■ コラム ■
わがいのち
すなわち
無量寿なり
──『安心決定鈔』より──
 「何より尊いのは、いのちである。いのちを大切にいなければならない」。そう言われると、殆どの人が、その言葉を肯定するのではないだろうか。
 だが、いのちについて、我々は分かったつもりになって、自分なりにいのちを大切にしていると思い込んでいる事が多い。
 今日では、科学が驚異的に進歩して、いのちに対する科学的な研究も進んでいる。門外漢の私でも知っている事として、生物学の分野では、生命は細胞の総体だとして、その細胞の研究が進んでいるらしい。また去年は、遺伝子を通して生命の働きを研究する分野が注目を浴びた。こうして見ていくと、科学という分野でいのちは解明し尽くされているかのように思える。
 しかし、細胞や遺伝子の働きを知る、分かる事がいのちそのもの真実を顕らかにした事になるのだろうか。人間で言うなら私という人間は細胞と遺伝子の組み合わせで、今、ここに生きているのだろうか。
 私という人間が、今、ここに在るのは、細胞や遺伝子だけの働きではない。私がこれまで賜ってきた生活の環境−両親、自然、国土、人間など−が、今、ここに在る私という人間を育ててくれたのだろう。
 おそらく、「いのち」という言葉が表現してきた事、またしている事柄は、それらをひっくるめての事だと思う。科学で解明されている細胞や遺伝子の事、また未解明な部分、我々一人一人が賜ってきた生活環境、我々一人一人が食してきた多くの生き物、それらが全部が、今、ここに在る私を育ててくれた。その事実を「いのち」という言葉で表現するのだろう。
 仏教ではそのいのちの真実を顕らかにする言葉として「無量寿」という言葉を使う。量ることのでき無い多くの「ご縁」の総体が今、ここに在る私の「いのち」だという意味である。

 

■ コラム ■
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、一切無碍ならん。
──『三帰依文』より──
 日本は世界的にみて仏教徒の国になる。仏教徒などという堅苦しい言葉に馴染みがないかもしれないけれど、世界を宗教文化圏で分けたならば、日本は仏教徒の文化圏に入るのは間違いない。
 それでは、仏教徒とはどういう人かと言うと、最も端的に言うならば「仏・法・僧に帰依する人」を仏教徒と言う。
 仏教には、これを満たしていないと仏教とは呼べないという成立条件がある。これが「仏・法・僧」なのである。
 2500年前のインドにおいて、お釈迦様は真理を覚って仏と成られた。仏とは「覚った人・覚者」という意味である。仏と成られたお釈迦様は、ご自分のお覚りになった真理があまりに難解なので、これを世の人々に説くかどうか悩まれる。だが、世は真理を知らず苦悩する人々で溢れている事に気付かれて、できるだけ多くの人に真理を伝えようと思い立たれた。
 お釈迦様の最初の説法は鹿野苑という所でなされた。相手はお釈迦様が修行を共にされた五人の修行仲間。最初、五人は同輩のお釈迦様の言葉に無視していた。しかし、お釈迦様の説法が、あまりに真実を語り、あまりに感動的であったので、五人は説法に耳を傾け、最後にはお釈迦様の弟子になる事を誓う。
 この時、歴史上初めて「仏・法・僧」が成立する。お釈迦様という仏(師・先生)がいて、お釈迦様の説かれる法(教え)があって、更には仏の法を聞く僧(友・仲間)が成立したのである。
 この時以来、仏教のある所に必ず「仏・法・僧」があった。
 我々の先祖を縁としてできた真宗寺院にも、親鸞(しんらん)聖人・蓮如(れんにょ)上人・念仏者達という先生(仏)がいて、『正信偈(しょうしんげ)』などの聖人の説かれた教え(法)があって、聖人の教えと共に聴聞する御同朋(僧)がいたのである。我々の先祖は、仏教徒という言葉は知らなかったかもしれない。しかし、自分は仏・法・僧に帰依する者であるという、はっきりとした自覚は持っておられたであろう。

 

■ コラム ■

ある母と子の会話。
母 ファミコンばっかりせんと、勉強しなさい。
子 何で勉強せなあかんの?
母 勉強して一流大学に入るためや。
子 一流大学に入ってどうするの?
母 一流会社に就職して、お金を沢山もらって結婚して立派な生活をするんや。
子 それからどうするの?
母 出世して、部長になって重役になって、それから社長になったららいばれるやろ。
子 出世して重役になっても退職して、何時かは死んでしまうやろう?
母 そうしたら花輪やら偉い人からの弔電が沢山あって、豪華な祭壇を使った立派な葬式がしてもらえるから幸せやろ。
子 お母さん、分かった。立派な葬式をしてもらうために勉強するんやね。
母 ・・・・・・。  (『南御堂』より)
 一流と言われる大学に入学しようと、名の通った企業に就職しようと、その企業で出世しようと、金持ちになろうと、地位名誉を手に入れようと、そういった事は、「私の幸せ」とは別の問題であるのかもしれない、と思う。
 「私の幸せ」とは、どんな自分でも−自分が思い描いた理想から外れる自分でも、その自分を好きになる勇気を持つ事だと思う。そのまんまの「今の自分」を無条件に受け入れて、そのまんまの「今の自分」を本当に尊敬できる事だと思うのだ。

