■ コラム ■

 私事で恐縮であるが、先般十二月十四日、谷家に二女が誕生 した。名前を「利華音」と命名した。風変わりな名前である。
 我々が親しんでいる『正信偈(しょうしんげ)』の中に、
是人名分陀利華−この人を分陀利華と名づく
という言葉がある。『観無量寿経』の一説を原典にして、親鸞(しんらん)聖人が書かれた言葉である。「利華音」の「利華」は、「分陀利華」の「利華」から採らせて頂いた。
 「分陀利華」とは「白蓮華」のこと。古来仏教徒はこの白蓮華を高貴な覚りの華、仏法の象徴として大切にしてきている。
 白蓮華を別名「淤泥華」とも言う。蓮華は清らかな高原には咲かない。蓮華はドロドロした泥の中に咲く華である。しかし咲いたその華は清浄純白で、泥が一つも付かない。ここに白蓮華を覚りの華に例える意味がある。仏教で言う覚とは、清らかな場所で成り立つものでない。覚とは、ドロドロした問題を抱え、煩悩と分別心でその日その日を営む、泥の中のような「生活」の中でこそ成り立つということを表しているのである。
 貴方が大きくなった時、自分の思い通りの生活ができるわけがない。辛いこと、悲しいことに出会うだろうし、死にたくなるような不幸に見舞われるかもしれない。その時、そんな泥のような生活の中で、阿弥陀如来の教えを聞き取って欲しい。そして覚の華を咲かせて欲しい。それは微かな音かもしれないけれど、如来は必ず貴方の側にいてくれるのだから、耳を澄ませば聞こえてくるはずだ。如来の教えを聞き切り、もう一度自分の人生を全て受け入れ、自らの人生を生き切って欲しい。それが、姉ちゃんの名前の「真実」を生きるという意味ですよ。
 私は、こういう願いで、この子に「利華音」と名付けた。
 「高原の陸地に蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず」(『教行信証』証を顕す巻より)

■ True Living ■
覚の会11月例会講話録(1999/11/19)
──山本隆師──
 先般十一月二日に大津別院で「湖南地区同朋婦人研修会」が開催されました。メインテーマは『家庭における宗教教育』でした。その時、二人の御講師をお招きしてお話をお伺いしたのですが、その講師の一人が稲岡昌瑞さんという方でした。この方は浄土宗極楽寺の住職です。また信楽町教育長を歴任されていました。その稲岡先生がクリスマスの話をされていたのが印象に残っています。
 一八九七年の十一月、ニューヨークに本社がある、『ニューヨークタイムス』という新聞紙に投書が来た。投書したのは八歳の女の子だったそうです。その投書には、何が書かれていたのかと言うと、
私の友達にはサンタクロースは本当はいないと言う人がいます。サンタクロースは本当にいるのか教えて下さい。
という質問でした。これは難しい質問です。皆さんもお孫さんから、「阿弥陀様は本当にいるの?、お地蔵さんは?」と問われたら答え方に困るでしょう。
 『ニューヨークタイムス』の記者も困りました。そんな投書は握り潰すこともできたかもしれません。しかし記者達は、その質問に懸命に応えようとします。そして『ニューヨークタイムス』の社説欄にその応えを掲載しました。それは、
  サンタクロースはいます。サンタクロースがいないと言っている人は、サンタクロースの姿形だけのことを言っているのです。トナカイの引く橇に乗り、煙突から入っている髭のお爺さんとしてのサンタクロースはいない実在しないかもしれない。サンタクロースは目に見えないけれども、存在します。
というものでした。この「社説」は、後に社説欄の手本となる程に有名になりました。
 私も同じことを考えていました。目に見える形でサンタクロースはいません。サンタクロースというはたらき≠ヘいます。子供が本当に願う事をプレゼントしてくれるというはたらき≠持ったサンタクロースは存在します。
 皆さん、今年はサンタクロースに成って下さい。女性はサンタクロースに成れないとか、煙突が無いからダメだとかは言わないで下さい。大事なことは、私がサンタクロースに成って、子供の夢、希望、願いを叶える存在になることです。サンタクロースというものによって表されている「心」を、私も持つことが大事なことなのです。
 「同朋婦人研修会」ではもう一人、大谷大学の一楽真先生のお話を聞きましたが、一楽先生は講義の中で、去年の日本での自殺者数が二万五千人を超えたことに着目されています。
 自殺者の中で一番多いのがお年寄りです。そして次に多いのが、二十歳以下の子供達です。現代の日本は豊かになったけれども、生きていく希望や夢が無くなってきているのではないかと言われていました。
 大谷派では「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という事を言ってきましたが、子供達が、物質的な豊かさの中で、生まれた意義、生きる喜びを喪失しているのが現代です。これでは本当の豊かさとは言えません。
 一楽先生は、世間の価値観は放って置いても子供達に伝わるが、宗教的なこと−善い・悪い、儲かる・儲からない、能力がある・能力がない等々で物事や人間を計る世間の価値観を超えた価値観−は、身近にいる大人の相を通して伝わるのだと言われています。
 皆さん、サンタクロースのはたらき≠して下さい。子供達が本当に願うこと−「生まれた意義と生きる喜び」を、自分自身の後ろ姿を通して、子供達にプレゼントして欲しいと思います。

 

