それでは蓮如さんは、その八十五年の御生涯を通じて、何を我々に伝えて下されたのか。「蓮如讃」として書かせていただきましたように、
荒れ狂う海で浮き沈みする我等に
目印となる大きな篝火を焚いて下された
のです。蓮如上人が生い立たれた当時も本願寺はございましたが、本願念仏の道場ではありませんでした。天台宗の本願寺でありました。その本願寺に、本願念仏の篝火を焚いて下された。そして、
風雨怒涛を貫いて
渾身の力をこめてよびかけ続けて下された
呼び掛けることは誰にでもできます。呼び掛け続けるということはなかなかできない。これがご恩であります。その呼び掛けて下された中身は、まず初めに、
人生に大事なことは一つしかない
我々は、あれも大事、これも大事、あれも放せない、これも放せないと思うけれども、本当に大事なことは一つしかないのだ。その本当に大事なことに出会うために、
その大事に出会うために
門徒は寄ろう
と、こう仰言ったのです。ただ単に「寄ろう」と仰言っただけではないのです。「寄ろう」と言うたならば、寄る場所が必要なのです。この時代、我々が気兼ねせずに寄れる場所がありませんでした。大きい建物はなかったのかと言うと、ございました。三井寺も石山寺も比叡山延暦寺もございました。三上神社もございました。大きい建物はございましたが、庶民が気兼ねなく寄れる場所はございませんでした。身分がなければ上がれないような所ばかりでした。
 「寄ろう」と呼び掛けたならば、どこに寄るのかと問いが出てくるのです。寄れる場所も無いのに寄れるか、という反応が出てまいります。言葉というのはこういうものです。「寄ろう」と呼び掛ける為には、その土台が必要なのです。寄れる条件を整えておいて、「寄ろう」と言われた。ですから蓮如上人が「寄ろう」と呼び掛けて下されたその背景には、条件を整えて下されたのだなという推量が必要なのです。ただ単に何もしないで「寄ろう」というのは掛け声だけです。言葉に何も重みがございません。蓮如上人が「寄ろう」と仰言って下されたその言葉が尊いのは、条件を整えることを自分の務めとして、渾身の力を込めて果たして下されたからです。そのお仕事ができあがったならば、「寄ろう」という言葉はあってもなかってもよいのです。言葉というのはこういうものです。富士山の天辺がある限りは裾野がいるのです。裾野がきっちりとしていたならば、天辺は勝手にできるわけです。
 我々が言葉を聞く時、ついつい我々は言葉として聞いてしまう。蓮如上人にお会い申すということは、その言葉の下に何があるのだろう、この言葉を我々に届けて下さる為にどれ程のことをして下されたのであろうと思いを巡らす必要がある。お勤め申そうと蓮如上人は呼び掛けて下された。『正信偈』をお勤めしよう、報恩講をお勤めしようと呼び掛けて下された。しかし手ぶらの人間に、お勤めしようと呼び掛けても、それは意味のないことであります。何処でお勤めをするのか、お勤めとはどうするのか、『正信偈』とは何か。条件の整わないところに、言葉は意味を持たないのです。重さを持たないのです。
 蓮如上人は、「寄って話そう。話さぬ者は何を考えているか分からない。みんなで寄ろう、寄って話そう」と仰せられ、そして、
道場で寄ろう
と、こう仰せられた。そしたらそこには道場が必要になってくるのです。
 事ある毎に私は、この近江の風景は蓮如上人によって造られたと申し上げてまいりました。JRに乗って東海道線を行けば、一面の青い田圃の向こうに村々の屋根が見え、その真ん中にお道場の屋根が見える。ああ、あそこにお道場があるのだなと、我々にとって本当に心が和むと申しますか、瑞々しい風景が見えてまいります。この風景を蓮如上人が造って下された。あそこに道場があると分かるように、道場は小棟を上げて造れと蓮如上人は仰言った。この小棟の「小」は、小腹、小うるさいという時の「小」であります。「ちょっと」という意味であります。仰山ではないがちょっと、という意味です。ちょっとだけ上げろ、仰山上げなくてもよい、大きい建物を造る必要はない、ちょっと棟を上げろ。何故か。そこに道場があると人に分かるように。どんな理由で、道場の場所を探す人があるかどうか分からない。道場を探す人には、様々な理由がある。どのような人にも、ここにお念仏の道場があるぞと分かるように、小棟を上げて造れと仰言った。
 その道場ができた時に「門徒は寄ろう」という言葉が意味を持つのであります。御門徒の家々にお名号が届いて初めて、「お礼申せ」という言葉が意味を持つのであります。御門徒の家々にお勤めの本が届いて初めて、「おつとめしよう」という言葉が意味を持つのであります。そのことを蓮如上人は、一つ一つ成し遂げて下されたのであります。