■ True Living ■
お文講座講話録(1999/02/12)
──沙加戸弘師──
 蓮如(れんにょ)上人が言われるには、阿弥陀如来の本願に遇う為には、学問や知識や能力やそういったものは必ずしも必要ではありません。どうしても外せないものがあります。弥陀如来の本願に出遇う為には、「自分自身を見つめる」という事が必要なのです。自分自身を見つめると、そこにはどうしてみようもない私が見えてくる。その私に、本当の、真実の生き方をして下されよと呼び掛けて下されている、それが弥陀如来の本願なんです。それに気付いて下さい、それが人生の一大事であります、他の誰が望まなくても、弥陀如来が、「本当の人間の生き方をして下さいよ、生まれてきてよかったなと思える人生を歩んで下さいよ」と願われているのです。この私というのは他に誰も変わる人はないのです。
 最近、私の息子がコンピューターゲームをしています。息子がそれで遊んでいるのを見ていると、ゲームで負けそうになると、すぐにリセットというボタンを押すんです。リセットというボタンを押すとゲームが最初に戻るんです。人生にはリセットという事は利きません。済んだ事は絶対に元へは戻りません。
 「今の私」はどうなのか?。これを問う事が本願に出遇う第一歩であります。誰も変わる者はない「今の私」を私自身が喜べるか?私が私であってよかったなと思える道筋を発見して下さいよと、本願は呼び掛けて下されているのです。私が私であってよかったな。生まれてきてよかったな。この事一つに出遇うたから、生まれ甲斐をさせてもろうたなと、思えるようなことに出遇わせて頂きましたか?。健康にもなりたい、物知りにもなりたいと努力しますが、この世の縁が尽きた時に、さて貴方は何処へ行くんですか?、何を目指して一生を生きてきたんですか?。これに出遇うたから、安心して何処へでも行けるよ、最後はここへ帰るよと、思える場所が発見できましたか?。この事を自分自身に問うのが本願と出遇う第一歩であります。
 神戸の震災を舞台にした演劇にこんなシーンがあります。「行く所が無いのか?」と問われた人が、「いや、行く所が沢山ある。帰る所が無いだけだ」と。帰る所が見付かるという事は出てきた所が見付かるという意味です。
 何処から来て、何処へ行きますか?とその事を見付けて下さいと弥陀如来の本願は呼び掛けて下さっているのです。その事に出遇う事が、たった一つ人生の大事なのですよと、この「お文」はお示し下さっているのです。他に何も必要な事はありません。知識も能力も何もいりません。「私とは何ですか」というその問いが必要なんです。
 我々は肩書きから名乗るけれども、その肩書きを外した時に、「私は何の為に生まれてきたのだろう」と。その事を顕らかにして下さいと本願は呼び掛けて下さっているのです。
 その事に気付いた、それを本願に出遇うと言うのです。どうぞ縁に出遇うて下さいと願われいた私であったと気付かせて頂く。その事が阿弥陀如来の光明に包まれるという意味ですよ。
 本願に出遇うという事がなかったならば、この私が今のまま喜べるという事はないのです。不安、不満、妬みを抱いて人生のリセットを望み、上の空で過ごさなければならないのです。
 これが、この「お文」の示して下さっている意味なのです。

 

■ コラム ■
生きるということは
誕生の意味を、
毎日毎日問われている
ということです。
──廣瀬杲師──
 紀元前四九三(一説には五六四)年四月八日、古代インドにおいて、シャカ族という一部族に皇太子が生まれた。
 その赤ん坊は生まれてすぐに、七歩進んで、天と地を指さし、
天上天下唯我独尊
と宣言した。その赤ん坊こそが、後に仏教の教祖となられる、釈迦牟尼世尊、通称お釈迦様である。
 お釈迦様が偉い人でも生まれてすぐに歩いたり喋ったりはされない。この誕生説話が語っている事の意味は何であろうか。
 お釈迦様は「七歩」歩かれた後に、天の上にも下にも私以外に尊い存在はないと言われた。「七歩」とは六歩を一歩越えた場所である。六歩とは六道 −地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界。自分はこの迷いの世界にいるんだとはっきり自覚して、そこから一歩踏み出した時、自分の人生は、不幸な人生であっても苦しい人生であっても、輝くような意味をもった尊い人生であると頷くことができた。これは当にお釈迦様の歩みそのものである。お釈迦様のその生涯の中での歩みそのものを、この誕生説話が語っているのだ。
 我々一人一人も、お釈迦様と同じように、一回しかない、自分しか生きられない人生を生きている者である。しかし、その人生を意味のある本当に尊い事柄として頷いているだろうか。
 誕生した時から、人は皆、自分の人生の意味を教えられ与えられるわけではない。誰でもない私として、この境遇を、この人生を生きる中で、生まれた意義、生きる意味を問うていかねばならない。ある人は、「どんな悲劇の真っ直中にあっても、その中で生きる価値を見出す事ができますかと、人生そのものから問われているのだ」と言われた。
 我々が生きるということは、生まれた意義と生きる意味を、自分の人生そのものから問われる事なのだろう。

■ TrueLiving ■
永代経講話録(1999/03/20)
──内藤正師──
 子供が歌う童謡に、こんな歌があります。
かごめかごめ 篭の中のとりは いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面 だあれ 違うた違うた もう一辺回って どなた
 この歌は、実は仏の教えを表した歌だそうです。仏話なんです
 「かごめかごめ、篭の中のとりは」と。これは私のことです。私は篭の中に入ってしまって、閉じ込められてどうにもならんと。これは穢土の世界、此岸に住んでいるという事ですよ。この穢土の世界に住んでいますからお浄土が少しも見えてこない。これが当たり前だとして日暮らしをしているのが私です。
 何故、篭の中から出て来れないのか。それは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天) を輪廻いるからです。お浄土があるのに、六道を回ってそこから出て来れない。念仏の乗せてもらえばいいんだけれども、穢土の世界、六道にじっと居座っている。地獄は喜びのない世界です。餓鬼は満足感がない、畜生は恥知らず、修羅は争い、人間は迷い、天は有頂天です。
 この六道を回っておるから、私は篭の中から出て来れないんです。
 「いついつ出やる」と。いつになったら出てくるんや、と仏は呼んで下さるんですよ。出てくる為には何が必要かというと「よき人」に出遇うという事ですよ。御開山(親鸞)聖人が法然上人のもとを尋ねられた。そして、法然上人の御教えを聞いて、自力の立場から他力本願のご縁を頂かれました。これは法然上人がいらっしゃればこそですよ。法然上人と出遇われなければ御開山聖人は本願に出遇われなかったんですよ。先に本願念仏を頂かれた人に出遇わさせて頂くという事ですよ。「よき人」を通して、真実の御教えに出遇わさせて頂くかないと、六道という篭から出る事はできないんです。
 次に「夜明けの晩に、鶴と亀が滑った」と書いてありますね。夜明けの晩ですから、夜が明けてきたんですよ。私達の毎日の日暮らしは闇です。行き先の分からないような真っ黒けですよ。しかし、夜が明けてきたんだから、少しは見えるはずです。真っ黒な闇の世界がふわっと明るくなってきた。その後、鶴と亀が滑ったと書いてある。鶴と亀はおめでたい事の象徴ですね。「おめでたい」とはどんな意味ですか。間が抜けておる人の事をめでたいと言う。だから夜が明けて光が見えてきたのに、おめでたい私達はすぐに元に帰ってしまうんですよ。「よき人」に出遇い、真実の御教えに出遇い、迷いの篭から出られると思うていたら、めでたいめでたいと元に帰ってしまうんです。
 仏の教えを聞いてはおるけれども、どうしょうもない私でありました。迷いの篭から出る事ができない私でありました。
 「鶴と亀が滑った、後ろの正面だあれ」と。後ろの正面は誰ですか。目隠しをしておったら見えるはずがない。真っ黒けです。「違うた違うた、もう一辺回ってどなた」と。違うた違うた違うぞと、これは阿弥陀仏の大いなる呼び掛けですよ。迷いの篭をどうしても出て来れないのが誰でもない私です。その私に呼び掛けて下さる御本願ですよ。何回回っても違うた違うたと、迷いの篭を出られない。そんな私に篭から出なさい、それが真の貴方の人生ですよと呼び掛けて下さっておるのが阿弥陀仏の本願です。
 守られ守られ、私は本願念仏そのものの中に生かされておる私ですよ。お寺に居ようと、社会に居ようと、家庭や会社で日暮らしをさせて頂こうと、如来はあちらこちらで姿を変えて私に回向して下さる。
 この事を頂かせてもらう事が、浄土真宗に流れを汲まさせて頂いた真宗門徒の大いなる謂れじゃないかと思います。