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【後編】(1999/11/06.07)
──橋本保信師──
 「仏事」「法事」という言葉があります。今日は誰々の何回忌だから、御院主さんにお願いして平生よりも長いお勤めをして頂こうと、沢山の御供をしようということで法事が勤まります。これでは、生きている我々が、向こう(仏・先祖)に何かをしてあげあるのだという感じがします。しかし仏事・法事の本来の意味はそうではないのです。
 良覺寺のお内陣を見て下さい。花はどっちに向いていますか?打敷はどっちに向いていますか?燭台の蓮の実はどっちに向いていますか?。私が仏に供えるのなら逆でしょう。
全部私の方に向かっておるでしょう。
 今日こうして、お内陣の方に向かった時、美しいお荘厳だなと感じられると思います。
 木像の阿弥陀の姿は見えます。しかし阿弥陀の御心は分からない。大きな慈悲心が仏の御心だと経典には書いてある。しかし、それは目には見えない。そこで美しい花になって下さる。蝋燭の灯になって下さる。輪灯の火になって下さる。打敷になって下さる。荘厳は全て阿弥陀の大慈悲心を表しているのです。
 そのお荘厳が全て私の方に向かっているということは、阿弥陀様の大慈悲心は、私に向かって下さっているということなのです。
 私達は仏様、御先祖様に何でもしてあげたと思っております。しかしそうではなかった。私は阿弥陀様の大慈悲心を頂いておるのです。
 仏事・法事は、亡き御先祖を憶念する、思い出すことを通して、阿弥陀仏の大慈悲心を頂く時と場なのです。そして頂いた大慈悲心にお礼を言う時と場なのです。
 妻が妊娠した時、心音(胎児の心臓音)を聞きました。それを聞いた時、私が命を与えられたその瞬間から心臓は休むことなく動いておって下さるのだなと感じました。私は休みを取ります。しかし心臓は休んだら動きません。心臓だけではない、体の中に入っておるもの全てそうでしょう。その体を支えて下さる全てのものが私にどのような願いを掛けて下さっているのかというと、「生きて下さい」という願いです。
 いのち全体が、私のいのちではない。私はいのちを作った覚えがない。いのちは「生きて下さい」という願いから賜ったものなのです。それを忘れて生活しているのが私の相です。
 親鸞(しんらん)聖人の教えもそこにあります。
 回向という言葉があります。回し向けると。親鸞聖人は、人間から回向する(回し向ける)のではない、阿弥陀から私が回向されるのだと言われます。そこが他宗派と違うところです。
 全てが頂きものです。何もかも、私のいのちだと言っておったいのち全体が頂きものだということです。その事実を阿弥陀仏という言葉で表したのです。
 天気の良い日に掃除をしていると、平生見ることのできない埃が見えます。埃はどこまでも埃ですが、光が当たると輝いて見える。私達も埃みたいなものです。何の値打ちもない。しかし阿弥陀仏の光明によって照らされたならば、その埃のような私達の人生が光輝くのです。深重の意味を持つ、賜ったいのちを生きる者として自分自身を見い出せるのです。そこに私の計らいはありません。
 南無阿弥陀仏とは、私も阿弥陀仏−「生きて下さい」という大きな願いから賜ったいのちを生きていましたということに、南無−頷くことです。それが真宗の救いです。阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏を称えよ。いのちの事実に頷きなさい」と呼び掛け続けて下さっている。阿弥陀仏から念じられている私達です。
 南無阿弥陀仏の念仏の教えは、私が助かる教えではありません。私を助けて下さるはたらきが南無阿弥陀仏です。「私が」ではなく、「私を」です。私が仏様のことを念ずるのが念仏だと思っておった。しかしそうではない。仏が私を念じて下さるのが念仏なのです。

【前編へ】


 

■ コラム ■
仲間意識が
仲間外れを
作り出す
──玉光順正師──
 森永ヒ素ミルク事件の被害者救済に力を尽くされた中坊公平氏という弁護士がおられる。ある小冊子に、中坊氏がヒ素ミルク事件を通して出会った母子の話が載っていた。
 ヒ素ミルクのせいで障害を持たれた子供に、母はやっとの思いで、「オカ」と「マンマ」という言葉を教えた。しかし、その子は教えもしない、「アホ」という言葉を覚えていた。その言葉は周りの子供が彼に浴びせかけていた言葉であった。彼は人前で泣くことが決してなかった子供であった。周りは、「泣くこともしらない、アホな子だ」と言った。しかし、彼はいつでも外から帰って、母の顔を見ると顔をうずめて泣いていたそうだ。
 子供は、自らが大人の世界を見て学んだ世間の掟・世間の法則を、そのまま生き、実行する。お母さんの胸にしがみついて泣いていた彼に、「アホ」という言葉を浴びせかけていたのは、本当は誰だろう?と自問する。
 阿弥陀仏の本願とは、何時でも何処でも誰にでも、「あなたは誰かと比べることができないいのち≠生きているのですよ」と呼び掛け続けて下さるはたらきである。本願に出遇ってこそ、自らも他も尊敬できるのだ。
 阿弥陀仏の本願に出遇い、本願を憶念することがなかったならば、私(達)はいつまでたっても、世間の中で、彼に「アホ」という言葉を浴びせ続ける者でしかないのだろう。

■ True Living ■
覚の会11月例会講話録(2000/01/19)
──山本隆師──
 本年は西暦で二〇〇〇年という年であります。
 この二千年という時間の周期は面白いものでありまして、世界的にみて二千年という単位で人間の質が変わってきたということがあります。
 今から二千年前、またその前の二千年は、人間の階級というものがはっきりしていて、支配する者、支配される者がはっきりしておりました。もっと言うと、支配する者は人間であったかもしれませんが、支配される者は人間でなかったということがあります。
 四千年前のエジプトにピラミッドという王様の墓ができました。ピラミッドを実際に造ったのは奴隷です。王様の言う事を聞かなかったら殺された人達でしょう。その二千年後、中国では秦の始皇帝によって万里の長城が造られた。これは北方から蒙古の人達が攻めてくるのを防ぐ為に造らしたものです。しかし造らされている奴隷にしてみれば、蒙古より始皇帝のほうが怖かったはずです。
 エジプトの王にしても始皇帝にしても、奴隷など人間とみていなかったはずです。
 「アラビアンナイト」は、王様が毎日女を取り替えて、一晩寝たら殺していく。あの『千夜一夜物語』は、ある女性が面白い話を毎晩して、殺されることを免れたという話です。王様にすれば、一緒に寝る女は道具でした。
 権力を持った者のいのちと権力を持たない者のいのちに、はっきりと差別のあった時代です。その時代に、「人間とはそれでよいのだろうか」と問いを投げかけた人達がいました。その一人が、二千五百年程前にお出ましになったお釈迦様でしょう。そして二千年前がイエス様です。更に、日本でいえば聖徳太子の時代に、イスラム教の教祖であるマホメットが生まれます。
 こういう方々がお出ましになって、権力を持つ者が権力を持たざる者を殺していく時代に、それはおかしいのではないかと疑問を投げ掛けたわけです。
 この方々の教えは、誰が聞いても頷ける道理であった為に世界的に広まっていくわけです。
 今年で二十世紀は終わるのですが、この二十世紀という百年間は、最も人間が人間を殺した百年間でした。二億人程人間によって殺されています。それまでの時代は、勿論そういうことがなかったとは言いませんが、無差別に人間が人間を殺すということはなかったわけです。
 二十世紀の戦争の特徴は、戦争をしていない人を殺したということです。また、多くの人を能率よく殺す為の技術が格段に進歩しました。毒ガスや原子爆弾がそうです。中東戦争では、人を見ないでテレビ画面を見てミサイルを撃っていた。
 この二十世紀の有り様は、ピラミッドを造ったり万里の長城を造る為に、人間を道具あつかいしてきた有り様と、本質は同じように思えます。
 私が思いますに、ピラミッドや万里の長城の時代は、普遍的にいのちの平等を説く宗教が無かった時代ですが、二十世紀は宗教が忘れられた時代です。また宗教よりも、○○主義という思想が権威を持った時代です。
 この二十世紀という時代は、言ってみれば人間が様々なことを実験した時代でした。ドイツで言うならば、ゲルマン民族が神よりも上だから、殺すなかれという神の教えを無視し、ユダヤ民族を殺しました。日本で言うならば、天皇さんの命令が仏の教え─いのちの平等よりも上だから、殺してもよいとか、それが通用した時代であったと言えます。
 この西暦二千年という年は年号としてきりが良い年ではなく、私は、人類が生きてきた歴史として、問い直さなければならない二千年間の節目だと考えています。

