■ コラム ■
浄土真宗では、
ものさしのいらない世界を
阿弥陀の世界、
浄土と申しております
──平野恵子師──
 正月を返上して受験勉強をする人達がいる。そこまで勉強なるものをしたことがないので、ただただ感心してしまうのだが。今だから言える、「大学の善し悪しなんて、人間そのものには関係ない」と。
 ある寺の住職が御門徒(ごもんと)から、見合い相手を紹介して欲しいと頼まれた。婿取りだったそうだ。あれこれ探して、この人ならという男性の履歴書と写真を手渡した。
 数日して、その御門徒の家から断りの電話があった。会ってないのに、何故断るのかと理由を尋ねたら、その家の人は、「この大学では…」とお答えになった。住職は、「貴方の娘さんは大学と結婚なさるようなので、そんな方との縁組みはこっちからお断りします」と言われたそうだ。
 真宗の先達は、「仏の教えを聴聞するとは、自分自身の相を仏の教えに知らされること」と言われる。具体的には、私たち一人ひとりの中にある物差し≠フ罪を知らされるのだろう。
 私たちは、私たちの心の中にある物差し(価値基準)で、人を、優劣、富貧、貴賎、善悪に分別することによって、人間そのものが見えなくなっている。そのことが他人を傷付け、悲惨な現実を作り出しているぞ、と仏は教えているのである。
 人間には様々な違いがある。それは個性であって、その人そのものの価値を決めてしまうものではないのだ。

■ True Living ■
覚の会11月例会講話録(2001/11/19)
──山本隆師──
 ある人が言われていたことです。その人は、戦争と貧困を体験され、苦労を重ねてこられた方でした。「今は昔に比べて豊かで結構な世の中になった。こんな世の中になったら、死んだら損やな」。私はいささか驚いて、「それならば、辛い世の中になったら死ぬのか」と聞き返しました。
 人間という者は、ふとしたことで平生の心根というものが出るものです。損か得かで、生きているということを計っている。これはこの方だけの問題ではなく、私たちの相の象徴なのでしょう。損・得、好・嫌、楽・苦などで生きているということを計っているわけです。
 考えてみると、人間に完全な自由などありません。生まれた時に性別は選べない。生まれる国も場所も選べない。勿論両親も選べません。
 自由意志というよりも、私が今こうあるために、お育て頂いた、支えて頂いたものの方が大事です。仏教の言葉で言うと「御縁」ということでしょうか。私の自由であるとか権利であるとかを主張する前に、私は今生きていることへの感動に目を向けることの方が大事なのでしょう。  それを抜きにして、私というものを主張すると、私が得、私は好き、私が楽しいが中心になる。自分が「生きている」ということに対して無責任な生き方になってしまうわけです。
 自分の生き方の中身を問う。これが真宗というものなのでしょう。教えと出遇うことなく生活していならば、生きることへの感動なく、私中心の生活を自省することもない生き方になってしまう。教えを聞き重ねていくことを通して、自分中心の生き方はどういうことなのかを点検することができるのでしょう。
 現代という時代は、そういうことが全く忘れ去られています。
 例えば臓器移植の問題、特に生体移植です。移植するためには、脳死の人を待たねばならない。つまり他人の死を待っているわけです。現在大半の人が移植を待たずしてお亡くなりになる。その時に、「ああ、誰も臓器をくれなかった。だから私は死ぬんだ」と考えてしまうことがないでしょうか。自分自身が死んで往くということに対して問うということが置き去りにされて、自分自身の死を他人の責任してしまうような思考にならないでしょうか。
 死ということで言えば、「ポックリ寺」などというものがあります。その寺にお参りしたら、病気や老いで寝たきりになることなく、苦しむことなく、ポックリ死ねるという。この「ポックリ寺」は、自分のいのちを自分自身で計り、いのちを私物化する思いが表れている場所です。
 現代にある様々な問題を表面だけで考え、その根本を問うことがないまま平気で生活しているのが、私たちの生き方です。
 私たち真宗門徒を名告る者は、もう一度手次の寺に集まって、「これでいいのか」と問い直すことが求められているように思います。私の人生は、私の生活は、私が普段使っている言葉使いは「これでいいのか」と、真宗の教えを聞くことを通してそれを問い直すことが、真宗門徒の歩みとして伝統されてきたのでしょう。その伝統の中に、私も立っているといるのだという自覚が、私たち一人ひとりに求められているように思えるのです。

■ 耳をすませば ■
『それでも人生にイエスという』
──(春秋社/ビクトル・フランクル)──
 生きることに絶望はない
ありふれた陳腐な言葉、と受け取る方もあるかもしれない。しかしそれが、ビクトル・フランクルの言葉として語られる時、光の言葉として私たちの心に届くのだ。
 ビクトル・フランクルは第二次世界大戦中、ドイツで暮らした。ユダヤ人として。当時のドイツで殺されたユダヤ人の数は1200万人と言われる。アウシュビッツ強制収容所に収監されたユダヤ人は、95%がガス室で殺されたそうだ。
 フランクルもアウシュビッツに収監されたユダヤ人の一人である。アウシュビッツでは、朝番号が呼ばれる。呼ばれた番号のユダヤ人がガス室行きなのだ。
 名前を奪われ番号を与えられ、人間としての尊厳を奪われ、処刑を待つだけの生活。
 フランクルは奇跡的にアウシュビッツから生還するのであるが、そのフランクルの講演をまとめた本が、『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)である。
 人はどのような困難に遭遇しても、生きることに絶望はない。逆に生活の中で遭遇した困難が、私たち一人ひとりの人生の意味を問うているのだ、とフランクルは語る。
 フランクルには『夜と霧』もあるが、こちらの方が読みやすい。ご一読を。

 

■ コラム ■
自分の人生で、
自分自身が
最も多く喋った言葉とは
何でしょうか?
──ある法話にて──
 ある説教者が法話中に、聴聞している私達にに対して面白い質問をされた。
  自分の人生で、自分自身が最も多く喋った言葉とは何でしょうか?
皆さんも一回考えて欲しい。果たしてどのような言葉を一番多く喋ったのだろう。
 答は、「私(=僕、わし、俺、等々)」。つまり一人称を表す言葉。成る程そうかもしれない。片言を喋り始める赤ん坊の頃から死ぬまで、私達は、「私が、私の、私を」と私≠ニいう言葉を発し続けている。
 しかしそれ程、私≠ニいうものに関心を持っている私達は、私自身≠フ本当のすがたを知っているのだろうか。
 よく私達は、「他人は本当の私のことを分かっていない」という思いを持つ。自分の認識している私≠ニ、他人が認識する私≠ノズレがあるのだ。しかし、私が認識している私≠ェ本当で、他人の目に映る私≠ェ虚像であると、どこで言えるのだろうか。
 私の目で私の姿を見ることはできない。しかし、「鏡」に映せば本当の私≠見ることができる。真宗の先達は、仏法を鏡に喩えられた。私≠ニいう存在の本当の相を、私自身に知らせて頂ける「鏡」という意味である。
 仏法という鏡に映った、私の本当の相はどのような相だろう。菩薩なのか、それとも鬼、妖怪なのか・・・。