 

■ コラム ■
なにが君の幸せ?
なにをして喜ぶ?
分からないままおわる
そんなのは、いやだ!
──『アンパンマンマーチ』より──
 とある掲示板伝道にこんな事が書かれていた。
  一日だけ幸福でいたいと思ったら、床屋へ行くがいい。
  一週間だけ幸福でいたいと思ったら、結婚するがいい。
  一ヶ月だけ幸福でいたいと思ったら、新しい車を買え。
  一年だけ幸福でいたいと思ったら、新しい家を建てよ。
 ならば、私は、「一生涯幸福でいたいと思ったら、何をすればいいのだろうか」と考える。
 健康でさえいれれば幸福だと言う人がいる。確かに、病気は嫌だ。健康でいたい。しかし、人間、健康だけで満足できる程、おめでたい存在ではない。何故なら、健康であればある程、欲望も大きくなるから。
 一生涯使いきれない金を持ったら、一生涯幸福なのだろうか。私達はその場その場の満足感を金で買っている。しかし、そんな満足感は泡のようなもの。満たされたと思ったら、すぐに消え、また次の満足を求めて金を使う。欲望の無限連鎖。死ぬまで、無尽の欲望をその場その場で満たすだけの生き方が幸福なのか。
 ある身体障害者に関する講演会で、身体に障害を持たれた方が言われていた言葉、
「障害があることを、ハンディキャップを持った可哀想な人だと思わないで下さい。障害を持つことで、健常者には出来ない体験をしたし、深い物の見方が出来るようになったのですから。だから障害は個性なんです」
と聞いた時、ここに、金・地位・名誉・健康という事で味わう幸福感とは、次元の違う〈幸福〉がある事を知らされた。
 私は、一生涯幸福でいられるヒントがこの言葉の中にあるように思えるのだ。どんな自分でも−他人と比較して不幸な自分でも、その自分を全て受け入れることのできる勇気さえあれば、人は何時だって〈幸福〉なのだと思う。

■ TrueLiving ■
覚の会3月例会講話録(1999/03/18)
──山本隆師──
 ご承知の事と思いますが「臓器移植」の事が世間で話題になっておりました。話題の中心は、きちんとした手続きで脳死判定がされていたかというその辺のところです。しかし私はそうではなくて、臓器を貰う方の側に様々な問題があるのではないかと思います。
 臓器移植の場合、角膜や腎臓は亡くなられてから取り出しても大丈夫です。問題は肝臓と心臓です。これは生きておられる方のものしか移植できない。死んだ人のものではあかんのです。それで、不意の事故で、脳は死んでいるけれども心臓は動いている「脳死」という状態の方がいる。その人のものを貰うたらどうやと、こういう事になったわけです。昔は、肝臓や心臓の病気になると助からないという事でしたが、医学が進歩して今までに思わないような事が起こっているんです。
 私は、医学が進歩して臓器移植が可能になってきた中でね、臓器を貰う方の立場を考えているんです。
 ついこの間まで、心臓や肝臓が悪くなって病院に行った場合、医者は「貴方の心臓・肝臓は治りません」と言わなければならない。言 われた方は、「ああ、そうか」と諦めていた。これからは、「くれる人があったら命は助かるけれども、くれる人が無かったら助からん」とこうなります。今までは、心臓・肝臓が治らないと言われたら、もう命は長くないと考えて、残った人生について考える期間ができたわけです。ところがこれからは、残った人生を考えるんでなしに、誰かが臓器をくれないかとこういう事を考えるんです。これはどういう事かといいますと、誰かが不意の事故で死なへんかと、こうなりますね。
 大谷大学の沙加戸さんが、テレビのドキュメンタリーでこんな番組を放送していたと言われていました。ある方の娘さんが心臓の病気になられた。十五歳以下の子供は臓器移植ができませんから、アメリカに行かれたというんです。そして、アメリカで臓器移植を待っておられたと。その時にその方は何を思うたかと言うと、金曜日の晩になるとチャンスがあるかもしれないと。アメリカは完全週休二日ですから、金曜日の晩は遊んでいる若い人が多い。ですから、交通事故が一番多いそうです。その人は金曜日の晩になると、誰かが死ぬ事を待っておったというんです。しかし、心臓の提供者が現れなくて、娘さんは亡くなってしまわれました。その人は、娘さんが亡くなった時、ある事に気付かれた。自分の娘を助けたいばっかりに、人の死を待ち、人が不幸になる事を待っておったと。テレビの中で、様々な考えがあるから他人の事は言えないけれども、臓器移植を率先して推進していくという立場には立てないと言われていたそうです。
 私は少し観点を変えて、命が長くないと言われた時、残った人生をどう生きるか、或いはその事を縁として、私がどう生きてきたか、本当の自分のいのちに向かい合う機会なのに、「誰かが死んでチャンスがないか」と思うだけなんです。とうとう死ぬ時、「誰もくれなかった、残念だ」とこれだけです。これで死んでいかなければならん。そうすると自分の人生はどうなるでしょう。私はこの事が恐い。
 医学の進歩は評価もしなければならんし、間違いはない。しかし、それが及ぼすところの影響は、人間の思想を変えてしまうという事、この事が大変だと思うんですね。
 自分が死んでいくという事が、「臓器移植」によってぼやけてしまう。死ぬという事を人生の一つとしてみていくのが仏教です。我々は死ぬという事をとことん避けて生活している、その生活の有りようがもっときつくなるのではないかと思います。
 その辺のところがもっと議論されなければならないと思うのです。