 

■ コラム ■
前に生まれん者は
後を導き、
後に生まれん者は
前を訪え。
連続無窮にして、
願わくは
休止せざらんと欲す。
──『教行信証』結びの言葉より──
 『西遊記』で有名な「三蔵法師」は、隋末から唐の時代(六〇二〜六六四)に生きられた実在の人物である。
 「三蔵法師」の本当の名を「玄奘」と言う。玄奘が生まれ育った、隋末から唐の時代は正に戦乱の時代。玄奘は、その時代を生きることを通して、「真実という事柄があるのなら、苦悩する多くの大衆と共に、真実に生きたい。何より自身が真実に生きたい。その為に真の教えを聞きたい」と願うようになる。そして、お釈迦様の真の教えに出遇う為に、またお釈迦様の真の教えを中国に持ち帰る為に、中国からインドへ取経の旅をされたのである。
 取経僧といえば玄奘が有名であるが、玄奘のように願いを建て、教えを伝える為に命を懸けた方々は、有名無名、無数おられたのであろう。お経を一つ持って帰ったところで、それは砂漠に一滴の水を落とすようなもの。しかし、その一滴の水がいつかオアシスとなって砂漠に恵みを与えることを信じて。
 私達がお経に触れ、教えを聞くことができるのは、無数にいた「玄奘」の尽力による。その方々の、「縁ある者よ、真の教えを聞いて欲しい、真実に生きて欲しい」という願いが、場所と時代を超えて、お経を私達に伝えてきたのである。
 私は、お経に書かれたことの尊さに先立って、まずお経を伝えようとされた方々の願いが尊いのだ、と思うのである。

■ TrueLiving ■
永代経講話録(2000/03/20)
──内藤正師──
 本日ここで皆さんとお会いできるのは、蓮如(れんにょ)上人がいらっしゃればこそです。蓮如上人がいらっしゃればこそ、私達は真宗門徒(もんと)にさせて頂くことができたのです。
 本日は蓮如上人のお仕事をお伝えして、皆様と共に味わっていきたいと思います。
 「御文」の最後は、「あなかしこ、あなかしこ」と書いてあります。手紙の末尾に、「かしこ」と書かれます。これは、「尊いことでございます、私の拙い文章を読んで下さって勿体ないことであります」という意味です。その前の、「あな」は感嘆の意味です。
 蓮如上人は二百何十通もの「御文」を、「よく読んで下さって、本当に有り難う御座います」という心を込めてお書き下さり、お配り下さったわけです。  この「御文」に書かれた御心とはどういうことか、このことを頂かねばならないと思います。
 『蓮如上人御一代記聞書』に
  御文は、これ、凡夫往生の鏡なり
とあります。
 自分では見えない自身の姿は、鏡に映すことによって知ることができます。そして外見を直したりします。しかしこの場合の「鏡」は、目には見えない心を映す「鏡」です。自分自身では知ることのできない自身の心を映し、知らして下さる「鏡」が「御文」だと言われています。
 「凡夫」は『観無量寿経』に、「心想羸劣にして未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず」とあります。つまり、心で想うことが弱々しく劣り、正しい物の見方ができず、遠くを見ることができないで、何時でも目先のことだけしか見えない。これが「凡夫」です。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の迷いの世界を何時でも回り、今生きている自分に不満を抱き暮らしているのが私達凡夫の相なのです。
 「往生」とは浄土往生です。六道という迷いの世界を一歩出てるわけです。自分の生きている境遇に不平不満ばかり抱いておったけれども、その自分の境遇をまるごと頂くことができる眼を賜るのです。これが「往生」です。往生は死んでからではない、生きている今のことです。不平不満が出るのは境遇が悪いのではない。私達凡夫の心から出る。「往生」とは、その心を省みて、今生きている自分自身を丸ごと頂く眼を頂戴することです。
 蓮如上人はその生涯をかけて、「聞法道場」として僧坊を建立されました。
 蓮如上人は、あちらこちらの御坊を建立されました。有名なものは吉崎御坊です。八二歳には大阪(現大阪城)に石山御坊を建立されています。
 蓮如上人は幼少の時、お母様と生き別れになっておられます。その時、お母様は蓮如上人に対して、
  聖人の御一流を再興しなさい
と言われています。蓮如上人はこの言葉を自らの課題として担われ、その生涯をかけて、この言葉を実践していかれます。
 「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候」とありますように、親鸞聖人が本当に勧められたことは、真の信心を頂くことです。信心はするものではありません。頂くものです。
 蓮如上人は大阪の石山御坊を、その生涯の最後に栄花栄耀をこのみ、花鳥風月を楽しむ為に建てられたのではありません。信心を頂く人が一人でも生まれてくることを願われたのです。
 私達の先祖は、蓮如上人の教化に出遇い、お念仏の教えを聞き、真の信心を頂いていく為の場所─聞法道場を建立されたのです。良覺寺もそういう願いがあってこそ、ここにあるのしょう。未来の縁ある者に念仏の教えを伝えたいという願いは、蓮如上人の願いと同じです。
 お寺があればこそ人が集えるわけです。集った人達が出会うことができるのです。そして念仏の教えを通して自分の日暮らしの相を省みさせていただくことができるのです。
 私達がこうして良覺寺の永代経にお参りさせて頂いているということは、蓮如上人、先達の大きな願いがあればこそです。その願いを通して教えを聞き、信心を頂くことが、真宗門徒として生まれた大きな謂われであると思っております。

 