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【後編】(2001/11/10.11)
──藤本愛吉師──
 親鸞(しんらん)聖人の師匠である法然(ほうねん)上人の遺言があります。「念仏を拠り所として生きよ。私は墓の中にはいません。私は念仏申すところにいます」。親鸞聖人はこの言葉をそのまま受け取られて、ご自分の生涯を念仏の中に生き切られました。親鸞聖人の生涯を記した『御伝鈔』には、親鸞聖人の臨終の姿を「念仏の息たえましましおわりぬ」と書かれております。
 一昼夜の報恩講中に私が繰り返し申しました、「念仏、南無阿弥陀仏は、えらばず、きらわず、みすてずです。花の心です」ということ、これだけは大事にしていただきたいと思います。
 私がいます大谷専修学院は、生きることが辛いという問題を抱えた学生さんが沢山来ます。ある学生さんは、あまり喋らない。喋らないだけではなく、他人との挨拶もできない。また風呂に入ることが嫌いな子でした。私もそうですが、同室の学生さん達は、その子を嫌い、一緒に居たくないという心で生活をしていました。学生さん達は私に対して「先生、何とかしてくれよ」と何度も言ってきます。彼とは何回も話し合いをしましたが、うまくいきません。
 3月卒業間近の最後の座談会の時、あまり喋らなかった彼が一言、
  一年間最後まで見捨てないで一緒に生きてくれてありがとう
と言いました。みんなびっくりしました。一番辛かったのは、「こいつとは一緒に居たくない」と言っていた学生さんです。本人は、言葉にはしなかったけれども、「すまんなあ」という気持ちでいたわけです。しかしそんなこと誰一人気付きませんでした。
 彼との生活を通して、私自身が無条件に人を愛せない者であったことに気付かされたのでした。そして、自我を中心にし他人を見捨てる生活をする私をも、阿弥陀仏は選ばず、嫌わず、見捨てずにいて下さることに気付けたのでした。
 風の便りで、彼は自宅でコツコツ寺の仕事をしながら、「おはよう、こんにちは」という挨拶をする生活をしているそうです。
 大谷専修学院で聴聞をする中で、私自身が、阿弥陀如来の御心を生きておられる先生方から、丁寧に教えを頂戴いたしました。何回も何回も聞くことで、阿弥陀如来の御心こそ真であった。敵も味方もない世界がいのちの世界なのだと、少しずつ、そういったいのちの古里に心を寄せることができてきました。
 曽我量深という先生は、「たとえ世界中の人から見捨てられても、自分で自分を見捨ててはいけない」というお言葉を遺して下さっています。
 それと同じことをリルケという詩人は、
  いのちみな生きらるべし
と言われています。
 どんないのちも、そこにそのまま生きていていいのですよ。これがいのちの深い祈りだ。いのち自身の声だと、私の学びの中で教えていただきました。このいのちの声を聞いて、傍らに居る人と共に生きているのではないかなあと思っております。
 最後に共にお念仏を申して、この大事な時を終わりたいと思います。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

【前編へ】

■ 耳をすませば ■
『風の谷のナウシカ』
──(徳間書店/宮崎駿)──
 人間≠ニいう存在は、地球に暮らす他の動植物にとって、害獣でしかないのかもしれない。
 映画『風の谷のナウシカ』(スタジオジブリ)は、人間が人間中心の社会を作り上げることの深重な「罪」をテーマとした作品である。  設定は未来。高度な文明の発達は、自然環境に取り返しのつかない障害を与える。そして最終戦争。戦争から辛うじて生き残った人々が、細々と暮らし初めて千年の時が経過した。そこは、「腐海」と呼ばれる有毒な森が存在し、奇形のため巨大化した昆虫達が支配する世界。物語はそこから始まる。
 そこに暮らすナウシカという少女は、どこまでも自然と共に暮らそうとする。しかし多くの人間達は、自然を支配することの望むのであった。
 映画版の『ナウシカ』は、自然と人間の支配を目論む集団の問題を解決し、大団円で終わる。しかしマンガ版の『ナウシカ』(徳間書店)はそこから先があるのだ。マンガ版『ナウシカ』に於いて、主人公のナウシカは人類の存亡の関わる厳しい「決断」をする。その「決断」こそが、原作者・宮崎駿氏の眼目であろう。
 アニメ版をご覧になった方も、是非マンガ版『ナウシカ』を読まれることをお勧めする。

 

■ コラム ■
人は転ぶと石のせいにする
石がなければ坂のせいにする
そして坂がなければ、
靴のせいにする。
──ユダヤの格言──
 仏教に「自是他非」「他因自果」という言葉がある。「自是他非」は、間違っているのはお前で自分が正しいという思い。「他因自果」は、自分がこうなったのはお前のせいだという心。両方とも平生の私の性根を言われているようで、なんともむず痒い気持ちになる。
 仏教では、私達が自我(自分)を中心に生きているかぎり、責任転嫁、自己弁護を繰り返し、今の自分を引き受けられないのだと教える。仏教を聴聞する≠ニは、仏法という自我を超えた世界を知らされることを通して、この自我の殻を破ることだ。
 真宗の僧侶である松本梶丸氏がある寺に法話をしに行かれた時のこと。法話が終わった後、お婆さんが松本氏のところにきて「昨日、嫁に教えられました」と語った。
 そのお婆さん前日どうしても必要な物を引き出しから取り出そうとした。しかしそれがない。嫁に「知らんか?」と訊くと「知らん」と答える。「ほんまに知らんのか?お前が片付けたんとちゃうか」と念を押した。「知らん言うてるやろ」。いらいらしてきた姑は「お前は強情な奴や!」と一喝した。すると嫁は「同じやわ!」と。
 お婆さんはその言葉を「嫁から教えられました」と言った。つまり強情で頑固なものは、誰でもない私でしたと嫁の一言で知らされたと言うのだ。そのお婆さんの長い聴聞の歴史を感じずにおれない。