 

■ コラム ■
浄土の教えは、提婆に惑わされた阿闍世の逆悪を縁とし
釈迦の勧めによる韋提希の願を機として興起せられたのである。
──金子大栄師口語訳『教行信証』総序より──
 寺院の本堂・家の仏間は仏法を聴聞する場所である。しかし、本堂・仏間で聞いた仏法が、本当に真の教えであったと頷ける場所は、そして真の教えを聞きたいと思い立つ場所は、どろどろした人間関係の中で営まれる「生活の現場」なのである。
 古代のインドに王舎城という国があった。その国には頻婆娑羅(びんばしゃら)という王様と韋提希(いだいけ)という王妃が幸せな暮らしをしていた。この夫婦には阿闍世(あじゃせ)という名の一人息子がいた。実は頻婆娑羅と韋提希は、この阿闍世が生まれ出た時に殺そうとした過去があった。
 阿闍世は、利発で心優しい、両親思いの青年に成長した。その成人した阿闍世に出生の秘密を語った者がいた。「貴方は生まれた時、王様と王妃様に殺されかけたのですよ。今がその復讐をする時です」と。阿闍世は苦悩し、それから激怒する。望まれぬ子として生まれのならば、両親を殺して王位を奪っても罪はない。阿闍世は父親である頻婆娑羅を殺し王と成り、家臣を使って母親である韋提希を牢屋に幽閉してしまったのだ。
 韋提希は、昔我が子を殺そうとしたことを忘れて歎き悲しむ。「我が子に我が夫を殺された。我が子に牢屋に閉じ込められた。我が家臣に囚人同然に扱われた。何故私はこんな目に遭うのか。誰か助けて下さい」。その韋提希に救いの手を差し伸べたのが、お釈迦様である。釋尊は韋提希が幽閉されている牢に赴き、韋提希に言って聞かせた。「人間関係が完全に壊れてしまい、疲れ果てたお前は他人に恨み言ばかり言っている。だが、お前が本当に望んでいることは、人と人が本当に分かり合える世界ではないのか。その世界を《浄土》と言う。今からそれを説いて聞かせよう」
 その時、史上初めて釋尊は「浄土の教え」を語った。家庭の中に人間関係がずたずたになった時、真実人間が分かり合える世界として説かれたのが「浄土の教え」なのである。浄土という世界を心から願う場所、また浄土という世界が真実であると頷ける場所は、どろどろした人間関係の中で営まれる生活の現場なのだ。

■ TrueLiving ■
伝承の蓮如上人C〜堅田・源兵衛の首
──良覺寺住職──
 近江国、特にこの湖南の地は蓮如(れんにょ)上人に関する伝説が、数多く現存している。我々の先祖が、蓮如上人から大きな影響を受けられたかが、こういった伝説からも分かると思う。
 湖南の中でも、殊に金森(守山)や堅田という在所には、蓮如上人の伝説が無数に残されている。今回は、堅田に伝わる有名な伝説である、「源兵衛の首の話」を紹介する。
 文明七(1475)年、蓮如上人六一歳の時に、吉崎(福井県)の地を退去され、大阪に向かわれ、そこに仮の宿を取られた。
 当時の蓮如上人の願いは、親鸞聖人の御真影(御木像)を安置する本願寺を再建することであった。当時、京都大谷の本願寺は、十数年前に比叡山の悪僧によって破却されたままである。さらに、親鸞聖人の御真影は三井寺に預けられている状態であった。
 蓮如上人を慕う真宗門徒(もんと)の尽力の結果、文明十年、本願寺再建の土地を山城国の山科に決定し、御堂再建のめどがたった。文明十一年に再建に着工、翌十二年に、御真影を安置する為の御影堂が完成した。
 蓮如上人をはじめとする御門徒達は、何とか報恩講を勤めることができることを喜び、三井寺に預けていた御真影を迎える準備をした。ところがここで大事件が起こったのである。
 三井寺は、御真影を預かったことで、全国の本願寺門徒の参詣が絶えず、大いに繁盛していたのである。金の成る木を返してはなるものかと、御真影返却を様々な理由をつけて渋りに渋った。再三にわたり、蓮如上人、本願寺僧侶、門徒衆は、三井寺に「親鸞聖人の御真影が無かったなら本願寺ではない。どうか御真影を返して下さい」と働きかけた。三井寺側も、何時までも返事をしないわけにはいかない。三井寺は難題を持ちかけ、時間をかせごうと考えた。その難題とは、
生首を二つ持参すればお返し申そう
というものであった。
 蓮如上人をはじめ一同は、困り果てて、評議を繰り返すが妙案は浮かばない。いたずらに時間が経過するだけである。その評議の末席に、堅田の源右衛門という篤信の門徒がいた。源右衛門は、我が首を差し出そうと覚悟を決めて帰宅し、息子の源兵衛にこう言った。
せめて報謝にこの首を、お役に立てる覚悟なり。されど今一つの生首が・・・
・ 息子の源兵衛は父の言葉を遮り、
一つ不足の首、私が差し上げます
と自ら申し出たのである。
 源右衛門は、涙に咽びながら、刀を手に持ち我が子の首を切り落とした。そして、その首を風呂敷に包み、三井寺に向かった。
 折しも三井寺と門徒衆の掛け合いの最中。源右衛門は、血が滴る息子の首を、三井寺の僧侶に前に差し出した。
今一つはこの白髪首、望みの通り取り揃え御用立に差し上げます。早く首斬り約束通り、御真影を御返し下され
と言い切った。三井寺の僧達の顔色が変わる。その時、三井寺の僧正が、
源右衛門とやら、我々が誤っておった。まさか本願寺門徒でも、報謝の為に命を捨てる信者があろうとは。速やかに御真影をお返し申す。首も入用にあらず。
と告げた。源右衛門は、
こんな事なら儂の首ですませたものを・・・・
と大声で哭いたという。
 御真影は山科本願寺御影堂に安置され、文明十五年には、全ての工事が終了した。
 源兵衛が実在の人かどうかは問題ではない。この「伝説」は、親鸞聖人が顕かにされ、蓮如上人が伝えて下さった、本願念仏の御教えに殉じて、亡くなっていかれた方々が確かにいたことを伝えている。我々の先祖達は、深重の意味を本願の教えに聞き開かれたのであろう。