■ コラム ■
現在の子供の不幸は、
親自身が変わろうとしないで、
子どもだけ変わることを
要求することなのではないでしょうか。
──林 竹二 師──
 ある雑誌に書いてあったことである。多くの子供の親に掛けられた印象に残る言葉は、「早く」「〜しなさい」「〜してはいけません」なのだそうだ。これらはある意味で「命令」の言葉である。
 子を持つ親としてドキッとさせられる。
 勿論「しつけ」は重要な事柄である。ゴールデンウィークに、子供の集まる場所に出掛けたが、静かにしなければならない場所、走ってはいけない場所で、子供にそこのことを教えられない、叱れない親の多さには驚いた。
 我々親は、「しつけ」は大事なことであると押さえた上で、もう一度、子供達の親に掛けられた「印象に残る言葉」が、優しさを感じる言葉でもなく、人生に示唆を与えてくれた言葉でもなく、「命令」の言葉であることを考える必要があると思う。
 仏教では、親と子は同い年。子供が生まれたその時に、親としての自分も生まれたのである。子供の産声は、子供の誕生と共に親としての自分の誕生の声でもあるのだ。同い年なのだから、人として一緒に大きくなればよい。そのためには、子供と共に感じ、共に泣き笑い、共に成長していく─「共に今を生きる」という視座が大切なのだろう(真宗ではそういう視座を「信心」というのだが)。
 子供の親に掛けられた印象的な言葉が、我々親の「心」を感じられるような言葉であることが願われる。

■ TrueLiving ■
覚の会3月例会講話録(2000/03/18)
──山本隆師──
 この前『心の時代』というラジオ番組に、松本梶丸さんという真宗大谷派の僧侶が出演されていました。この方は石川県松任の寺の住職です。この方が、加賀でお念仏の教えを聞いておれる方をお訪ねになり本にしておられます。そのことを話されていました。
 加賀という国は寺と門徒(もんと)宅が遠いわけです。しかしどれだけ遠くてもお寺に参られます。松本さんがあるお婆さんに、「遠くて大変ですね」と言うと、お婆さんは、「これが私の仕事です」とお答えになったそうです。聴聞するのが仕事ですから、何よりも優先され、苦にならないわけです。また違うお婆さんは、家に訪ねてきた新興宗教の人の「貴方は不安がありませんか?」という質問に対して、「不安があるから、仏法で出遇えるんや」と答えられたそうです。新興宗教の人は、「貴方は後光が差してます」と言って帰られたそうです。
 真宗には「妙好人」という言葉があります。住職でも坊守でもない。得度を受けた僧侶でもない。しかし市井で仏法を聴聞してきた人達です。ある意味で松本梶丸さんは、現代の妙好人を探しておられるのかもしれません。
 この番組の中で最も印象に残っていることをお話しします。福井県のある地方に行くと、
  はたらきさま
という言葉が、今でもあるそうです。この「はたらきさま」というのは何のことかと言うと、「阿弥陀如来様」のことを指しているわけです。
 阿弥陀如来が居られる場所はどこかと聞くと、よく寺の本堂とかお内仏と言われます。こう言ってしまうと、阿弥陀如来は限られた場所にしか居られないことになります。つまり阿弥陀如来を具象化(形として見る)し、対象化(私と仏を分ける)しているわけです。しかし私といつでも一緒に居て下さるのが本当の如来様です。
 如来様を「はたらきさま」と呼ぶことによって、如来様は私にはたらいて下さっているのだということを表しているのです。つまり、仕事をしていても、食事をしていても、寝ておっても。また年寄りでも若者でも、男でも女でも、日本人でも他の国の人でも、如等様のはたらきとは、いつでも・どこでも・だれにでもあるということです。
 インドの説話にこのようなものがあります。三人の妻を持つ男がいました。その男が臨終の間際に、妻を一人ずつ呼んで「お前は私にどこまで付いてきてくれるのか」と聞いたそうです。一人は「臨終まです」と答え、二人目は「火葬場までです」、と答えました。そして三人目は、「私は何処まででも付いていきます」と言ったそうです。  これは喩え話です。一人目は、死んだらその人の存在は無いのですから、その人自体を愛しておったと。「体」ということを表しています。二人目は、死んでも形が残っていますが、それも滅びます。つまり形のあるあるまでは愛していた。「相」ということを表しています。三人目が何を喩えているかと言うと、「用」、つまその人のはたらきというものを何時までも心に留めておきますと。
 この喩え話は、物事は、「体」そのものの自体、「相」そのものの形、「用」そのもののはたらきという、三つの面から見ていかねばならないということを教えています。
 「体」はそのものが滅すれば(死ねば)なくなりますし、「相」は形が無くなればなくなります。しかし「用」は、そのものが滅しても無くなりません。つまり誰かが亡くなっても、「用」はたらきは無くならないということです。
 この「用」はたらきは目に見えません。
 私達ももう長いことないでしょう。私達の「体」「相」が無くなった時、どの様な「用」はたらきが遺るのでしょうか。これが問われるところです。
 如来様を「はたらきさま」と呼ぶということは、「お前はどういうをはたらき遺すのか」と問われているのです。如来はこうしてはたらいて下さっている。ならば私はどのように縁ある者にはたらくのかと問われているように思えます。

 

■ コラム ■
この小石が何かの役になっているのか分からないが、
これが無益ならすべて無益だ。
すべての存在には
意味があるんだよ。
──フェリーニの『道』より──
 古いイタリア映画に『フェリーニの道』という作品がある。私は高校生の頃に観た。
 イタリアの片田舎にジュリソミーナという少し頭の弱い娘がいた。彼女の母親は、ザンパノーという粗雑な旅芸人にジュリソミーナを売り飛ばしてしまう。ジュリソミーナはザンパノーと旅を続けながら、「どうして私といるの?」「私が死んだら悲しい?」と質問を繰り返す。しかし、ザンパノーは暴力と暴言でそれに応えるだけだ。
 旅芸人一座にはキ印と呼ばれる綱渡りの青年がいた。ある夜、ジュリソミーナは、ザンパノーが自分の存在を認めてくれないことを悲しみ、「私なんか生きていても意味がないのかもしれない」と泣く。それを聞いていたキ印は、側に落ちていた石を拾って、「このの小石が何かの役になっているのか分からないが、これが無益ならすべて無益だ。すべての存在には意味があるんだよ」と語り掛けた。
 仏法を学ぶようになって、この台詞を思い出した。人は何かの役に立つから、生きている意味があるのではない。人はそこに在ることそのものに意味があるのだと、呼び掛け続けるのが仏法である。その存在を、有用・無用、有益・無益、有能・無能などの善・悪で計って、意味付けようとすることは、人の思い上がりだと教え続けるのも仏法である。
 自分が嫌になり死にたくなっても、仏は我々の存在の意味を知っていて下さるのだ。

 