■ TrueLiving ■
覚の会1月例会講話録(2002/01/19)
──山本隆師──
 『正信偈』はお経ではありません。お経は釋尊がお説きになったもので、『正信偈』は親鸞聖人がお書きになった漢文の偈です。
 この『正信偈』を一般の門徒が勤めるようになったのは蓮如(れんにょ)上人の頃ですから、約五百年前です。矢橋でもその頃から勤められているはずです。私達の先祖達が、生まれて初めて手にし読まれた文字は、この『正信偈』なのでしょう。
 この『正信偈』の中に、
  一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者と言えり。
この人を分陀利華と名づく。
という一節があります。『正信偈』の中には、こういった表現が幾つも出てきます。この表現というのは、【このような私が】【こういうことをすれば】【こうなる】と。
 『正信偈』のここの箇所で言うなれば、【このような私=一切善悪の凡夫人】が、【こういうことをすれば=如来の弘誓願を聞信すれば】、【こうなる=仏、広大勝解の者と言えり。 この人を分陀利華と名づく】となります。
 「一切善悪凡夫人」。仏教の救いの対象は特別な人だけでなく「一切」です。男・女、貧・富、賢・愚を問わず「一切」なのです。仏の世界では人間に区別はありません。しかし私達は平生、自分の価値基準で人を善い人・悪い人に分け、比べることをしているのではないでしょうか。「一切善悪凡夫人」ということで何を言いたいのかと言うと、善悪という価値基準に囚われ、人間を分別している私達の相を教えているわけです。私達の側から言うと、この自分自身の相を自覚できるのかどうかが問題です。この「凡夫人」とは、善悪浄穢に右往左往している私の本当の相に目覚めた人の自覚の言葉なのです。
 「聞信如来弘誓願」。まず「聞信」ですが聞いて信じると。これは現在日本の言語感覚から言うとうなずく≠ニいう言葉一番近い言葉ではないかと思います。この場合でいうと、阿弥陀仏の弘誓願(本願)を聞いて、うなずくとなります。私の経験で、昔々祖父や父から聞いたことが、今ようやく頷けるということがあります。それは一回聞いただけではなく、何回も繰り返し言われた言葉が耳に残り、それが頷けたのでしょう。聞くことを重ねることによって、「そういうことであった」と頷ける。これが「聞信」なのです。  「仏言広大勝解者」。この「仏」は阿弥陀仏ではなく、釈迦仏、お釈迦様のことです。「広大勝解者」とは、お釈迦様が、仏の教えを聞き、教えを体得した人を褒め称えた言葉です。
 「是人名分陀利華」の「分陀利華」とは、白蓮華のことです。蓮は仏教では教えそのものを象徴する花です。蓮は高原の美しい所には咲きません。泥沼に咲きます。しかし花は泥一つく美しい。生活というドロドロした所で生きていても、覚りの花を咲かせることができるということです。
 お釈迦様は、阿弥陀仏を本願にうなずき、教えを通して自らの相に自覚した人を、本当に仏教を体得した人と褒め、最高の覚りを得た人だと名づけるのだと。
 親鸞聖人はこの一節を通して、私達の平生の心である分別心を超えて、仏法を聴聞し、阿弥陀仏の本願に出遇った人は、真の仏弟子であることを言わんとしているです。

■耳をすませば■
『納棺夫日記』
──(文春文庫/青木新門)──
 一昔前まで、死者が出た時、湯灌や納棺は家人の仕事であった。今は多くの場合、葬儀社の社員が行うのではないだろうか。青木新門氏は、そういった死体に関わる仕事をする葬儀社の社員を「納棺夫」と呼ぶ。青木氏は、納棺夫として様々な人の死を見つめてこられた。その体験を私小説の形式で記されたものが『納棺夫日記』(文集文庫)である。
 紆余曲折を経て葬儀社に就職した著者は、最初その仕事にプライドを持てないでいた。しかし納棺夫としての体験を通して、日本の風土にある死を穢れ≠ニする通念に疑問を持つ。それに気付いてから、納棺夫という仕事に誇りと責任を持つようになる。
 著者は、様々な死体、様々な人の死に目に遭遇する。その中で、死と生の意味、仏教は本当は何を教えようとしていたのかを尋ねることになる。  圧巻だったのは、死体に携わる職業をする著者に対して奥様が言い放つ言葉、『穢らわしい。触らないで』。我々の深いところに潜む「死穢」の心を表しているように思われてならない。
 「死は穢れではない。死は人生の営みの一つである」という説教を百回聞くより、この本を読めば死や生に対する、新しい視座を与えてくれるかも。

 

■ TrueLiving ■
永代経講話録(2002/03/21)
──井上俊昭師──
 本日は良覚寺の永代経ということであります。「去る者は日々に疎し」という言葉があるように、世間の常識では死に別れると忘れられていく。私共は無名の一人として命を終わらせて頂くはずですが、命あった時に縁があった人達に忘れ去られるのかというと、そうではないはずです。友達の心の中に、また御身内の心の中に面影として遺っているはずです。平生は忘れていても、こういった永代経法要を縁として思いを返させて頂くのでしょう。決して死別したら終いではないと思います。ことある事に出会いを深めさせて頂くというのが本当なのです。
 本日は永代経の法話として、平野修師という方のお言葉を頼りにお話をさせて頂きます。平野修師は金沢の近くで生まれ無くなって往かれた方で、乞われて全国をお話をして回っておられました。
 それに先立ちまして蓮如(れんにょ)上人の「御文」を一通紹介致します。大半の「御文」は「あなかしこ」という言葉で終わりますが「件のごとし」という言葉で終わるものがあります。その「御文」の中に、「祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり」というお言葉があります。親鸞(しんらん)聖人の主著である『教行信証』の肝要は何かというと信心≠ニいうことだと蓮如上人は仰るわけです。それでは、この信心とはどういう意味なのでしょうか。
 世間では「信心深い」とか「信心が足りない」という言い方をしますが、この信心と蓮如上人が「信心ひとつにかぎれり」と言われる信心は同じなのか。
 私共は毎日不安に怯えているということがあります。その時良かれと思い判断したことが後になって悪い結果を招いてしまう。それが恐いから人に意見を聞いたり、場合によっては神仏に頼るということがある。神仏とまではいかなくても、暦を気にしたり、方角を気にしたりしながら生活している。こういったことを熱心に信じることを、信心というのでしょうか。
 先程紹介いたしました平野修師は、親鸞聖人や蓮如上人が仰る信心を今の言葉に直してみると「自信」ということだと言われます。
 皆様方も様々な「自信」を持って生きておられることでしょう。容姿に自信を持っておられる方もあるでしょう。体力、お金、自分の子ども、持っている物など、様々なものを自信の基にしています。平野師は、私共が平生持っている自信というものに、二つの問題があると言われます。
 一つ目は、今挙げたような「自信の材料」は永遠に変わらないということはない。諸行無常です。何時までも若く、体力を保つことはできない。自分の子どもが何時まででも自分の言うことをきくとは限らない。つまり私共の平生の自信は、変化するものの上に成り立っているということです。
 二つ目は、私共の自信は、他人との比較の上に成り立っているということです。他人と比較して、自分が優っている時は、私は頭が良い、器用だ、金を持っていると自信を持てることもある。しかし劣っている時、自分に自信が持てなくなることがあります。
 平野修師は、私共が平生持っている、時と場合によって変わってしまう自信は、親鸞聖人や蓮如上人が言われる信心─本当の自信≠ナはないと仰います。それでは本当の自信≠ニは何なのでしょうか。

