて脱帽です。

(2003/2/15up)


一休禅師の言葉だそうです


 その後は猪木にはまりっぱなしです。同じ1974年6月26日、大阪府立体育館で行われた試合で猪木はタイガー・ジェット・シンの腕を折って≠オまいます。某レフリーの書いた暴露本で真相が書かれていますが、当時は「猪木はここまでやるのか。猪木のプロレスは本物だ」ということを子どもに刷り込むのには充分な効果がありましたよ。
 その翌年の1975年12月11日のビル・ロビンソン戦。60分三本勝負。フルタイムドローの試合ですけど、42分過ぎにロビンソンが一本取って(何か丸め込み技)、試合終了間際に猪木が卍固めで取り返したんですけど、このスリルといったら・・・。「おー、猪木が負けてしまう!」という緊張感で熱くなったのを覚えてますね。
 あの頃の試合は、技一つが重かった≠ゥら、ああいうムードを作れたのでしょう。テーズのバックドロップが出たら、ゴッチのジャーマンが出てら、ロビンソンの人間風車が出たら、猪木の卍固めが出たら、それで試合が終わるんだから。レスラーも技を大切にしていたし。
 今のプロレスの最大の問題点は試合が技の展覧会≠ノなってることだろうなあ。やりたいことを全部やって帰るって感じ。これは四天王プロレスの弊害ですね。四天王プロレスそのものは評価しなければならんでしょう。ただ、頭から落とす大技を休みなく出して、カウントツーの攻防をすることに慣れてしまうと、我々観る方にしても技の重み感じられなくなっちゃう。究極、エメラルドフロージョンとかタイガードライバー’91みたいな技でしか、フォールの説得力がなくなるんですよね。新制FMWなんか四天王プロレスのミニチュア判だったし、全日系のインディでの良い試合≠ヘ大概そうでしたよね。

(2003/2/15up)


 黒崎健時。
 この名を聞いただけで血が騒ぐ人は、間違いなく猪木の異種格闘技路線にはまった人でしょう。『四角いジャングル』、、、毎週「マガジン」を買う金などないので、散髪屋さんに行っては貪り読んでおりました。私めは『四角いジャングル』の世界は正に実話だと思っておったのであります。
 先日古本屋で文庫化された『四角いジャングル』を見つけ、即購入。読み直してみて、主人公が実は赤星潮なる青年であったこと、黒崎、大山以下、キックや極真の人たちがプロレスの試合をガチとして解説していること、連載当初喋らないキャラだった黒崎健時が後半ペラペラ喋ること、梶原一騎が自分の顔の広さと知識をひけらかしていること、、、などなど再発見があったのであります。
 今の視点で幾らでもつっこめる劇画ですけど、当時はネッチュウしておりましたです。特に黒崎健時さんはどんな人物なんだろう?と京都は綾部のド田舎で思いを馳せておりました。武人、男の中の男、格闘技の鬼、、、私めは黒崎先生に憧れて空手を始め、8級で辞めたのであります。
 さらにさらに、この『四角いジャングル』=黒崎健時=猪木格闘技路線への憧憬が、私の後のプロレス観を決定付けたと言って過言ではないのであります。
 そして東三四郎と出会うのでした。

(2003/3/15up)


 キャンディ・キャンディがアンドレ≠ニいう名の人を探している。「アンドレ、アンドレ、どこなの?」。そこに表れたのはアンドレ・ザ・ジャイアント。突然キャンディにジャイアントプレス。フォールの体勢に入った!。カウントと数えるのは名レフリーのレッド・シューズ・ドゥーガン。ワン・ツー・スリー!。三つ入ったぞ。
 いきなり訳の分からない展開で申し訳ない。これは『1・2の三四郎』という漫画の一コマ。結局これは夢落ちなんです。でもそれまで読んだ、どんな夢落ちよりも凄かったなあ。大体レッド・シューズ・ドゥーガンなんて普通の人は知らなんでしょう?。2001年に浄土に還られましたが、猪木の名勝負を裁いた名レフリー。当時彼が出てくると「お、この試合は特別だ」って感じで盛り上がってました。
 とにかくです。学園ギャグマンガとして読み始めた『1・2の三四郎』ですが、後にスポ根漫画に変わっていきます。でも梶原的スポ根じゃなくて、ギャグの要素が必ず入ってる展開。苦しい練習に歯を食いしばって耐えたりせずに、ヘラヘラ笑いながら耐える。主人公・東三四郎がスケベなキャラである。等々これまでになかった斬新な設定でした。
 作者の小林まこと氏は相当のプロレスファン。プロレスへのリスペクトが随所で見られる。三四郎はラグビーやったり柔道やったりしますが、全部プロレス技で勝つんです。ブレーンバスターで一本、とか。高校を卒業間近の東三四郎は突然身長が20p伸びて(え?)プロレスラーになります。
 ここからの『1・2の三四郎』の展開に影響を受けて、今でもプロレスファンって人は多いと思いますよ。

