御来賓の皆様に、高い所からではございますが、まずもって心より御礼を申し上げます。大谷大学広しと言えども、このようなお祝いの会を賜りましたのは、おそらく私一人であろうと存じております。皆様方の長いお育てに御礼を申し上げますと共に、至らぬ私のこれからにもお心を掛けて頂いていることを深く肝に銘じて、日々努力を重ねたいと存じております。改めて心より厚く御礼を申し上げます。有り難う御座います。
 皆様方にお育てを頂きました中心は、先程組長さんのご挨拶にもありましたように、各道場に於けるご法座と「お文講座」でありました。「お文講座」は平成四年の九月に始まりました。最初の会所は養蓮寺さんであったと記憶いたしております。以来七年、蓮如上人の御教えを、蓮如上人のお示し下された「お文」を、何とか現代の言葉に写そうと、努力をしてきたのであります。すなわち、「お文講座」の中で皆様方と共々に「お文」を拝読しながら、蓮如上人の成し遂げて下されたお仕事の中で、「お文」がどのような位置にあるのか、「お文」には何が書かれてあるのか、これを今の言葉に置き換えよう、今の我々の感覚に合うように言葉を直そうと試みてきたのであります。


 本日は少しく視点を変えまして、蓮如上人の御一代、蓮如上人八十五年の御生涯を言葉に直すとどうなるか、このことを少し申し上げたいと思うのであります。そのわずかな試みが、本日皆様方のお手元にお届けをいたしました一枚の紙であります。「蓮如讃」と書いてある一文です。
 人間の行動は全て思いの発現であります。言わば表現であります。人間の行動で、表現でないものはございません。このことを古の人は、例えば顔を見れば分かるとか、目は口ほどに物を言うとか、仕草で分かるとか、色々なことを言ったものであります。してみれば夜中にバイクを走らせている若者も、あれは叫んでいるのであります。自らの不安を叫んでいるのであります。もっとも彼らが、自分自身が不安であるということを自覚しているかどうかは、今は問題になりません。髪の毛を真っ白に染める若者も、耳と鼻とを鎖でつないでいる若者も、やはり何かしら叫んでいる。その叫んでいる中身は言葉にできないかもしれない。しかし叫んでいるという事実ははっきりと分かります。
 蓮如上人は、その八十五年間の御生涯を通じて、何を我々に呼び掛けて下されたのか。