■ 耳をすませば ■
手塚治虫『ブッダ』
──(秋田文庫/潮出版)──
 昭和でいうと二十年代、三十年代生まれの人達は、子どもの頃に『鉄腕アトム』を観て多大な影響を受けたと聞く。
 私達昭和四十年代生まれの者は、『ブラックジャック』を読んで生命について考えさせられた。
 その故手塚治虫氏が、仏教の教主(教祖)である釋尊を真正面から描いた作品がある。題名は、そのものずばり『ブッダ』である。(仏陀≠ニは「覚者という意味)
 手塚氏が仏教思想に造詣が深いことはよく知られていて、『火の鳥』などにも、その思想が色濃く出ている。
 仏伝などで超人として描かれがちの釋尊の姿を、手塚氏はどこまでも人間≠ニして描こうとする。覚りを開き仏陀(覚者)となっても、苦しみ、悩む釋尊。仏教の覚りとは、苦悩を消滅するものではなく、苦悩の人生を引き受ける勇気を賜ることなのだという手塚氏の主張が、作品から感じられるのだ。
 現在分かっている史実と相違したり、仏教の基本的な教義から外れるような表現もある。しかし、偉い学者が描く人間味のない釋尊像よりも、数倍魅力的な釋尊に出会うことができる。
 花祭りの季節、手塚治虫の『ブッダ』(秋田文庫/潮出版)を読むべし。

 

■ コラム ■
人間は、生きるために
にわとりも殺さなくちゃいけないし
豚も殺さなくちゃいけない。
生きているってことは
ずいぶん迷わくをかけることなんだ。
自分で自分のことを全部できたら
人は一人ぼっちになってしまう。
他人に迷わくをかけることは
その人とつながりをもつことなんだ。
他人の世話をすることは
その人に愛をもつことなんだ。
生きるっていうことは
たくさんの命と
つながりをもつことなんだ。
──山崎まどか氏(児童教化冊子『いのち』より/当時六年生)──
 「ポックリ寺」というものがあるらしい。その寺にお参りすると、老後に寝たきりにもならず、ポックリ死ねるという。
 ある時、そのポックリ寺へのお参りツアーのバスが崖から転落した。つまり本当にみんなポックリ死んでしまったわけだ。本当に御利益があったのだから、その寺は大繁盛…とはならなかった。それ以来、その寺にお参りする人は誰もなかったという。
 介護保険制度の制定以来、老後ということが表だって議論されるようになった。実際、寝たきりの人もその方の面倒を看る方も切実な問題を抱えておられることなのだろうと思う。しかし、歳を取って動けなくなり、誰かの世話を受けることは、悪いことなのだろうか?。
 上の詩は、小学六年生の山崎まどかちゃんが書いたもの。もともと人は誰しも、支え支えられしてしか生きられない存在なんだよ。だから迷惑をかけることは、少しも悪いことじゃないんだよ=Bまどかちゃんの感受性は、元気に働ける人は善、寝たきりで面倒をみてもらう人は悪と、いのちに優劣善悪をつける私たちの心根を、「その心が真なの?」と鋭く問い掛ける。
 仏教では「人は縁って生きるもの」と教える。その根本的ないのちの道理に目覚めることなく、「自分の思いに縁って生きる」かぎり、いのちを穢し続ける現実は続いていくのだろう。

■ TrueLiving ■
覚の会3月例会講話録(2002/03/19)
──山本隆師──
 今年の初め、二つの大きな嘘が日本中を騒がせました。一つは雪印が輸入牛肉を国産であると偽っていたこと。もう一つは外務省において、鈴木宗男氏の圧力があったのかなかったのか、大臣と事務次官が水掛け論を演じたこと。
 大半の人は、こんなものは氷山の一角にすぎない。裏では表に出ていない同じような嘘が充満しているだろうと思われていることでしょう。  子どもの頃から聞かされてきた「嘘をついてはいけない」という簡単な倫理観なのですが、このことをどう捉えていくのかが大変重要な問題のように思われるのです。
 私は保護司をしております。先般保護司の会議があって行ってきました。その会議で、援助交際─つまり若い女の子の売春のことが話題になっておりました。
 ある方が、援助交際は実は三方丸特だと言うのです。女の子は多めお金を貰って、自分の好きなブランド物を買えて特です。中年の男は、お金を払って若い女の子を相手できて嬉しい。女の子の両親にしてみれば、娘に何十万円の小遣いをやらなくてもよいから、これも特。援助交際というものは、誰も損をしてない、これほど良いものはないと。
 こう言われたら、皆さんはどうお応えになるでしょうか。
 この援助交際の問題は、雪印や外務省の問題と根っ子は同じです。「嘘をついてはいけない」ということを、人と人との関係で捉えている。誰も損をしない嘘は許されるのですが、誰かが損をする嘘はダメだと。人間の都合を中心に倫理観が決められているわけです。
 私たちは、人間と人間の関係で嘘というものをみている。しかし、「嘘をついてはいけない」ということは、仏と人間の関係でみるべきものなのです。「嘘をついてはいけない」ということは、仏が指し示してくださった人間の有り様なのです。
 援助交際でいうなら、男と女の関係をお金で結ぶということは、人間の有り様として悪なのです。こういった問題は、人間の損得、好き嫌いというものが介在しない問題のはずです。今の日本は何でも人間≠中心に物事を考えているから、こういう問題が非常に分かり難くなっている。これが宗教を失った日本の問題点です。
 今の日本では神仏とは、人間のために利用するものになっている。神仏の前に立つ時は、「どうか金がたまりますように。出世しますように。受験に合格できますように。健康で長生きできますように」と、自分の都合ばかりをお祈りする。しかし神仏の言うことはききません。
 仏教には「五戒」という、人間が人間である限り守らなければならない、根本的な戒律が五つあります。それは、「殺してならない」「人の物を盗んではならない」「邪まな男女関係をむすんではならない」「嘘をついてはいけない」「酒を飲んではいけない」の五つです。
 人間£心の倫理観だけで営んできて現代日本の生活は、目に見える形で様々な弊害をもたらしているわけです。今一度、仏と私≠フ関係で倫理観というものを捉え直す必要があるように思います。