 

■ コラム ■
悲しいことにホンマモンの坊主はほとんどいません。
死んだ人を地獄から極楽に送れるような錯覚に陥ってお経ばかりあげとる単なる葬儀屋が今の坊主というもんですわ。
ほんまの坊主やったら今、生きとる人間の苦しみを背負わなならんのが当然ですわ。
問題ははっきりしとるんです。ほんまにとことんやらなあかん。ほんまにそう思います。
──谷覚追悼文集『いのちあるかぎり』より──
 今年七月十九日、良覺寺前住職・釋覺證(谷覚)十三回忌、良覺寺前々坊守・釋尼智誠(谷ちよ)七回忌の年忌法要が勤修される。つまり、私にとって義父と義祖母の年忌法要である。
 十二年前、私は大学の二回生であった。その夏、同じクラブに所属していた谷真也の父親が亡くなったことを聞いた。私は、クラブの先輩や同輩と共に葬儀式に参詣させて頂いた。その時は、六年後に良覺寺の住職に就任するなどと考えもしなかったが。いわばこの時が、私と義父覚との初めての出会いであろう。
 縁を頂いて良覺寺に入寺し五年が経過した。多くの先輩僧侶が「覚さんは面白い人だった」「覚さんに教示を頂いた」と言って下さる。特に印象深かったのは大谷大学の沙加戸先生が言われていたエピソード。何かの研修会に義父が音響設備を持ってきた。その音響設備が研修中に壊れてしまった。主催の人達が恐縮して義父に謝った。その時に義父は、「金で済むことくらい、よろしいやないですか」と言われたらしい。金で済まないような御苦労をされていた義父の言葉だけに深いし重い。
 義父には『いのちあるかぎり』という遺稿追悼文集があったので一読してみた。この本は、義父の環境問題に関する文章を集めたものである。この文集の中で、上のような言葉を発見した。
 「ほんまの坊さんやったら今、生きとる人間の苦しみを背負わなならんのが当然ですわな」と義父は言われる。義父は、坊さんの仕事として、信仰運動として環境問題に関わっておられたのだろう。何よりも大事なものが分かっていたから、いのち在る限り運動を止めることがなかったのだろう。
 私自身、仏と成られた釋覺證師から、息子として良覺寺住職として、「ほんまの坊さん」に成ることを願われている者である。仏と成られた義父の願いに照らされながら、私は私のやり方で、「ほんまの坊さん」を成就する。

 

■ コラム ■
国豊民安──国豊かにして、民安し
兵戈無用──兵・戈、用いることなし
──『仏説無量寿経』より──
 浄土真宗の救いは死んだ後に成り立つものではなく、生きている今、浄土という世界を心に頂いていくことにある。心に浄土を頂きながら、「自分さえ良ければ」という自我の心を中心に生活するのではなく、阿弥陀仏の本願をこそ我が中心として生活していく人を念仏者(真宗門徒(もんと))と言うのだろう。我々は、現実生活の中で様々な事柄を選び取らなければならない。その時、「自分さえ良ければ」の心を中心に物事を選ぶのか、念仏者として阿弥陀仏の本願念仏を中心として物事を選ぶのかが問題となってくる。
 『大無量寿経』には、念仏者が、阿弥陀仏の本願念仏を中心として選び取るべき、具体的な現実社会を、
国豊民安──国豊かにして、民安し
兵戈無用──兵・戈、用いることなし
と教えている。念仏者は、国が豊かでそこに住む民が安らかに生活できるような現実社会を選び取る。そして兵(兵隊)と戈(武器・軍隊)を必要としない現実社会を選び取るのである。
 「国豊か」の「豊か」とは経済的・物質的を拡大していくということではない。欲を少なく、満足を知るような生活の事を本当の豊かさと言うのであろう。「民安し」は、自分所属する国や共同体だけが、平和で暮らすという事ではなく、国や民族の違いを超えて、全人類が平和で生活できる現実生活を言うのである。
 そして、そのような現実を成し遂げる為には、「兵戈無用」なのである。どのような理由があるにせよ、人間が人間を殺す為の組織はいらない。人間が人間を殺す為の道具はいらない。どんな戦争であっても、戦争という状況、若しくは戦争に関する諸々の道具を使う事作る事に、はっきり「NO」と態度決定していくのが、念仏者(真宗門徒)なのだと、仏は教えられている。
 それは仏の教えであると同時に、我々が心の深いところで本当に願っている現実社会でもあるのだ。

 

■ コラム ■
いつかは死ぬさ。
でもいのち≠ヘ永遠に
生きているのだよ。
──『葉っぱのフレディ』より──
 『葉っぱのフレディ−いのちの旅』という童話がベストセラーになった。童話といっても、この『葉っぱのフレディ』は大人が読むことを想定して書かれた童話である。葉っぱとして生まれたフレディが春に生まれ、夏を過ごし、秋を迎え、冬に死んでいくまでを描いたものである。
 葉っぱのフレディが春夏秋冬を過ごすさまは、生き物が営む一生の象徴である。フレディは春−少年期に様々なことを学び、夏−青年期に自分の仕事をし、秋−中年期に自らの生涯を省み、更に自らの死について考え、冬−老人期に死んで往く。
 フレディにはダニエルという葉っぱの友達がいた。フレディは秋を迎え、いよいよ自分の死が近づいてきたことを知った時、ダニエルに死について質問をする。ダニエルは、
  いつかは死ぬさ。でも"いのち"は永遠に生きているのだよ
と答える。冬、フレディは北風に煽られ木から落ちて死んでしまう。やがて枯葉のフレディの体は大地の中に溶け込み、木や新しい葉っぱという生命を育てる力となった。
 生命が生きて存在する(した)という事実は、単独でポツンとそこにある(あった)ということではない。過去からの無数の生命があってこそ生命は存在できるのだし、現在に於いても無数の生命と関係を持つことによってしか存在できない。また生命はたとえ死んでも未来に生きる生命の礎となる。そういう意味で、「"いのち"は永遠に生きている」のである。
 私達一人一人、今ここに生きているという事実は、無数の"いのち"との関係を頂いているという証拠である。また生きていることそのものが、他の生命に影響を与えることになる。生きる意味の無い"いのち"、存在する価値のない人間などないのだ。
 どんなに自分自身が自分を嫌い自分を見捨てても、"いのち"は自分を嫌うこともしないし、見捨てておくこともないのだ。