■ コラム ■
坊や、ごめんなさい。
お薬は見つからなかったの
でも、お釈迦様にお礼を申し上げに行きましょう
坊や、いちばん大切なことを教えてくれて、
ありがとう・・・
──『法句経註釈』より──
 昔々のインドにゴータミーという若い夫人がいた。ゴータミーには幼い息子がいたが、流行病で急死してしまった。家族が葬式の準備を始めると、ゴータミーは、「この子を生き返らせる薬を探してくるわ」と家を出ていってしまった。
 ゴータミーは評判の名医の所に行った。「先生、この子を生き返らせる薬を下さい」「奥さん、それは誰にもできないことです」「そう言わずに…」。困った医者はこう言った。「ジェータの林においでになるお釈迦様の所に行きなさい」。
 ゴータミーは息子の亡骸を抱えお釈迦様の所に行った。ゴータミーの告白を黙って聞いていたお釈迦様はこうお応えになった。「それではケシの種を貰ってきなさい。それが薬です。ただし一度も葬式を出したことのない家からです」。
 「坊や、もうすぐお薬をあげますからね」、ゴータミーは直ぐに町中を回り、ケシの種を探し始めた。ケシの種のない家はなかった。しかし、一度も葬式を出した家はなかなか見付からない。  「私は夫を亡くしました」「私は娘を死なせてしまった」「わしは孫に先立たれた」…。一人ひとりの話を聞くうち、ゴータミーの胸にあった、苦く熱いかたまりは次第に溶けていった。  「坊や、ごめんなさい。お薬は見付からなかったの。でも、お釈迦様にお礼を申し上げに行きましょう。坊や、いちばん大切なことを教えてくれてありがとう・・・」  ゴータミーの頬に涙は流れた。しかし刺すような心の痛みは消えていたという。


■ TrueLiving ■
覚の会5月例会講話録(2000/05/19)
──山本隆師──
 十七歳の少年達が大変な問題を起こしました。彼らに共通することは、人を殺しておいて反省がないわけです。私は、今の世の中に何か欠けているものがあるのではないかと思います。
 子供を育てる時に、「人に迷惑を掛けないようにしろよ」と言います。この言い方は大変に恐い言い方です。この言い方をするとき、間違いなく自分は他人に迷惑を掛けていないという自信があります。しかし、人に迷惑を掛けているか掛けていないか、本当のところは分かっていません。
 最近魚釣りが流行っています。生活のために魚を捕るのは分かります。しかし遊びのために魚釣りをしているわけです。そのことに罪悪感が全くない。魚釣りをするときに、何か心に引っ掛かってくるものがないのです。
 那智に行ったとき、ある寺に、「大漁祈願」と「魚霊供養」という石碑が同じ場所にあるのを見ました。一方では魚が多く捕れるように現世利益を祈り、一方では殺した魚を追善している。若い頃は、その矛盾を笑ったものです。しかし年を取って、少しこれへの捉え方が変わってきました。紀州の漁師達は、生活のために「大漁祈願」を祈る。しかし、よくよく考えてみると、殺してしまった魚に対して、「すまない、申し訳ない」という心があるから、「魚霊供養」の石碑を建てられたのでしょう。
 ここには心の疼きと言いますか、痛みがあります。平生は動かないけれども、深いところにある心が動いているのでしょう。その心が宗教心です。それは、「自分は迷惑かけていない」という慢心ではなく、他人に対して、他の生き物に対して「私はどれだけ迷惑をかけたことか」という痛みの心です。
 今はなくなりましたが、葬儀の最後に喪主が参列者に対して土下座をしました。あれは関西地方だけの風習だそうです。あれは悔やみに来て頂いた方へのお礼ではありません。亡くなった人が生涯かけて受けてきた恩、または掛けてきた迷惑に対して、土下座して礼をいい、申し訳なかったと言っているのです。昔は「申し訳ない、すまない」ということを、態度で表す習慣が残っていたわけです。
 このような痛みの心を、仏教では「懺悔(さんげ)」といいます。キリスト教では同じ字を書いて「ザンゲ」と言います。仏教では「サンゲ」です。これが宗教の基本だと思います。現在この懺悔という自分の罪を悔い改めて新しい誓いをするということば全くありません。何でも自分の権利を主張し、自分を省みるということがないわけです。これが社会的な風潮になっています。
 こういう社会的風潮を生きる中で、十七歳の少年達は、人を殺しても全く反省がない。人を殺してみたかったという自分の思いが通ればそれでよい、ということになってしまったのでしょう。
 『涅槃経』というお経には、「慚愧(ざんき)」という言葉が出てきます。この「慚愧」は「懺悔」よりも弱い言葉として使われますが、自分を省みるということで重要な言葉です。
「慚」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慚愧」と名づく。「無慚愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。
とあります。「慚愧」という心がない者は人ではない、畜生であるということです。人は、人と人との関係の中で生きる者です。そして、人に、生き物に、迷惑を掛けながら生きているのが私達です。それを省みるということがなければならんのでしょう。
 十七歳の少年達が起こした事件は極端なものではあります。しかし、多くの子供達の心から、「懺悔」「慚愧」の心がなくなっているのは確かです。子供は大人が映っている鏡です。子供に「慚愧」なり「懺悔」の心がないということは、子供が生活している社会の大人にもないということなのでしょう。
 この「慚愧」の心、もう少し深めて「懺悔」の心、これを阿弥陀如来との関係の中で、我々大人がもう一度拾い直していかねばならないのだろうと思います

 

■ コラム ■
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海の中では
何万の
いわしのとむらい
するだろう
──『大漁』金子みすゞ氏──
現代は情報化時代と言われインターネットや衛星放送、携帯電話を使って様々なことを知ることができる。私達は情報を知ることで全てのことが分かったように思っている。ところが、その情報はあくまでも自分の関心事に限られ、自分にとって関心のないことや見たくないことは意識的に、また無意識に見落とし切り捨てているのが我々の相であろう。
 金子みすゞという詩人が住む村で鰯が大漁に揚がった。これで村は当分食べていけるぞ、と鰯の大漁に村はお祭り騒ぎ。しかし金子さんは村の大騒ぎの中で耳を澄まして海の底の声を聞くことのできる人だった。金子さんが聞いたのは、「何万のいわしのとむらい」の声。金子さんが見たものは、常に関心のないこと見たくないことを見落としながら生活している私達の相。
 私達は情報化時代の中で、全てを知り尽くしていると思っているけれども、日常生活の何気ないことを見落としていたりする存在である。仏教は、多くのことを知りなさいという教えではない。逆に、自分自身が多くのことを漏らしながら生きているということを知りなさい、という教えである。
 大切なことは「いわしのとむらい」との出会いである。「情報を知る」のではなく、生身の人間、生身の生物の「声」との出会いを通してしか、大事なことを見落としながら生きている自身の相は見えてこない。

 