■ 耳をすませば ■
『ガキ帝国』
──(1981/ATG/監督:井筒和幸)──
 『ガキ帝国』は、何故か茶の間の人気者になった、映画監督の井筒和幸が二十年前に撮った映画である。主演は島田伸介。他に北野誠や升毅、上岡竜太郎なども出ている。井筒がこの映画を撮った時に出したコメント、「大人が自分達から見下ろした青春映画に飽き飽きしていた」が今も耳に残っている。
 舞台は一九六七年の大阪。当時の日本は社会的な過渡期で、政治的思想的に熱かった時代なのだが、そんなことには関わりないミナミにたむろするヤンキー達の日常=ケンカに明け暮れる日々が描かれている。
 この映画の優れている点は、表現がストレートなところ。腹が立つから、なめられたくないからケンカする奴。成り上がりたいからヤクザとも手を組む奴。大人の支配を受けたくないからヤクザとケンカする奴。友だちが差別されたから怒る奴。「難しいことは分からんけど、社会にも大人にも腹立つんや!」。
 生き方と表現方法は下手なのだけど、確かに、ここに生きている≠ニいうことを実感したいと願う若者達。
 私は、このことを顕かにすることが宗教の課題なのだと思うし、そのことを教えに聞いていく生き方こそ、仏道を歩む≠アとだと思う。

 

■ コラム ■
人生に
無駄なことなんて
ひとつもない。
──延塚知道師──
 仏教に対するイメージというものは人それぞれだろう。しかし概ね「仏教は暗いもの」と思っている人が多いのではないか。
 寺の御子息──特に家族からも御門徒からも、跡を継ぐのだと期待をかけられている寺の長男は仏教(=寺)に対して明るいイメージを持たないで育つことが多い。
 私の知り合いに寺の長男として生まれ、それに反発して育った方があった。十代の頃は寺の行事に一切寄り付かず、大学も仏教系の学校でなく一般の学校に進んだ。
 しかし僧侶の資格だけはとっておこうと、大学を出てから僧侶の専門学校に入る。そこでの生活態度も怠惰そのもの。真面目に授業を受けることはなかった。
 ある日授業前に友だち数人と暴れていた。学校、寺、仏教に対する反発心がそうさせたのだ。すると授業のため先生が教室に入ってきた。彼は反射的に怒られると思った。しかしその先生は、暴れている生徒達を見て「ええなあ。仏教を聞くと元気になるもんなあ」と言ったそうだ。その言葉を聞いて、彼はそれまで自分が持っていた仏教に対するイメージが変わったという。
 私は、同じ先生に授業前、パチンコの話をしているのを聞かれ、「パチンコか。やったらええねん。人生に無駄なことは一つもないもん」と言われた。
 仏教=暗い。こういうイメージも、たった一言の光の言葉で変わるものなのだ。

■ 第15回真宗入門講座 ■
近江第二組推進員前期教習(2002/5/29〜30 6/5〜6)
 講義1■なぜ私は真宗門徒なのか?■(講師:山本隆師 5/29)
「なぜ私は真宗門徒なのか」。皆さんはこのようなことをお考えになったことがありますか?。私達が真宗門徒であるのは、真宗門徒としての歴史があるからです。
 室町時代末期の五百年前、私達の先祖は被支配階級でした。しかし当時既成の価値観、支配体系が崩壊し、民衆が力を持つようになった。私達の先祖は、そのような時代を背景にしながら、「私の宗教は私が選ぶ。私の生き方を聞いていく宗教はこれなのだ」と、良覚寺の先達は蓮如(れんにょ)上人を通して真宗を選ばれたわけです。
 私達の先祖が真宗を選んだという流れで私も真宗門徒を名告るのですが、果たして私は本当に真宗を選んだのでしょうか?。

  講義2■真宗の教・行・信・証■(講師:山本隆師 5/30)
 真宗の「教」は、全ての衆生を救って下さる阿弥陀仏の本願が説かれた『仏説無量寿経』です。
 真宗の「行」は「南無阿弥陀仏を称える」ことです。そして真宗の「信」は、「真に浄土を願い、南無阿弥陀仏を称える心」です。
私達は平生純粋にお参りしようと思っても、自分の都合を願い、自分の欲望を適えるためのお参りになってはいないでしょうか。阿弥陀如来は私達のどうしてみようもない性根を知り尽くされ、「南無阿弥陀仏」と「南無阿弥陀仏を称える心」を回向して下さったわけです。真宗の「行」・「信」は、仏が私に回向して下さった「行」・「信」なのです。
 真宗の「証」は、現に生きている今、顕かになります。阿弥陀仏から回向された「南無阿弥陀仏」を称える心が起こった時、私が阿弥陀仏から願われ浄土に往生すべき身を生きていること。そして阿弥陀仏の本願に逆らいながら生きていることが頷けるのです。(現生正定聚・現生不退転)

  講義3■親鸞(しんらん)聖人の生涯と教団史■(講師:山本隆師 6/5)
 真宗の宗祖・親鸞聖人(一一七三〜一二六二)の生涯の重要な課題は、法然上人から教えられた阿弥陀仏の本願の救いを確かめ、顕かにすることにありました。
 親鸞聖人滅後、親鸞聖人の遺骨を安置した廟堂が建立されます。親鸞聖人の曾孫・覚如上人(本願寺第三代)の頃、この廟堂が「本願寺」という寺になります。
 覚如上人滅後、本願寺は参詣者も疎らな状態が続きました。
 本願寺第八代・蓮如上人(一四一五〜一四九九)は、親鸞聖人滅後見失われていた真宗を再興し、親鸞聖人の信心を人々に伝えることに力を尽くされます。結果本願寺を拠り所とする門徒は爆発的に増えました。
 以後一五〇年、本願寺は権威と権力を持つようになりますが、一六〇二年、本願寺の跡継ぎ問題と、力を持ちすぎた本願寺の弱体化という政治的な意図によって、東西に別れたのです。