■ TrueLiving ■
覚の会7月例会講話録(1999/07/19)
──山本隆師──
 本日の日中、覚さんの十三回忌法要が勤まりました。覚さんは昭和八年生まれです。私も二月生まれですが同じ八年生まれです。ですから殆ど同じ世代を生きてきました。
 我々は今こうして生きていますけれども、死んだ後に何が残るかと考えます。皆さんはどうですか?自分が死んだ後に何かを残す自信がありますか?
 私はこの頃、考えさせられる言葉と出会いました。それは河村としこさんの言葉です。
 この河村さんは東京出身の方です。この方のお父さんは明石でキリスト教会を造る程の篤信のキリスト教徒でしたので、河村さんもまたキリスト教を信仰されていました。
 戦前、東京女子大学というキリスト教の学校を卒業された後、山口県出身の方と恋愛結婚されます。河村さん夫婦は東京に住まいされていましたが、戦況が悪化し疎開という形で山口県の実家に帰られます。
 山口県の実家におられた舅さんと姑さんは熱心に聞法する真宗門徒(もんと)で、聞法会があると何処へでも聴聞に行くという方でした。けれども河村としさんは熱心なキリスト教徒です。舅姑さんに「聖書」を見せて、どうかキリスト教徒になって下さいと教化しようとされます。舅姑さんは、頷いて聞いてはくれるけれども、キリスト教に入信する気配はありませんでした。 河村さんは、何年かそんなことを繰り返されていましたが、ある日仏法を聴聞する機会に出会われます。河村さんは、嫌々聞かれた仏法に大きな衝撃を受けられることとなります。
 河村さんがキリスト教の大学に行っておられた時に一つの疑問が生じます。キリスト教では死んだ後天国に往くか地獄に堕ちるか、生前に審問があるそうです。河村さんの疑問は、何故この審問があるか、どこで天国か地獄か判断されるのか分からないからないということです。どうしても分からないので先生に質問をしたところ、先生は「貴方の信仰が足りないから分からないのです」と言われた。そのことが長い間疑問として残っていたそうです。
 河村さんは、初めて仏法を聴聞された時、一つの言葉に出遇われまます。それは『歎異抄』の「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」という言葉です。この言葉の意味を端的に言いますと、浄土往生は善人でも悪人でも遂げることができるのだ、浄土往生には差別がないのだ、ということになります。河村さんは、この言葉に驚いて熱心に仏法を聴聞するようになられます。信仰が足りる足りないの問題ではなく、天国か地獄か人が判断するような教えに問題があると気付かれたわけです。
 舅さんも姑さんも、河村さんに「仏法を聞きたければ、何処でも行ってこい。子供の守りも家の事も心配するな」と言われたそうです。川村さんはとことん聞法し続けました。
 河村としこさんは今もご健在ですが、舅さんも姑さんも、ご主人も亡くなられています。その河村としこさんは、篤信の念仏者であった姑さんが何時も言われていた言葉を、今も大事にされています。それは、
  ないものを欲しがらず、あるものを喜ぶ
という言葉です。姑さんが、長い間真宗の教えを聞かれて、本願を頂かれて生活された中で何時も言われていたお言葉です。素晴らしい言葉だと思います。
 河村さんは今でも姑さんのことを片時も忘れずに生活をされています。それは、姑さんのこの言葉があるからでしょう。姑さんの存在がこの言葉となって、何時でも河村さんを照らしているのです。
 我々が浄土に帰った後、娑婆に残った有縁の人達に、金や物をだけを残すのでなく、自分の存在を表すような言葉、事柄を残せるかどうかが問われているように思います。

 


■ TrueLiving ■
永代経講話録(1999/09/23)
──黒川了洲師──
 今日の私達の生活を見て参りますと、大変に豊かですし、快適な生活をしています。五十年前の私達の生活と、今の生活を比較してみますと雲泥の差があります。昔なら、秋は芋ばかり食べていました。今は食べ切れない程の食べ物を作る。そしてほかします。着る物、住む所も非常に豊かになっております。
 現在私達の考える幸せは、豊かで便利な生活をするということです。旨い物を食べて、良い着物を着て、電化製品を沢山並べて、上等の車に乗るような生活をする。これが幸せだと考えています。つまり「物」が沢山あったら幸せだと考えているわけです。「物」を手に入れる為には「金」が必要です。「金があったら幸せや」。これが二十世紀の日本人の相になっているように思います。何か大事な事柄を見失ったように思うのです。
 何を見失ったのでしょうか?
 私が思いまするに、私が今ここに生きているという実感、いのちを生きているという実感が無くなったのではないでしょうか。
 昔は、腹が減っても仕事をしなければならない、暑くても寒くても遠い道のりを歩かなければならない、道具や辞書が無くても勉強しなければならない。そういう耐え忍ぶということを通して、「生きているのだ」ということを実感していたように思うのです。
 二年前の神戸で凄惨な事件が起こりました。
自らをサカキバラと名乗った当時十四歳の少年が、小学校六年の男の子を殺して、首を切り落とした事件です。この少年が自分のことを「透明な存在」と言いました。透明な存在とは、すっからかんの空っぽの私だと。居ても居なくてもどうでもいい、そんな自分だと言っているわけです。いのちを生きる私なのだ、自分は生きているのだという感覚が全く無いのです。自分がいのちを見失っているから、他人のいのちも見えないわけです。
 今の日本人は多かれ少なかれ「透明な存在」になっているのではなかろうかと思います。いのちが見えなくなっているわけです。豊かな時代にあって、金や物だけを追い求めている。その中で、多くの日本人は、生きている実感、いのちを生きている感覚を持たないような「透明な存在」になりかけているように思うのです。
 それでは、いのちとは何でしょうか?。
 地球は四十五億年前にできたました。そこは生物がいない燃えた星でした。そこにはじめてアメーバーが生まれたのが三十億年前です。その原始生物が、また長い時間をかけて進化し猿が誕生する。道具を使って生活する人間にまで進化したのは約一万年前です。私が今ここに人間として生きる為には、三十億年という長い年月がかかっているということです。そのいのちの繋がりを、私は頂いておるわけです。
 今ここで生きている為には内蔵が動かねばならない。これを自分で動かす人はいない。言うなれば大自然の大いなるはたらきによって動いている。生きる為に必要な水や空気、食べ物となる他の動植物は、大きなはたらきによって、ここにあるわけです。言ってみれば我々は生きているのではない。生かされているのです。
 このはたらきを「無量寿(量ることのでき無い寿のはたらき)」と言います。そして親しみを込めて「無量寿如来・阿弥陀仏」とも言います。阿弥陀仏という大いなるはたらきに生かされている事実が人が生きている原点なのです。
 阿弥陀仏は、いのちを生きていることを忘れて生きている我々に対し、「阿弥陀仏に南無せよ。無量寿如来に帰命せよ。大いなるいのちのはたらきに生かされているのだと頷け」と呼び掛け続けて下さっているのです。
 現在の日本人がいのちが見えなくなったということは、換言すれば南無阿弥陀仏が忘れられていると言えるのではないかと思うのです。