■ TrueLiving ■
同朋婦人研修会講話録(1999/11/02)
──一楽真師──
 我々は幸せになる為に発展を続けてきました。その結果そうでもないという現状があります。何故そうなるのかと言うと、本当にものを見通す智慧がないからだと、仏は教えようとなさるわけです。逆の言い方をしますと、我々が持っているものの考え方、見方を「分別」と言われます。ものを分けていく考え方です。我々は何でも分かっているつもりでいますが、そこには大きな落とし穴があるということを言う為に、仏のものの見方の方を「智慧」と呼び、我々人間の見方の方を「分別」と敢えて分けているのです。
 いのちということで言えば、我々は、役に立ついのち、役に立たないいのちを分けています。また儲かる・儲からないで分かれます。儲ける人は立派な人、儲けれない人はダメな人、儲けれなくなったら終わりだと言うています。しかしそのものの見方は本当なのでしょうか。
 そのような我々の心を問い直して下さるお言葉があります。
たとえ短い命でも生きる意味があるとすればそれは何だろう。
一生、働けぬ体で過ごす人生にも生きる価値があるとすればそれは何だろう。
もしも生きる価値が社会に役立つことで決まるなら、
僕たちには生きる価値も権利もない。
しかしどんな人間にも生きる資格があるのなら
それは何によるのだろうか
石川正一さんという方が十四歳の時にお書きになった詩です。この方は、実は生まれながら筋ジストロフィーという病気を患われました。これは体中の筋肉が縮んでいく病気です。今のところ治療方法は確立されておりません。
 この詩は二三年前のものですが、当時と現在は何も変わりません。元気で働けて、社会に役立つうちは分かり難いことですが、働けなくなってみれば、この日本という国がどんなに冷たい国か。動けない者に対して、お前はまだ生きているかという風潮がある。それがおかしいということをどこかで問い直すような眼が必要なのです。十四歳の石川さんは、見事にそのことを問うて下さっていると思います。
 働けることが悪いと言っているのではない。しかし動けなくなったら終わりなのかということです。それを我々の日頃のものの見方、考え方─分別から言うと、動けなくなったらダメ、もう終わりだということになります。ところが、そうではない世界を照らし出すのが、仏の智慧と言われます。
 親鸞(しんらん)聖人は、仏の智慧のことを「光」に譬えて下さいます。つまり光というのは、ものを見せるはたらき≠ナす。ものを見せてくれる無限の光のことを、インドの言葉で「阿弥陀(アミタ)」と言うわけです。
 どういう状況を生きている者をも照らし出して、ものを見せて下さるはたらき≠ナす。善い・悪い、役に立つ・役に立たないという物差しで我々はものを計っておりますが、そうではない世界を見せてくれる。働ける者だけ生きる意味があって、働けなくなったら死んだ方がましだという発想に対し、そうではない世界を見せて下さるはたらき≠ナす。
 親鸞聖人は「和讃(わさん)」の中で、
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる
と言われます。どんな者も摂め取って捨てない、だから阿弥陀と名付けるのだと仰るわけです。どんな所にも至り届いて、あなたのいのちとはこうなっているぞと知らして下さるはたらき≠ネのです。
 どんな者も見捨てない、どんな者も照らし出すのが阿弥陀だと親鸞聖人は仰います。これを私なりに言うと、どんな者をも、お前生きる価値の無い者だと言わないのが阿弥陀様です。
 我々は自分自身の人生も、自分で自分の人生にケチを付けていることもあります。しかしそういう状況の中でも、阿弥陀仏はそうじゃないぞと照らし出し続けるはたらき≠セということです。
 私なりに言ってしまえば、どんないのちも早く死んだ方がいいようないのちは一つも無いと教えて下さるのです。生まれてこなかった方がいいようないのちは一つもないぞと、何とか教えようとするはたらき♀|けなのです。そういういのちを生きていることに目を覚まして下さいという光なのです。

 

■ コラム ■
 昨年の良覺寺報恩講で法話をして頂いた橋本保信先生(京都信楽寺住職)は寺院出身ではなく、島根の在家出身でる。しかし橋本先生の父上は篤信の真宗門徒(もんと)であった。橋本先生がよく聞かされていた父親の口癖は、「御前にお礼してこいよ」だったそうだ。「御前」とは島根の方言で、お内仏・仏壇のこと。そのお内仏を「拝め」ではなく「お礼」せよと、橋本先生の父上は言い続け、教え続けておられたのである。
 真宗教団は「報恩講の教団」と呼ばれている。私が、今ここに在るということは、無数の縁のよって成り立つ。両親・先祖があり、食してきたいのちがあり、人との出会いがあり、初めて今ここに私が在ることができる。しかし私達が自分中心の生き方をする時、自分の都合の良い縁は受け入れるが、都合の悪い縁は受け入れられない。良い縁も悪い縁もその一つが欠けても、今ここに在る私は存在しないのに。
 その全ての縁を「恩」として「報じていく心」、足し引きのない今ここに在る「私」が私であって本当によかったと思える心が、私達の中に生まれることが親鸞聖人の顕かにされた真宗の救いなのだ。「報恩」こそが真宗の教えの根本であり、「報恩講」こそが真宗教団のいのちである。
 橋本先生の父上の教えは、真宗教団のいのちが、脈々と生活の中で伝統されてきたことを物語っている。

