金子みすゞさんの『報恩講(ほうおんこう)』という詩です。
 金子みすゞさんの詩を生んだもの。それは間違いなく仏教的な土壌だと思います。あの有名な「大漁」だって「わたしと小鳥とすずと」だって、お念仏の教えによって開かれた世界の表現としか読めないし。
 みすゞさんがお生まれになったのは山口県長門市仙崎というところ。ここは浄土真宗の教え、お念仏の教えが生活に根付いたかたちで伝承されていた場所なんだそうです。仙崎は捕鯨の町。実際に鯨を殺すことを生業にされていた人びとは、「殺」の罪を身を持って知っておられたのでしょう。また命懸けで鯨と戦う日常の中で、死すべき生を生きる身を体感されていたことででしょう。まさに自らの生活を通してお念仏をいただいておられた人びとの町で、みすゞさんはお生まれになったのです。
 「お番」というのは、その地方で「報恩講(ほうおんこう)」のことをいうです。そういう町のこと、年に一回の「報恩講」は、おごそかに、ていねいに、そしてにぎやかに勤められていたことでしょう。
 大人は朝から晩まで仏の教えを聴聞し、子どもはとりあえずお寺で座っている。前でしゃべっているお坊さんの言うことの意味は分からないけれども、いつもと違う大きいロウソクが何か心をワクワクさせる。みすゞさんの『報恩講』という詩から、そういった風景そのもを感じることができますね。




◇ 親鸞聖人の報恩講 ◇

【宗祖としての親鸞聖人】
 「浄土真宗の宗祖(しゅうそ)は誰ですか?」「はい、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)です」「よくできました」。学校のテストのように客観的に言えばそれだけでしょうね。
 それでは「私にとって親鸞聖人とは宗祖ですか?」
 よく言われることですが「宗」というのは扇の要のようなもの。要がなかったら扇そのものが壊れて成り立たない。それと同じように、人にとっての「宗(ムネ)」はそれがなかったら、その人そのものが成り立たないという教えなんです。
 お金が無かったら私は成り立たないという人は「金宗」でしょうし、土地なら「土地宗」、仕事なら「仕事宗」、社会的な地位なら「位宗」、家族なら「家族宗」です。
 しかしです。よく考えれば、私たちが大事だなあって何時も思ってるものは、時が移り変わったり場所が変わったりすると成り立たなくなりませんか?。バブルの時は土地が大事だと言っていた人が、今はどうです?。仕事第一に生きてきた人が、退職したら何にもすることないって話を聞きません?。子どもが小さい時は可愛くて目に入れても痛くなかったけど、反抗期に入ると・・・。
 私たちは非常に不安定なものを「宗」として生活していると言わねばなりませんね。
 浄土真宗の流れをくむ念仏者と呼ばれた人びとは「親鸞聖人こそ宗祖」であると言い切ってきました。つまりです、「いつでも、どこでも、変わることのなく、私を私として成り立たせてくれる教えを説いてくださった祖こそが親鸞聖人」なのだと言えたわけです。


【親鸞聖人の報恩講】
 古来真宗門徒(もんと)は、毎年欠かさず「報恩講(ほうおんこう)」を勤めてまいりました。
 報恩講は宗祖$e鸞聖人への恩を報ずる講(つどい)≠ナす。
 どのような時代社会にあっても、その時代社会が戦乱や飢饉であっても、堪えきれないほどの辛い環境であっても、親鸞聖人の教えがあればこそ私は生きていけるんだ。親鸞聖人の教えがなかったならば、私は私として生きていけない。
 私たちの先達・先祖は万感の思いを込めて「親鸞聖人の報恩講」を勤めてきたのです。
 本山・真宗本廟(東本願寺)では、11月21日から「報恩講」が始まり、親鸞聖人の祥月命日11月28日に結願(けちがん)といって、最後の一番重い法要が勤まります。




◇ 忘恩講? ◇

【見事な言い間違い】
 あるお坊さんが言いました。「あそこのお寺のボウオンコウは終わったんか?」。「ボウオンコウ」って「忘恩講?」。あまりにも見事な言い間違いですね。
 でも、これが私たちのすがたなのかもしれません。「報恩講」を勤めずに「忘恩講」を勤めてる。
 「宗祖・親鸞聖人」について長々書きましたが、私たちはどれほどの思いで「報恩講」を毎年勤めているのでしょうか?。年中行事の一つとして、ダラダラと仕方なく勤めてるんじゃないでしょうか?。親鸞聖人の教えをメシのネタくらいに思ってはいないでしょうか?。それならば、私たちは親鸞聖人を宗祖と呼ぶ資格などないのかも。
 まず「報恩講」を勤める時に、親鸞聖人、親鸞聖人の教えが私自身の生き方、人生とどのように関わっているのか確かめる必要があります。


【生活点検として報恩講】
 私たちの平生の生活ってどうですかね?。
 他人の悪いことは、すごくよく分かるんですよね。うちの子どもはなってない、うちの奥さんはああだこうだって。でも自分のことは何か棚上げ。悪い部分が見えなくもないけど、しまいにはそれも他人の責任にして、自分を納得させてしまう。
 分かっているようで分からない、知っているようで知らないのが、実は自分自身なのでしょう。
 仏の教えは、そんな私自身の本当のすがたを、これでもかってほど教えます。「あなたは、自分自身のことを全く分かっていない。これが、あなたの本当のすがたです」って。
 蓮如(れんにょ)上人は、様々なお手紙(これを「御文」といいます)の中で、「報恩講には親鸞聖人の教えをもういちど頂き直せ」と教えてくださいます。これは「報恩講」で仏教のお勉強をしなさいと言われているのではなく、仏教を聴聞し自分自身のすがた、生活をもう一度点検しないさいと言われているのです。
 真宗門徒を名告る私たちは、年に一回「報恩講」を勤めることを通して、自分の生活を改めて仏の教えに聞く作業、「生活点検」をしてきたのです。







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