 

■ コラム ■

 ある所に篤信の真宗門徒(もんと)であるお婆ちゃんがおられた。このお婆ちゃんは毎朝お内仏に向かって、南無阿弥陀仏と念仏を称えられていたそうだ。そのお婆ちゃんには小学生になる孫がいた。その孫もお婆ちゃんの真似をして、毎朝お内仏に向かって、南無阿弥陀仏と称えていた。親戚の人も近所の人も、「感心な子供や」と言ってくれる、お婆ちゃんにしてみれば自慢の孫であった。
 ある朝、いつものように念仏を称えている孫に、お婆ちゃんは「お前、どういう心持ちで念仏を称えてるんや」と聞いてみた。孫は口ごもって答えない。何かおかしいと思いながら、同じ質問を何回もしてみた。孫はお婆ちゃんが、あまりにしつこいので、「言うてもええか、言うても怒らへんか」と念を押して、こう答えた。「お婆ちゃんが、早く死ぬようにお願いしてるんや」と。
 つまり、お婆ちゃんが死ねば、お婆ちゃんが使っている部屋が自分の部屋になる。だからこの孫はこんなことを考えたのだ。それからお婆ちゃんの落ち込みようは半端ではなかったという。
 これは極端な話であるが、自分の欲望を満たす為だけに神仏を利用すること、南無阿弥陀仏と称える行為が、自分の欲を満足するだけの手段となってしまっているのということは、我々の日常の中にもあるのではないだろうか。南無阿弥陀仏と称えても、実際には「南無」が無いのである。
 「阿弥陀仏」とは、一切のいのちを平等に生かそうとする《はたらき》である。「南無」とは、そうでありましたと頷くこと、心の頭が下がること。「南無阿弥陀仏」とは、平生はそんなことを忘れていたけれども、いのちを平等に生かそうとする《はたらき》の中に、私も同じように生かされていましたという、心の頷きなのである。南無の無い阿弥陀仏は、ただの偶像か客観的な知識でしかない。真宗門徒の御本尊は「阿弥陀仏」ではなく、阿弥陀仏こそ真であるという頷き−「南無阿弥陀仏」なのである。

■ TrueLiving ■
覚の会9月例会講話録(1999/09/19)
──山本隆師──
 家庭の中でお年寄りは大事な存在だと言えます。特にお婆さんは家庭の精神生活を支える人です。
 大谷派に池田勇諦師という方がいます。同朋大学学長をされました。この方は在家出身なのですが、真宗の僧侶を志されます。
 池田先生が生まれられた家にはお婆さんがおられました。このお婆さんは熱心な聞法者で、桑名の別院に毎日お説教を聞きに行っておられた。ところが、このお婆さんは目が不自由だった為に、孫が杖の代わりに付いて行かされていたそうです。池田先生は一番末っ子だったので、お婆さんが亡くなるまで、杖の代わりをされていました。
 池田先生は子供ながらに説教を聞く中で、説教の中に「後生の一大事」という言葉が何回も登場するのに気付かれます。池田先生は気になって、ある時お婆さんに、「お婆ちゃん、後生の一大事とはどういう意味?」と質問をされました。普通のお婆さんなら答えられないかもしれない。難しいことは分からないとごまかすかもしれない。
 しかし、池田勇諦先生のお婆さんは即座に、こう答えられました。
  後生の一大事というのは、人間が死んで往けるかということや
と。
 我々の感覚なら、「死なねばならない」でしょう。しかし同じ死でも、死を自分に受け入れて、「死んで往ける道」があると、池田先生のお婆さんは言うておられるわけです。
 この言葉が非常に池田先生に影響を与え、仏道を志す機縁になったそうです。
 もう一人、こういうお婆さんの話をします。
 仏教の研究者で「ひろさちや」という方がおられます。ひろ先生も在家出身ですが、仏道を志し、仏教を研究し多くの本を出されています。この方もお婆さんの影響を受けられました。
 ひろ先生のお婆さんも篤信の仏教徒で、毎日孫のひろ先生を連れてお内仏に参っておられました。ある日、いつものようにお内仏にお参りして茶の間に帰ってきた時、お婆さんがひろ先生に、「お前は仏様に、どのようにお参りしてきたか」と質問されました。ひろ先生は、「今日は算数の試験があるから、良い点が取れるように頼んできた」と答えた。
 皆さんはもしかしたら、良いことをしてきたといわれるかもしれない。しかし、ひろ先生のお婆さんは、「その参り方は間違いやから、もう一回参ってこい」と言われたそうです。そしてお婆さんは、
  仏様に参る時に、ああしてくれ、こうしてくれと頼むのは間違いや。仏様に「ありがとうございました」と言うのが参り方や
と、ひろ先生に教えられたそうです。ひろ先生は、この言葉が仏教や宗教を考える時の指針になったそうです。
 最近のひろ先生は、「日本人のお参りは請求書ばかりである。本当は領収書のお参りをするものだ」と言われています。仏様に請求書をぶら下げてお参りしているけれども、「ありがとう」という領収書の心で参ることを忘れていると言われているわけです。
 二人のお婆さんの話をしました。何故かお爺さんの話は出ませんが、昔から家庭の中の精神生活といいますか、仏の御教えを家族の者に伝えるのが、お年寄りの役目だったのでしょう。
 親と年寄りは家庭の役割が違うと思います。親は子に勉強を教えたり、現代の価値観を教えたり、倫理的なことを教えたりしなければならない。お年寄りの役目は、そんなことを教えるのでなく、もっと普遍的な、子供の心にいつまでも残り、その子の精神的な基礎になるようなことを教えなければならないのでしょう。