■ TrueLiving ■
永代経講話録(2000/09/23)
──井上俊昭師──
 『阿弥陀経』に極楽浄土という世界を表現した一節があります。浄土の池には蓮華の花が咲いている。そして青い花には青い光、赤い花には赤い光、黄色には黄色い光、白い花には白い光が当てられていると。浄土という世界はそれぞれ差異のある者が、その差異を認め合っている世界ということが言えると思います。
 みなさんは、「バラバラでいっしょ」という言葉をご覧になったことがあると思います。蓮如(れんにょ)上人五百回御遠忌のスローガンです。人はみんな個性を持ち、それぞれに生きている「バラバラ」な存在です。「バラバラ」で差異はあっても「いっしょ」といえる世界が頂ければよいのですが、我々にはそれが難しいわけです。我々が作っている世界は、浄土という世界とは全く違うと言わねばなりません。しかし、我々の心の中では人と人との繋がり合える世界を求めているはずです。
 繋がり合える世界を求める時、平等ということはどこで成り立つのでしょうか。性別も能力も財産も年齢もバラバラな人間が、共にいっしょに成れる世界、平等ということはどこで成り立つのでしょうか。そのことを、今は既に浄土に還られた平野修師という石川出身の念仏者の言葉をたよりに考えてみたいと思います。
 インドの世界観で、我々は地獄・餓鬼・畜生・人・天という六つの世界を経巡っていくのだという考え方があります。我々はこの迷いの世界を飛び出して、外にある仏の世界へ生まれねばならないわけです。平野先生がお示し下さっているのですが、我々は仏の世界ではなく、「天」という世界に生まれたがっていると指摘されています。「天」とは何でも願い事が適い、自分で苦労しなくてもよい世界です。我々は、便利な電気製品を買い、車を買い便利で快適な生活を求めています。当に天界を求めているわけです。
 その天界へ生まれるためには賢くならなければならない。隣の子に負けないように良い学校に行かなければならない。また善いことをしなければならない。様々な努力をしなければならない。これを成し遂げた者が天界、神様の世界に生まれられると。そういう方々は満ち足りておられるでしょう。しかし普通はそこまで努力できないわけです。努力はするけれども、天界に上りそこねて挫折してしまう者が殆どであると平野先生は言われます。
 天界に上れなかった者は、自分よりも上の方にいる者を見ると腹が立つ。隣はまた家を建て替えやがったと。また自分より困っている人がいると、ニッと笑って優越感に浸る。ですから天界に上れなかった者は、地獄や餓鬼や畜生の世界に墜ちてしまったということです。
 快適に便利に生活するのが今の主流の生き方でしょう。私たちが今の時流の生き方に則る限りは、地獄を作り、餓鬼道、畜生に墜ちるのでしょう。こういう生き方を目指すと、人と人とが真に繋がる世界は成り立ちようがないわけです。人間が孤立していくという方向にしかなりません。
 仏教の基本は「諸法平等」です。全てのいのちは平等という教えなのです。蟻のいのちと人間のいのちは平等なのです。お釈迦様は当たり前と言えることを教えて下さいましたが、それに頷き従いながら生活できないのが我々です。我々は当に「諸法平等」という道理に背いて生きているわけです。だから、他人を押し退けて、私だけが天界に生まれることを目指す生き方が一番良いと思い込んで生きているわけです。
 このような生き方に問題があることは分かります。しかしそれを止めることできません。我々一人ひとりが、お釈迦様が顕かにされた平等の法に目覚めるということをおいて根本的な問題の解決がありません。平等の法に出遇い、私だけが幸せになりたいと思いながら生活している自分自身の相を知らされない限り、社会がどのように便利で快適になっても、自分の生活が楽になっても、安心できる生き方はできないわけです。
 そのような我々に対して、いのちの平等の世界に帰ってきなさいと呼び掛ける声が、お釈迦様が説かれたところの、阿弥陀仏の本願です。いのちの道理に背いて生きている我々に対して、もとのいのちの道理の世界に帰ってきなさいという呼び声が阿弥陀仏の本願という言葉で示されてきたわけです。

 

■ コラム ■
なんのために生まれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!
時ははやくすぎる
光る星は消える
だから君はいくんだ
ほほえんで
そうだ、うれしいんだ
生きるよろこび
たとえどんな敵が相手でも
──『アンパンマンマーチ』──
 『アンパンマン』は、私達が子供の頃に観たウルトラマンや仮面ライダーとは違う、一風変わったヒーロー。強いのは強いけれど、あんパンでできた顔が欠けるとその強さが出ない。しかし、お腹が空いた人がいたなら、惜しみなく顔をちぎって与えてしまい、窮地に立たされるのである。
 五歳になる娘が歌う、原作者やなせたかしさん作詞の『アンパンマンマーチ』を聞くたびに、ドキッとさせられる。
 仏はいつでも、「あなたは死すべき生を生きる身であり、誰に代わってもらうこともできない身を生きている。あなたがどのような現実を生きていようとも、今、ここで、あなたがあなたとして生まれた意義と、あなたとして生きる喜びを明らかにしないで、本当に生きていることになるのか?」と呼び掛けておられる。その仏の呼び掛けと、アンパンマンマーチの歌詞が重なって聞こえてくるのである。
 私が私として生まれた意味を明かにしたい、私として生きることに心から喜びたいということは、仏の呼び掛けであると同時に、私達の本当の願いでもあるのだろう。
 しかし自分自身の現実が辛かったり苦しかったりすると、仏の呼び掛けと自身の本当の願いを忘れ、生きることを放棄したり現実逃避して刹那的になってしまうのが我々のすがたであろう。「敵」は私達の内側にいるのかもしれない。

■ TrueLiving ■
覚の会9月例会講話録(2000/09/19)
──山本隆師──
 私たちは、人間が一番利口であると思っていますがそうでしょうか。人間は草食性の動物のように産まれて直ぐに立つこともできません。また渡り鳥のように教えられることなく海を渡るなどの行動ができません。人間だけが教育というものが必要になってきます。
 現在の教育─特に家庭教育に何が必要なのでしょうか。
 現在子育てをしておられる若いお母さんお父さんは確かに教育熱心かもしれません。しかし当たり前のことですが人生経験が少ない。そして教育という場合、その少ない人生経験での価値観を押し付けているということがあります。
 我々の年代──六〇代以上の者が過去を振り返った時、必ず思い出される体験があの第二次世界大戦です。戦争を体験した者が何を思ったのかと言いますと、戦争は嫌だということでしょう。もう一つ、貧乏は嫌だということです。これはあの戦争を体験した、殆どの人は思ったことだろうと思われます。戦争を体験したことを自慢するのではないのですが、我々の世代は若い世代が体験してこなかったことを体験したわけです。
 家庭教育という場合、このことが大事なことだと思います。つまり若い人よりも深い人生経験を積んできた年寄りの役目です。
 勉強や運動を教える、テレビゲームなどの新しい遊び、現代的な生活習慣のことは、若いお母さんお父さんに任せていればいい。年長者は、そういった若く新しい価値基準ではない、長い時間をかけて蓄積してきた価値基準で子供に接するべきでしょう。親は親の価値観で、年寄りは年寄りの価値観で子供と接することによって、子供は世の中には様々な価値観があることを学ぶはずです。また自分で価値観を選ぶということの訓練にもなるかもしれません。
 その価値基準のことですが、私たちは若い人も年寄りも、世間の価値基準を中心に生きています。仏教というものは、世間の価値基準を超えたところがあります。儲かる・儲からない、能力がある・能力がない、勉強ができる・勉強ができないといったものが世間の価値基準です。しかしそんなものでは、はかれない人間存在の尊さを教えるのが仏教です。
 世間の価値基準は放っておいても子供に伝わるものです。しかし仏教の世界は放っておいては伝わりません。長い時間をかけて学んできた仏教の世界を、子供達に伝えるのも年寄りの仕事かもしれません。
 最近は子供を必ず保育所や幼稚園に入れます。教育は教育の専門家に任せるということらしいですが、昔はそんなものなくても子供は育てられました。教育の基本である家庭、特に家庭の中の年寄りさえしっかりしていれば、そんなもの必要ないのかもしれません。しかし、そう言い切れるほど私たちは深い学びをしているのかと言われると困りますが。
 家庭に年寄りがいない家が増えてきました。聞いておりますと、若い夫婦の希望ではなく年寄り夫婦が同居は嫌だと言っているようです。しかし親と子供だけで生活していると、子供に目が行き届きすぎて、子供を直ぐに怒ってしまうということがあるようです。そうすると子供は親に怒られない良い子になろうとして精神的に追い込まれるようです。最近の凶悪犯罪を起こす子供の家庭は教育熱心な家庭だそうです。親が子供を構いすぎて、子供に逃げ場がなくなってしまうわけです。
 親が世間の価値基準で子供を怒った時、逃げていける場所が必要です。頑張って勉強したのに成績が悪かった。そして親に怒られた。その時、「ようがんばったな」と言ってやれる存在が子供には必要なのです。
 年寄りは子供を無条件に受け入れる大きな受け皿という存在になるべきなのでしょう。