(2003/4/12up)


 プロレスラーは強くなければならない。永田がヒョードルに秒殺されようが、中西が藤田にボコボコにされようが、プロレスラーはスーパーマンでなければならない。
 こういう認識をボクに植え付けたのが『1・2の三四郎』なのでした。『1・2の三四郎2』では、総合格闘技の試合でブレーンバスターを出した。今はムチャクチャ強い探偵として活躍している。今だにボクは、こういう姿をレスラーに求めちゃうんですよね。
 それはプロレスラーの体型してなくて、総合の練習ばっかりして、巡業に出ない中邑真輔ではなく、発言がイマイチでプロレスラーらしくないグローブ大好きな柴田勝頼ではないのです。棚橋弘至のようなスタンスでプロレスと関わりながら、しかも総合が強い。こういうレスラーが好きなのです。
 無茶なのは分かっていても、プロレスラー像の原体験は猪木、プロレスラー像を確立したのは東三四郎の世代には、やっぱり・・・。

(2004/7/29up)




【「革命」というプロレス】
 2003年3月1日、長州がWJなるプロレス団体を旗揚げしましたね。World Japan Pro-Wrestlingという矛盾のある名称(WorldとJapanがなぜひとつに)もさることながら、参加メンバーの健介、越中、健想、谷津、大森、馳、天龍、大仁田・・・なんちゅうか、私の好みでないレスラーが一堂に会してるわけです。キャッチフレーズは「プロレス界のど真ん中をいく」。長州談「闘いのプロレスをみせていく」。
 これって、何?。
 90年代の新日って面白かった?。長州が現場を仕切って、永島が営業して、馳健が道場を仕切る。爽やかな体育会系プロレス。因縁とか怨念とかがないスポーツライクなプロレス。マイクに頼らないプロレス。淡々と流れていくシリーズ。もしさ、闘魂三銃士がいなかったら、本当のクソみたいな団体だったよね。当時の長州は独自路線の闘魂三銃士が嫌いだったみたい。永田・中西両エース路線に早く移行したかったんだろうね。
 よかったね、長州。闘魂三銃士のいない90年代新日をやれて。自分のイエスマンばっかり集めて楽しいか?。毒がない、同時に華のないプロレスが「ど真ん中」になったら、オレはプロレスファン止めちゃうぞ。
 長州の革命の到達点ってここか?。

(2003/3/9up)


 一介の中堅レスラーがbQにケンカを吹っ掛けた!。
 1982年10月8日の後楽園のことを、今の鮮烈に覚えてますよね?。82年初頭、新間が「今年は日本人対決でいく」と公言していたことを後で知りますが、当時の長州の心≠ヘガチだったと信じてます。
 とりあえず、猪木の後継者っぽかった藤波って今ひとつパッとしなかったんです(私にとっては)。理由は簡単、彼が優等生だったから。猪木だって団体のトップらしく優等生を装っていましたが、隠したって猪木が本来持ってるアブナサは隠せるもんじゃない。それが魅力でもあったしね。ところが藤波。彼は一から十まで優等生。「猪木さん、小鉄さん、新間さんの言うことは絶対にききますよ」って感じだった。
 当時のプロレスファンって、誰しも「藤波が猪木の後を継ぐのか?」って疑問に思ってたでしょう?。
 その藤波に、ハンセンにラリアット(ラリアートでもクローズラインではない)をくらいまくって、シンにサーベルで殴られまくって、上田にどつかれまくって、ボックの何の変哲もないサイドスープレックスでフォールされてた、当時の格でいったら4番か5番のあの£キ州がケンカを吹っ掛けたんですよね。これは驚きましたよね。放送明くる日の話題は、これ一色でした。
 私は当時高校生。世の中の仕組みが少しずつ分かりかけてきてました。具体的には「社会がおかしいと思っても、オレが何をやったって何にも変わらん」って後ろ向きなこと考えてたんです。バブルに入る直前でね、社会の矛盾みたいなものも、「金はあるからいいじゃん。何となく楽しいからいいじゃん」で済まされる風潮もあったし。そんな社会に浸かりながら、心の底では悶々と憤りを感じてる。そんな高校生でした。
 後に長州革命と呼ばれた、格下レスラーの暴挙(だと私は思ってました)は、無気力(だと大人達から言われていた)私の心に火を点けたことだけは確かです。

(2003/3/9up)