 取り分けて、室町という時代は、司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、「日本の歴史上最も訳の分からない時代、日本の歴史上最も混沌とした時代」であります。言葉が本当に役に立つのか、武力しか役に立たないのではないか − 下克上という言葉はこれを表しています。下、上に克つ。昨日まで家来でいた人間が今日は主君をしている。寝首を掻かれることもある。主君と臣下がひっくり返ることもある。こういう混沌とした時代でありました。主君と家臣の秩序がある方がいいと申し上げているのではありません。そういう混沌とした時代であったと申し上げているのです。
 そんな中で織田信長は安土城を造りました。そして七層の天守閣を造りました。その天守閣の一番上の襖絵に何が描いてあったのか。これは大きな問題であります。
 実は天守閣というものは、織田信長が造り始めたものであります。おかしな名前です。天守というのはゼウスであります。閣は背の高い建物であります。織田信長は、ヨーロッパからやって参りました宣教師に見せられた絵に感動をいたします。同じものを造れと大工に命じました。当然基本的なデザインは、信長がしたのでありましょう。日本の大工は、石を積んで造るような−例えばヨーロッパの大聖堂のような、真っ直ぐな建物は造れませんでした。真っ直ぐにすると、五重塔のような塔になってしまいます。後にも言いますが、織田信長は仏教が嫌いでした。塔は駄目だ。塔が駄目だったら、普通の建物にするしかない。大工は、木造の建物で、下から順番に小さくなっていく建物を考えました。
 この天守閣は、その国の中ではそれ以上人工的に高い建物はないというものです。織田信長は、日本で一番高い建物を造ろうとしました。日本にあるもので一番高い建物は何か調べました。それは東寺の五重塔でした。現在の物差しで五十六メートル。安土城の天守閣は五十七メートルです。三尺高かったそうです。ちょっとでも高くしろと言うたに違いありません、名古屋弁で。この人工的に造られた一番高い所に、何を置くのか。現在皆様方が古城に行かれますと、天守閣に上がられても何もございません。吹きさらしです。壁には槍が掛かっていたり弓が掛かっていたり、気の利いた天守閣になりますと方位盤が置いてあって、こっちを見ると何がある、あっちを見ると何があると分かるようになっている。四方の隅には望遠鏡が置いてある。あれは死んだ天守閣です。天守閣には生きていた時代があったのです。  生きていた時代には、天守閣には何があったのか。そこの城の主が精神的に最も大切にしているものが、置いてあったはずです。精神的にですから、金の塊の類のような物理的にではありません。最も高い所に、最も尊いものを置く。これは人情であります。
 数年前、学生と一緒に伊勢へゼミ旅行に行きました。何故伊勢に行ったのかと言うと、丁度その時に伊勢の遷宮がございました。伊勢神宮は二十年に一回、建物が建て変わります。ほったて小屋になっておりますので、埋めた部分が腐ります。二十年しか保ちません。従って二十年毎に内宮も外宮も建て変わります。ですから、今ある社の隣に同じ大きさの空き地があります。二十年経つと、今ある社を潰して空き地に建てる。また二十年経つと逆をする。古来、こういうことを二十年毎にしてきました。と言いましても金が無かったらしない。数十年放ったらかしということもありました。基本的には二十年毎に建て変える。数年前、その遷宮の時に当たっておりましたので、ゼミの学生と共に伊勢に行きました。遷宮の時、古い建物と新しい建物が同時に見られるわけです。
 その時、泊まりました旅館が非常に古い旅館でありました。山田館という外宮の側の非常に古い旅館です。木造三階建の良い旅館でありました。その三階に泊めていただきました。三階には洗面所はありましたが、お手洗いはございませんでした。その旅館は大正時代に建てられたものでした。はじめは、大正の時代であると技術がなくて、三階にお手洗いは造れなかったのかと思っておりました。しかし洗面所に張り紙がありました。それには、「実はこの建物は大正四年に建てられた建物で、皆様方が立っておられる三階の床は、外宮の御神体よりも上になります。したがって、ここにお手洗いを造ることは禁じられたのです。今も造っておりませんので、お手洗いは二階をご利用下さい」と書かれていました。高さというのはこういうものです。
 したがって生きていた時代の天守閣は、その城主にとって最も尊いものが置いてあったはずです。上杉謙信ならば、毘沙門天が祀ってあったはずです。彦根城ならば、八幡神が祀ってあったはずです。それでは、織田信長は何を置いたのか。織田信長が一番大切にしたものは何だったのか。自ら神に代わろうとした、あの織田信長が最も大事だとしたものは一体何だったのか。
 仏教なのかというと、違います。仏教の絵はございました。お釈迦様の絵は、上から二層目にありました。それは釈迦涅槃図です。おそらく信長は、釈迦が死んでいるところを描けと命じたに違いありません。死んでいるところを描けと言われた絵師は、それしか知らないから釈迦涅槃図を描いたのでしょう。お釈迦様の絵は信長の足の下です。さてこそ信長が、比叡山を丸焼きにした理由も分かろうかと思われます。
 では一番上は何か。「三皇五帝、孔門十哲」、儒教の絵が描いてあった。つまりこの段階で、一五〇〇年代の後半で織田信長はこれからの時代は儒教だ、世の中を統べていくものは儒教であると見通していたことになります。この日本に於ける儒教の呪縛は、現在もなお我々を縛っています。私は、我々の心から儒教の呪縛が取れたとは断言できないと考えています。生活のあちらこちらに、ちらりちらりと顔を出す。政治の場面は言うに及ばず、この日本は未だ儒教に呪縛されている。これは織田信長から始まる伝統です。こういうように私は考えています。
 中世という時代は、思想を建物で表した。思想が工芸で表された。思想が絵で表された。また思想が都市計画で表された。現在の京都の都市計画をいたしましたのは織田信長です。それ以前の京都は、現在の大宮通り、或いは千本通りが中央の通り−朱雀通りでありました。現在は烏丸通りが中心になってございますが、烏丸通りを中心にしたのは織田信長です。信長は、京都の町の中心を烏丸に置いてどうしたかと言うと、御所を横に避けたのです。中心の通りから、御所を横に避けたのです。烏丸通りは御所の横をかすっております。完全に外れていません。丸太町通りの所で少し横に振っています。昔は御所の石垣が張り出しておりまして、頻繁に事故が起こりましたので、御所の隅を切り取りました。三十年程前のことです。現在烏丸通りを行きますと真っ直ぐなように思いますが、実は烏丸通りは御所の所で一端止まっているのです。止まっていますが、烏丸通りは御所の正面に向かっているわけではありません。横に向かっているわけです。信長がこの都市計画で何が言いたかったかと言うと、「お前の時代は終わった。これからはお前はいらない。これからは武力の時代だから、お前は横に退きなさい」と言ったことになります。
 信長の時代、室町の時代、中世という時代は、こういう具体的な工事、建物、絵、工芸などで人間の生き方、思想が表された時代であります。極めて具体的な形になった。日本歴史上極めて優れた建築物が、この時代に集中しております。現在西本願寺の飛雲閣として残っております建物も、或いは豊国神社の楼門として残っております建物も、日本建築の粋を集めた見事な建物であります。
 二条城もそうであります。あの二条城は信長が六ヶ月で造った。その工事を、宣教師ルイス・フロイスは目の当たりにしました。日本の王である織田信長が城を造っている。あの広さであの規模ならば三年はかかるであろうと、フロイスは本国に手紙を送りました。その本国に送った、三年かかるだろうと書かれた手紙は残っています。その半年後、ルイス・フロイスは、城ができたと手紙を書きます。その手紙も残っています。ルイス・フロイスが三年かかるだろう、五年かかるだとう予測した城が、何故半年できたのか。それは新しく造ったわけではないからです。取ってきたのです。あっちの寺の書院、こっちの寺の門、こっちの寺の方丈と取ってきたわけです。取ってきたということは、取ってくることができたということです。この時代、我が国の匠達は、釘を一本も使わずに、組み立てだけで大きな建物を建てることのできる技術を完成していたのです。ですから、一回バラして、もう一回組み立てることができた。それ程、匠の技が進歩した時代でした。
 人間の生き方や思想が技術になった時代、工芸になった時代、絵画になった時代です。具体的に言えば、建物になった時代、都市計画になった時代です。これが室町という時代でした。










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