  講義4■真宗同朋会運動について■(講師…誉田和人師 6/6)
 戦後の経済成長とともに、日本人の生活は豊かになってきましたが、精神生活は大切なものを見失ってしまいました。
 真宗門徒を名告る私たちも、過去からの因習、血縁、地縁で真宗寺院に所属しているだけで、本当に自分自身が南無阿弥陀仏の教えに出遇うということがありません。
 真宗同朋会運動は、まず私自身が南無阿弥陀仏の教えと出遇い、私自身の生活、相を確かめ、更には縁ある人達に南無阿弥陀仏の教えを勧める、生活実践としての運動なのです。

後期教習の模様へ

 

■ コラム ■
くらべず
あせらず
あきらめず
──大谷専修学院の先輩の言葉──
 ある寺の長男が、高齢になった父親である住職の後を継ぐことを決心した。その人は三十代後半。結婚し息子もいたが、仕事を辞め僧侶の学校に入った。それまで寺に無関心であったため作法や教義に知識がなく、一から学ぼうと志を建てて。
 学校の生活は全寮制。十代、二十代の若い人と共同生活である。若い人達は、その人が年齢的に仏教について知っていて当たり前、出来て当たり前という態度で接してくる。その人はその度に戸惑った。出来ない知らないことに冷笑を浴びせられることもる。挫折感と自己嫌悪の毎日。その人は当初の志を忘れ、夏休みに帰省した時には学校を止めることを考えていた。
 夏休み、息子の付き添いで水泳教室に行った。下手ならが一生懸命水泳の練習をする我が子。水泳の先生は子ども達を励まそうと声を掛ける。その励ましの言葉を聞いていたその人は、涙が止まらなかったそうだ。その言葉が、「くらべず、あせらず、あきらめず」であった。
 人生はたった一度、しかも誰と代わってもらうこともできない。そのことは尊いことだ。その自分の人生を他人と重ね、くらべ、あせり、あきらめてしまう。それでは自分の人生を生きたことにはならない。
 自分自身を物差しで計る自我の思いを超え、自分の人生は自分が生きる=Bこれこそ真ではないかと仏は呼び掛けている。

■ TrueLiving ■
覚の会5月例会講話録(2002/05/19)
──山本隆師──
 先日面白いことがありました。お参りに行った先で、九十歳近いお婆さんがおられた。足が痛いそうで、しっかりと座ることも歩くこともできません。そのお婆さんが「悔しい」と言われていました。何が悔しいんやと聞くと、「あの人とあの人は同級生なんやけど、歩いてはる。わしだけ歩けへんのが悔しいんや」と応えられました。
 そのお婆さんに何か言ってやらなければならないと考えて、紙に絵を描いて渡しました。ビンに水が半分入っている絵です。
 この水は格好良い言い方をすればいのちの水≠ナす。上から見たら、これだけしか水が入っていないとなる。下から見たら、まだこれだけ水が入っているとなる。皆さんはどちらから見られますか?。私はこの発想の転換が仏教だと思います。
 河村とし子さんという方がいらっしゃいます。この方は元々はキリスト教徒でしたが、嫁ぎ先が浄土真宗でした。河村さんがNHKの『こころの時代』という番組に出ておられました。ロケ先は河村さんのご自宅です。連れ合いは既に亡くなられ、子ども達も家を出て、河村さんは広い家に一人で住んでおられます。インタビュアーが「一人で寂しくないですか?」と聞きました。すると河村さんは、「この家にいると亡くなった姑さんと一緒にいるのと同じで、寂しくありません」とお応えになった。「どういう意味ですか?」とインタビュアーが訊きます。すると河村さんは、
  ないことを欲しがらず、
  あることを喜びなさい
と言われたわけです。私たちの生活は、いつでもないものを欲しがっているのです。そしてあることは当たり前になっている。いつでももっと欲しい、もっと欲しいの生活です。
 足が痛いとグチっておられたお婆さんの話に戻ります。お婆さんは何人かの同級生と比べて、自分の境遇を嘆いておられました。けれども、その同級生の中には寝たきりの人もおられるし既に亡くなっておられる方もある。足は痛いかもしれないけれども、動くこともできるし食べることもできる。何より生きているわけです。そのことに喜べない。
 ひとつのことでも、自分自身の見方によって全く変わってきます。現実をそのまま見ないで、自分の都合思いで物事を見ていくわけです。御縁によっていのちを頂いている。このことが、どれほど有り難いことなのか、気が付くことができないのです。
 真宗の教えを聞くとは、そこに気がつける視座を獲得することだと思います。間違いなくいのちを頂いてきて、大きな力の中で今日までいのちが保てている。このことを尊いことだと気づけるかどうかです。
 ひろさちやという仏教学者は、「請求書のお参りと請求書のお参り」という言い方をします。仏様にお参りする時、私たちは「どうか何々してもらえますように」と仏様に請求書ばかり出している。そうではないのだと。領収書なのだと。我が身、いのちを頂いている。このことに「ありがとうございました」と南無阿弥陀仏を称えるのが領収書のお参りです。
 他人にも自分自身にも仏様にも請求書を出し続け、ないものを欲しがる生活をしていても、自分のことは自分で分かりません。この水の入ったビンの絵を見て、他人事ではなく自分の生活であるとか、心根を省みられてはいかがでしょうか。

■ 耳をすませば ■
『ブッダのことば』
──(岩波文庫/中村元)──
 「お経は漢文で書いてあるから意味が分からん。平生使っている言葉の本はないんか」。先般開催された「真宗入門講座(近江第二組推進員前記教習)」の受講者の言葉です。「お経」とはお釈迦さまの教えを書き写したものですが、その教えを理解し、真髄に触れていくためには、漢文という外国語ではなく日本語─しかも現代語が最適であることを再確認させられました。
 法要の時、漢文で勤めているお経を現代語に改めるためには準備等、時間がかかりそうです。現在は一般図書としていくつかの現代語訳されたお経が書店に並んでいます。
 例えば『仏教聖典』(ホテルなどに置いてあるオレンジ色の聖典)もよいでしょう。
 有名なところでは、中村元氏が訳された『ブッダのことば』(岩波文庫)があります。これは「スッタニパータ」というお経を日本語として現代語訳したものですが、仏教界が使ってきた専門用語を使うことなく分かり易くできています。岩波文庫には『浄土三部経』の訳もありますので、一度読まれてはいかがでしょうか。
 またNHKライブラリーには、板東性純師訳の『親鸞(しんらん)和讃』や『浄土三部経』があります。解説が分かり易く、岩波文庫版よりも読みやすいかもしれません。