 毎週、毎週、長州vs藤波って凄い試合だったよね。
 それまでのプロレスの型って、前半はグランド、後半にちょっと中技、フィニッシュ前に大技、だったでしょう?。でも長州vs藤波は前半から大技が出るんだよね。それって、「オレはこいつを本気で潰すんだ」ということをレスラーは表現してるわけだけど、新鮮な展開でしたよね。
 後にハイスパートレスリングとか呼ばれる、こういった試合展開は刺激的でした。「プロレスの型を潰した」という面で問題はあります。長州vs藤波みたいな刺激を得たら、馬場のクラシカルなアメプロを面白いとは思えないから。後に長州が全日で試合してた頃、馬場が「あいつはプロレスを知らない。教えてもらってないんだろう」と言ってたが…。
 凄い試合をしていくうちに、長州の人気はうなぎ登り。日本人ってエリートより雑草の方が好きだからなあ。本当はオリンピック選手の長州の方が中学で野球やってた藤波よりエリートなんだろうけど。
 当時、僕は共学の学校に行ってたんだけど、男ばっかの理系にいました(むさ苦しかったっす)。何になりたいとかなくて、学校の勉強で数学だけができたからさ。理系の勉強して、理系の学校に行って、どうするんだろう?。どうせ東大とか京大は無理だから、中流私立の大学に行って、就職は…。目的とか目標が見えなくて悶々としてたんですけど、急激にはい上がっていく長州の姿を見てて、「オレって、このままでいいの?」と思うようになりましたよ。
 1983年4月3日、長州は藤波のフォール勝ちし、WWFインターのベルトを奪取します。そして6月、長州は新日を辞めてフリーになります。ここらへんから長州の革命はガチになっていくんでしょうね。
 その年、僕は理系をドロップアウトして文系に行くことを自分の中だけで決めました。何か本当にやりたいことを見つけるために。

(2003/4/1up)


 長州の革命≠ェガチになっていくにしたがって、長州vs藤波は面白くなくなっていきます。ハイスパートという形でプロレスの文法を破壊していった試合は、確かに刺激的ではあるけれども、毎試合だと飽きるんですよね。
 長州はターゲットを藤波から猪木に──リング内だけじゃなくリング外もね──。これは正しい選択だったと思います。リング内の猪木は肉体的な衰えを隠せなかったし、リング外の猪木は会社経営者として狂ってたもん。
 あの伝家の宝刀延髄蹴り=c。あれをフィニッシュに使うようになって猪木は馬場と変わらないレスラーになった。延髄蹴りが出れば試合が終わる。16文キックと同じじゃん。子どもの頃に観たスリリングな試合なんて全く期待できない。経営者としてはアントンハイセル≠チて嘘くさい事業に大金ぶち込んで新日の金を使い果たしちゃう。この頃から、僕自身の中でも猪木というレスラーはあこがれ∞尊敬するレスラー≠ゥら狂った大人≠ノなっていきました。
 誰かが何とかしなきゃ…って、新日関係者はみんな思ってたんだろうなあ。その誰か≠ヘ本当は藤波だったんだろうけど、あの人の性格と能力じゃあ無理。だから長州が、、、ってことなんでしょう。
 でも猪木には勝てなかった=B試合じゃなくて、色んな面で。何て言うんだろう、レスラーが持っている根本的な華≠フ部分で、長州は猪木に勝てなかった。猪木と長州が対峙したら、やはり長州は輝けない。これは努力なんかでは、どうすることもできない差なんでしょう。
 理系をドロップアウトした僕は、週末になったら京都に行ってました。丹波の山奥では観ることのできない映画を観るために──時効だと思いますがキセルしてね。ビデオなんかなかった時代、教育テレビの「世界名作劇場」とか関西テレビの深夜にやってる映画をムサボリ観ることも。
 長州の新日内革命≠ェ行き詰まってどうしようもなくなる頃、僕は映画≠ニいう世界に何かを見つけだそうとしておったのです。

(2003/5/1up)


 一年経って、WJ崩壊。でも、今の長州はいい!。金村とかインディ団体の選手と呼ばれた男たちと試合している長州はいい!。
 新日でブッカーしてた頃の長州って権力者でしたよね。WJを立ち上げた頃もね。長州は権威、権力があっちゃいかんのですよ。テメー、コノヤロウ、って上に対して噛み付いてないと。今の新日は猪木体制。格闘技色が強くなる一方。こういう流れに対して、フザケルナ、と試合を通して言ってるよね。
 1984年、長州は闘いの場を新日から全日へ。この時点で、ボクの中での長州は終わったんです。だって長州の全日での試合って面白くなかったもん。
 ただ、テメー、コノヤロウ、フザケルナ、、、的な長州の在り方は、ボクの中で生きてましたね。何でしょうねえ・・・。80年代、バブルのちょい前。もちろん学生運動なんて全くなかった時代です。でも読んでいた本とか観てた映画は60年代のモノが多かったかも。長州力というレスラーの闘い方が、ボクの中で生きていた表れかも。

(2004/7/29up)









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