 

■ コラム ■

 皆さんは、息子や娘や孫から、
  サンタクロースは、ほんまにおるんか?
と尋ねられたら、どうお答えになるだろう。「そん者はおらんぞ」と答えるならば夢が無い。かといって、「サンタクロースはクリスマスイブに橇に乗って、お前の所にも来てくれるぞ」と答えるのもどうか。自分が信じてもいない事を、子供に教えることは嘘を付くことになりはしないか。
 一八九七年、『ニューヨーク・サン新聞』(『ニューヨーク・タイムス』の前身)に、バージニアという八歳の女の子から「サンタクロースって、ほんとうにいるんでしょうか?」という手紙が届いた。こんな手紙を握り潰すこともできただろう。しかし『サン新聞』は、この幼い子供の質問に対して、社説欄を使って真摯に答えたのである。書いたのは、フランシス・チャーチーという記者だった。その質問と応答が上の文章である。
 チャーチーは、「サンタクロースは存在する」と言い切る。そして、「実在の目に見えるサンタクロースはいない。しかしサンタクロースという形で表された、目には見えないけれど、真実の愛や真心や思いやりという事柄を、子供達にプレゼントするはたらき≠ヘ確かに存在するんだよ」と答えている。チャーチーの思いやりに満ちたバージニアへの答こそ、サンタクロースのはたらき≠サのものだろう。
 この答は、フランシス・チャーチー自身の信仰心、宗教に対する考え、人生経験が言葉になったものである。
 「サンタクロースは本当にいるのかどうなのか」という子供の問い掛けに、私達はどのように答えるだろうか。子供からの屈託のない問い掛けを通して、私達大人一人一人が、「貴方の信仰とは何か、貴方にとって宗教とは何か、貴方はどのような人生を生きているのか」ということが問われるのだろう。

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【前編】(1999/11/06.07)
──橋本保信師──
 皆様方にお尋ねしたいのですが、「私は何を信じたらよいか」と思っておられる方はおいでになりませんか。私は真宗だ、お念仏だと思っておられるのならかまいません。
 ある場所で四十歳位のご婦人の方が、高名な先生に、「私は何を信じたらよいのでしょうか」と質問をされました。その方の顔を見ますると、随分大きな問題を抱えて、どうしたらよいかのかと悩みに悩んでおらる様子が感じ取られました。生活が充足し、日々満足されている方々にとって、「何を信じたらよいのか」という問は出てきません。一つ何か大きな問題が出てきた時、私は真宗や、私は門徒(もんと)やと言っておった人が、私の信じるものは何かという問が出てくる。そのご婦人もそうであったのです。
 この「何を信じたらよいのでしょうか」という問は、大きな問題を抱える中で、一体何の教えを聞いたら、この問題は解決するのですかという答を求めてのことであったでしょう。
 その質問の深意を汲み取り、その先生は、
  信じようとなさっている、貴方はどのような者ですか
と応えられました。
 私達人間が「阿弥陀如来を信じます」という場合、信じる私達人間が主(主人公)です。信じられる如来は従(家来)です。如来様を私達の問題を解決する為に、私達の思うように如来様を使おうとしている根性の表れです。
 ですから「何を信じたらよいのか」と尋ねられたご婦人の根本的な思いは、私の問題を解決してくれる、私の願いをきいてくれるのは、どこの仏でしょうかと聞いておられるのです。
 その高名な先生が、「貴方はどのような者ですか」とお応えになったのは、「自分の都合の良い人生だけを求めている、貴方自身の相に本当の問題があるのではないでしょうか。そのことを問うて下さい」と言われたわけです。
 私達の持っている自分では知ることができない闇を照らし、私達の本当の相を知らして下さるのが阿弥陀如来の光明です。
 また「信心する」ということはありません。信心は如来様からいただくものなのです。お念仏は如来様からいただくものなのです。
 一般に「仏様を拝む」と言います。しかし皆様方、今日から「拝む」ということを思わないように、言わないようにして下さい。
 私は農家出身の九人兄弟の末っ子です。私のお父さんが私が僧侶に成るように願い、様々な縁を頂いて僧侶に成りました。私が子供の頃、その父が私に対して、ご飯を頂く前に、
  御前にお礼をしてきたか、お礼してこいよ
と、必ず言ったことを今でも覚えています。
 島根の私の里でお内仏のことを御前と言います。私の父は、一度も「御前を拝んでこいよ」とは言わなかった。私は子供の頃、父が何を言っているのか分かりませんでした。阿弥陀様から小遣いをもらった覚えがありません。何故、「お礼」を言わねばならないのか疑問でした。
 この歳になってやっと、「御前にお礼してこいよ」という言葉が分かるように気がします。
 拝むというと拝まれる阿弥陀様がある。阿弥陀様に私の都合の良い人生だけを下さいと、主人公はあくまでも私になってしまいます。
 私が助かる為に念仏があるのではない。煩悩を兼ね備えた私達には何もできないわけです。私を助けて下さるはたらきを念仏を言う。救うか救わないかは阿弥陀様の仕事です。阿弥陀様は、どうにもならない私一人の為に大きな願いをかけて下さる。その願いをかけて下さったことに「お礼」をするのです。【続く】

【後編へ】





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