 

■ コラム ■
トマトがトマトで
あるかぎり
それはほんもの
トマトをメロンに
見せようとするから
にせものとなる
──相田みつお氏──
 俳優の中尾彬さんがテレビで面白いことを言っていた。「役者なんて商売をしていると、普通の生活でも無意識に役を演じてしまうことがある。本当の自分がどこかにいってしまったようで寂しい」。
 日常生活の中で何かを演じる≠ニいうことは中尾彬さんに限ったことではないのではないだろうか。ある時は父親を演じ、ある時は夫を演じ、ある時は住職を演じる。私の場合、時と場によって様々な仮面を被って、違う自分を演じてしまうことなんて日常茶飯事だ。
 阿弥陀如来の教えを端的に現代語訳すると「そのまんま」という言葉が当てはまる。「あなたはそのまんまでいいんだよ。背伸びすることも卑下することも必要ない。そのまんまの自分で生きなさい」。
 私は私であれば良いのだから、そのまんま生きることが真実だとは確かに思える。しかし今度は、そのまんまの自分≠ェ本当の自分なのだからと、そのまんまの自分≠ニいうものを探し始める。これが私たち人間の思考の限界なのだろう。
 懸命に「本当の自分」を探す私たちに、仏教は「何してるの?。本当の自分なんてものは無いんだよ。何かを演じている自分もひっくるめて、そのまんまの自分で生きなさい」と教えるのだ。
 私は私として生きる。簡単なようで難しい、難解なようで単純。

■ 耳をすませば ■
『時計じかけのオレンジ』
──(1971/監督:スタンリー・キューブリック)──
 この八月から「住民基本台帳法」──通称「住基ネット」が具体的に実施されます。
 この法律、有り体に言えば国民に11桁の番号を振り分けて国家が管理しようという法律のようです。今のところデーター化される個人情報は大したものではありません。しかし、いずれ個人の趣味や思想、信条、宗教などの情報を国が掌握し管理してしまう、もっと言うと個≠公 が管理していく危険性をもった法律だと言わねばならないでしょう。
 スタンリー・キューブリックは1971年、『時計じかけのオレンジ』という映画を創りました。舞台は近未来のロンドン。徹底した管理社会の中で、その社会から逸脱して暮らしているのが主人公のアレックスです。アレックスの日常はドラッグと暴力。しかし度が過ぎて、アレックスは国家に捕まります。国家はアレックスを人格矯正機械にかけ、従順で品行補正な市民に改造してしまうのです。
 道徳的な選択も人間的であることも奪われた社会では、人間は時計じかけのオレンジにすぎない。キューブリックはディテールにこだわりをもった映像美でテーマを詰めていきます。
 1971年の未来≠ヘ現在≠ネのかもしれませんね。

 

■ コラム ■
慙は人に羞ず。
愧は天に羞ず。
これを慙愧と名づく。
無慙愧は
名づけて人とせず。
名づけて畜生とす。
──『教行信証』信巻より──
 先日良覚寺に泥棒が入った。参詣者の志の入った浄財箱を荒らされたわけだが、実害は千円ほどだった。
 今回の泥棒は本堂で妙な行動をしている。どうもキン(お勤めに使う鐘)を叩いた形跡があるのだ。ここからは私の想像であるが、この泥棒は浄財を盗む前に、キンを叩き仏に手を合わせたのではないだろうか。「すみません」という心を込めて。
 仏教には「慙愧」という言葉がある。これは罪に対して痛みを感じ、罪を羞恥する心だ。親鸞(しんらん)聖人は慙愧の無い者は人間ではない、畜生であると言い切られる。
 泥棒の偸盗罪(盗みの罪)は確かに重い。しかしこの泥棒は畜生ではなく人間≠ナあった。世間の中では、法律の枠組みの中で平然と盗みを犯し、そのことに対して罪の意識を抱くことなく生きる人もいる。我が身を自省した時、家庭の財産を当然の権利だと盗み、自然の資源を欲望のまま盗み、金を払ったからと他の動植物の命を私物化することがなかっただろうか。
 罪を犯すことは問題である。しかし罪を犯さず生きられないところに人間の悲しさがある。その罪に目覚めることができるのか、その罪をどう受け止めて生きるのかが最も重要なことなのだ。
 泥棒に金は盗まれたけれど、逆に「あなたは人間として生きていますか」と私に問いを残した。

■ TrueLiving ■
覚の会7月例会講話録(2002/07/19)
──山本隆師──
 六月号の「文藝春秋」に「七〇歳が日本をダメにした!?」(山田昌弘著)というものが載っていたので一部抜粋します。
  戦後、個人主義が広まったと言われるが、私はそうは思わない。強いて言えば、「家族主義」の時代といえよう。具体的には、「家族の物質的生活を豊かにすること」を至上の目標とする価値観である。敗戦によって、戦前の「お  国のため」価値観を否定された彼らは、「家族主義」に従って戦後社会を形成し、そして、成功した。その裏側で、「公共性」も「個人」も両方置き去りにされたのではないか。二一世紀に入った今、そのつけが回ってきているのではないか?。
こういったことは、私が平素考えていることと似ている内容でした。
 ある会議で七〇歳すぎの男性が、「わしは子どもを育てる時、妻と相談しなかった。あれは失敗だった」と言っておられました。そう言われれば私もそうであったと思います。私が教員をしていた時、上司から「君はどういうように子どもを育てるのか」と聞かれました。その時「子どもはほっておいたら育つ」と応えたのを思い出します。こういった考え方が、我々の世代の問題点なのかもしれません。
 昔から子どもを育てる時に二つのことを頭に置いて育ててきました。それは仕事と結婚です。
 結婚ということで言えば、嫁をもらってもしっかり家庭を守れるような男に育てる。嫁のもらい手があるような女に育てると。戦後の個人主義の蔓延で結婚ということをしない若い人が増えています。
 仕事といっても、かつはは家業でした。農家なら農家を継ぐように、商家なら商家を継ぐように育てればよかった。親は子どもに家業を継がせることによって、家庭と仕事、更に自分の老後が安定します。そこには安心と満足があった。しかし戦後、多くの人がサラリーマンとなりました。そうなると、親は子どもに家業を継がせることがなくなります。家業を継ぐということは、それだけで家庭と仕事ということで問題が起こらない。サラリーマンであると、そこのところがすんなりいかないわけです。
 また戦後は景気の上昇とともに、家庭を豊かにすることに熱中してきました。昭和30年代から電化製品が家庭に増え、自家用車を購入してきたわけです。徐々に豊かになり、現在は年金で暮らしている。私達の世代は戦中戦後の物のない時代を経験し、何とか豊かにと努力をしてきたのですが、若い世代は豊かになった時代しか知らない。物金を最も大事とする価値観を作り上げた責任が私達にあるように思います。
 個人主義の蔓延、家庭形態の崩壊、物質社会の形成と私達が良かれと思い作ってきた社会には大きな問題があったわけです。
 欧米では、金持ちは公共施設などを寄付します。日本でも近世においては、金のある商人は橋や道を私財を出して作ってきました。個人的な豊かさを求めるのでなく、そういった事業を我々の世代も実践していく必要性があるのかもしせません。
 若い人は我々を見ています。私達の世代の生き方が、次の世代を生きる子や孫から問われている時代なのでしょう。 