 何時も申し上げていることですが、蓮如上人のお仕事は大きくまとめれば五つになります。一つには、天台宗でありました東山の本願寺を本願念仏の道場に変えて下されました、いや戻して下されました。蓮如上人が生い立たれた頃の本願寺は赤貧洗うが如く貧乏のどん底でありましたが、貧乏であることよりも、本願寺が本願念仏の道場でないことが問題なのである。本願念仏の教えを伝えるというはたらきをしていないことが問題なのである。蓮如上人はこうお考え下されて、東山の本願寺を本願念仏の道場に戻して下された。そしてあちらこちらにお出かけ下されて、沢山の道場ができる機縁を作って下された。
 よく笑い話で申し上げることであります。野路の浄泉寺は、前を蓮如上人が通られた時に水を差し上げた、その時に本願念仏の道場になったのだと。嘘です。水一杯で本願念仏の道場になっていたならば、命が幾つあっても足りません。本願念仏の道場に成る為には、そこに居られた方々がどれ程長い間聞かれたか。蓮如上人がどれ程足繁く通って下されたか。雨垂れで石に穴が空くようなものであります。一滴や二滴で穴は空きません。雨垂れが、落ちて落ちて落ちて、蓮如上人の時に穴が空いたと伝説は伝えているのです。我々は、ついつい蓮如上人一人で穴が空いたと思い勝ちであります。雨垂れを落とした方も偉いけれども、その場で聞き続けた人々のご苦労も偲ぶべきであります。
 我々の家にも『聖書』の話をしましょうと言うて若者が来ます。北海道の珍味を買って下さいと言うて若者が来ます。そんな人にいちいち宗旨替えをしていたならば、命は幾つあっても足りません。「この教えこそ」と思い定める為にどれ程長い間のお育てがあったのか。どれ程長い間蓮如上人が通って下されたのか。そのことを、我々は道場一つに見るべきなのです。初めて見た蓮如さんは乞食坊主です。都の偉い坊さんと違います。都から来た得体の知れない乞食坊主です。いきなりその人の言うことを聞きますか。
 お道場一つ出来上がるのに、どれ程のご苦労があったことか。これは蓮如上人だけのご苦労ではありません、聞いた方にもどれ程のご苦労があったのか。聞いて聞いて聞いて聞いて、「この教えでこそ」と思い定めて下された先達のご苦労を、我々は偲ぶべきであります。この近江の風景を見る時、この景色が出来上がるまでどれ程のご苦労があったのか。良い景色だ、では済まないと私は思うのです。
 沢山の道場を造って下された。沢山の道場のできる機縁を作って下された。そして教えの中身を、その時の言葉にして、室町の言葉にして届けて下された。つまり「お文」を書いて下されたのであります。更に沢山のお名号を書いて下されました。吉崎ではお勤めのご本を印刷して下された。これだけの仕事を成し遂げて、蓮如上人は我々に何を言うて下されたのか。それは、
門徒は寄ろう 寄って話そう
と。何を話すのか。それは、「お文に書いてあるだろう、それでも分からないことはみんなで話し合え」と。
寄って話そう
寄って聞こう
寄って正信偈をおつとめしよう
門徒は寄ろう
道場で寄ろう
寄って報恩講をおつとめしよう
と。お勤めするだけはない、
寄って遊ぼう
と呼び掛けられた。この「寄って遊ぼう」は、本日一番申し上げたいことなのであります。近頃寺に来て御門徒が真面目すぎる。もうちょって遊ばなければいけないと私は思うのです。蓮如上人は本願寺に来られた御門徒を、色々なことをしてもてなされました。夏に暑いならば酒を冷やせ。冬に寒いならば酒を燗せよ。能をみんなで見ようと。
 現在も本願寺には座敷能というものが伝わっております。座敷で能をされました。当時の演劇です。これを上演なされたわけです。能舞台を造る時、特殊な造り方になります。能舞台を正式の造り方をいたしますと、観る所と演ずる所の間に庭ができる。観ている人が能舞台に行こうとすると、一端庭に下りなければならない。これは能を演じておられた方々が、その当時人々から差別されていた方々だからです。能舞台は、同じ高さで歩いて行ける所ではないのです。これを蓮如上人は座敷でされたのです。この事一つとっても、当時の常識からすればどれ程にとんでもないことであるのか。その伝統は失われてしまって、東本願寺の能舞台も西本願寺の能舞台も古い形に戻ってしまった。これは大変悲しいことであると私は考えております。
 蓮如上人が、「本願寺に寄ろう、道場に寄ろう、正信偈のお勤めしよう、報恩講をお勤めしよう、みんなで遊ぼう」と仰せられた事柄を、蓮如上人八十五年の御生涯から、できるだけ頂いていきたいと思うことであります。
 今日の締めは、蓮如上人八十五年の御生涯の言わば叫び、
門徒は寄ろう
寄って話そう
寄って聞こう
寄って遊ぼう
寄っておつとめをしよう
門徒は寄ろう
と。このことを最後にお伝えして、非常に貧しい内容でございましたが、一座とさせていただきたいと思います。
 本日は本当に有り難う御座いました。










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