 

■ コラム ■
そうです、バージニア。
サンタクロースがいるというのは、
けっしてうそではありません。
この世の中に、愛や、
人へのおもいやりや、
まごころがあるのとおなじように、
サンタクロースもたしかにいるのです
──偕成社『サンタクロースっているんでしょうか』より ──
 一八九七年、「サンタクロースっているんでしょうか」という質問が、バージニアという少女から『サン新聞』に届いた。当時の社説欄担当者は、真摯にその質問に応えたのだった。「この世の中に、愛や、人へのおもいやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです」、と。
 彼は、サンタクロースが実体として存在するとは言っていない。人を思いやる心、愛、真心という、サンタクロースなるはたらき は、一人ひとりの中に確かにあるじゃないか、と言っているのである。
 良覺寺報恩講の時、「鳥取県西部地震」の義援金を募った。あの地震の被害は、マスコミで報道されているよりも甚大である。殊に「被災者の心」が大きな被害を受けている。地震が襲った地域が過疎であり、高齢者層の多い地域であったため、被災者は生きていく力を失っておられる。
 被災者に対して我々ができる金銭的援助など微々たるもの。しかし義援金に乗せて、「阿弥陀様は、どんな状況を生きていても、賜ったいのちを生き切って欲しいと願い、はたらきかけて下さっていると、私は聴聞した。どうか自分のいのちを見捨てないで欲しい」という、我々の心が伝わればいいのだろう。
 阿弥陀様は実体ではない。しかし仏法聴聞によって確かに聞いた阿弥陀なるはたらき≠ヘ、我々の具体的な行動によって、縁ある他者に伝わっていくのだと思う。

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【前編】(2000/11/11.12)
──橋本保信師──
 浄土真宗とは親鸞(しんらん)聖人が私達に伝えて下さった教えです。この浄土真宗と申しますのは、宗派の名前ではありません。
 「真」とはマコトです。「宗」とはムネです。ムネを言い換えますと要≠ニいうことになります。最近は冷房が完備されて扇子を持ち歩く人が減りました。扇子の形は、一点で骨をつないでおります。要というのは、そこのことです。この要が壊れたら、扇子はバラバラです。
 つまり、一番大事な事柄、マコトの要、マコトのムネが「真宗」なのです。
 親鸞聖人は「浄土の真宗」を仏教そのものだと言われております。親鸞聖人は浄土真宗を考え付かれた、作られた方だと思われているならば間違いです。インド・中国・日本の三国七高僧から伝えられた浄土真宗を受け継いでおられるのです。七高僧を遡っていきますと、釋尊まで行き着く。それでは、釋尊が仏法をお作りになった、お考え下さったのかというと、そうでもないのです。
 釋尊は、浄土の真宗─仏法を一番初めに発見して下さった、浄土の真宗に初めて目覚めて下さった方です。つまり、人間として生まれてきたことのマコトのムネ、人間として生まれてきた本当の意味を発見して下さった。釋尊は、発見して下さった浄土の真宗──仏法を私達に説いて、私とは何なのか。私は何のために生まれてきたのか≠顕かにしなさいと呼び掛けて下さっているわけです。
 それでは、皆さんは何のために生まれてこられたのでしょうか。田畑を増やすためですか?家屋敷を守るためですか?お金を稼ぐためですか?。それが悪いことだとは申しませんが、それでは人生に満足がないのではないですか。このこと一つのために、私は人間に生まれました≠ニ言い切れる事柄を顕かにしないで、死んで往けますか。これが、釋尊が発見して下さり、親鸞聖人がお手次ぎして下さった浄土の真宗の呼び掛けなのです。
 浄土真宗の教えは「回向」の教えだと言えます。回向をそのまま読むと、「回し向ける」となります。
 回向を形で言いますと、お内陣でもお内仏でも障子があります。障子の表はどちらに向いていますか。表は私たちの方に向いていて下さる。飾りのない裏が御本尊や親鸞様の方に向いている。お荘厳する仏花はどちらに向いていますか。打敷の美しい側はどちらに向いていますか。全部私達の方に回し向いていて下さる。こちらから持っていくのではない。全て向こうからです。これが回向です。
 私達は「煩悩」というものを持っております。煩悩というのは良いものですか、悪いものですか。勿論悪いものです。私たちは、悪いものだと分かっていても、ただの一時もこの煩悩から離れることができないわけです。身の煩い、心の悩みを煩悩というのですが、話として分かっても自覚できないのが私達です。
 何故煩うのでしょうか。それは生きているからです。生きるには食べなければならない。着るものもいる。住む所も必要です。生きている限り煩い続けるのが私達です。何故悩むのでしょうか。それは自分が思い描いたことに、現実が付いてこないからです。自分はこうなるはずだと思っても、現実は自分の思い通りにいきません。しかし生きている限り自分の思いを止めることはできない。生きている限り煩悩を離れることができないのが私達の相です。煩悩を離れることができない私達に回し向けられている事柄がある。回向されている事柄があるのです。
 自分自身の力で煩悩を何とかできるのならば結構です。しかし私が生きているという事実を省みたとき、それはどうにもならないことに気付きます。そこにはたらき掛けて下さるのが本願念仏なのです。そのはたらき掛けて下さった本願、回向して下さった本願がどういう相になって下さったかというと、「南無阿弥陀仏」です。南無阿弥陀仏となって私の所まで届いて下さった。しかし、私は回向されていることにさえ気付けない。本願は十方衆生、生きているもの全てにはたらい下さっている。気付けないのは私に問題があるのです。
 逆に私がそういう者だからこそ、本願念仏、南無阿弥陀仏はいよいよ強くはたらいて下さるのでしょう。【続く】

【後編へ】





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