■ 耳をすませば ■
『「家族」という名の孤独』
──(講談社文庫/斉藤学)──
 家族でも食事の時間はバラバラ。一つ屋根の下に暮らしていてもたまにしか顔を合わせない。現代において家族とは何かというと同居人≠ニいうことになるらしい。
 こういった現状に意義をとなえ、一昔前に日本にあった家父長を中心とした正しい♂ニ族関係を復活させるべきという考えの人もあるだろう。しかし価値観や家族の形態が多様化した現在、それが正しい♂ニ族関係と言えるのだろうか。そもそも正しい♂ニ族関係などというものはあるのだろうか。
 精神科医の斉藤学氏は、『「家族」という名の孤独』(講談社文庫)の中で、様々な家族関係を紹介する。世間でいう「うまくいっていない家族」ばかりだ。斉藤氏はそれらを紹介することを通して、正しい♂ニ族などというものはない。それは幻想だと主張する。
 私自身、この本を通して「家族はこうあるべき」を考える前に、現に暮らしている家族との人間関係はどうなっているかを考えるべきだと感じた。
 人間は自分で自分のことは分からない。他者との関係において自分とは何かを知らされていくのだ。そういった意味で「家族」というものは、自己を知る最も身近な人間関係なのだろう。

 

■ コラム ■
昔、法師あり 親鸞と名づく
殿上に生れて庶民の心あり 底下となりて高貴の性を失わず
已にして愛欲の断ち難きを知り、俗に帰れども道心を捨てず
一生凡夫にして大涅槃の終りを期す
人間を懐かしみつつ人にしたしむ能わず
名利の空なるを知りて離れ得ざるを悲しむ
流浪の生涯に常楽の郷里を慕い、孤独の淋しさに万人の悩みを思う
聖教を披くも、文字を見ず ただ言葉のひびきをきく
正法を説けども、師弟を言わず ひとえに同朋の縁をよろこぶ
本願を仰いでは、身の善悪をかえりみず
念仏に親しんでは自から無碍の一道を知る
人に知られざるを憂えず ただ世を汚さんことを恐る
己身の罪障に徹して、一切群生の救いを願う
その人逝きて数世紀、長えに死せるが如し
その人去りて七百年、いまなお生けるが如し
その人を憶いてわれは生き その人を忘れてわれは迷う
曠劫多生の縁よろこびつくることなし
──金子大栄師『親鸞』──
 曲がりなりにも親鸞(しんらん)を宗祖とする寺の住職をする私にとって、親鸞とはいったい誰なのだろうか?。時々そんなことを考えることがある。
 私が仏教に縁を頂いて学び始めた頃、私にとって親鸞とは歴史上の偉い坊さんに過ぎなかった(つまりどうでもいい人)。
 それから九年。坊さんをやっていると、全国の僧侶や御門徒といった人たちに出会うことができる。そういう人たちの中には、生き方がユニークで独得の価値観を持った人が非常に多い。
 そういった方々に教えられることを通して、自分のすがた、生き方、生活はこれでよいのかと考えさせられることもある。そういった方々の生き方に感動し、私自身行動を起こすこともある。
 私の出会った素晴らしい人々が一様に言われることは「親鸞の言うことは真だ。私は親鸞が好きだ」ということ。  親鸞の教えが真であるかどうか、まだよく分からない。けれども私が出会った人たち─古来から念仏者と呼ばれてきた人たちが、自分自身の人生を本当に大切に生きようとされていることは分かる。また多くの念仏者との出会いが、私の生き方に多大な影響を与えていることも自覚できる。
 今の私にとって親鸞とは個人の名ではない。私に教えを説いて下さった方々─念仏者の総体なのだ。

■ TrueLiving ■
永代経講話録(2002/09/23)
──木村修師──
 私達は真宗門徒として親鸞聖人の御教えを聞いて、「お念仏を生きる」あるいは「お念仏を生きさせていただいている」わけです。この「お念仏を生きる」「お念仏を生きさせていただく」とはどういうことなのか、本日は尋ねて参りたいと思います。
 今日お勤めになった『正信偈』の中に、「獲信見敬大慶喜─信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん」とあります。「信を獲る」とは「信心を獲る」と言うことになりますが、私自身なかなか信心を獲るということがありません。蓮如(れんにょ)上人のお言葉に「聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり」とあります。心を入れて仏法聴聞をしておれば信心を頂いていくことができるのだと。この仏法を聴聞することとは私自身≠仏法に聞くということです。
 次に「見て」という言葉があります。これは、今まで見えなかった、今まで見過ごしていた私自身の浅ましい相≠ェ見えてくるという意味です。  名古屋の安城という所で終戦の間際大きな地震があり、その村にある寺も倒壊しました。村にいる御門徒だけではなかなか再建はできませんので、都会に出て成功されている人の所を懇志を求めて回ることになりました。まず住職と世話方で大阪の御門徒を訪ねられたのですが、行く電車の中で「五万円くらいはもらおうか」「いや十万」と話をされたそうです。そしてその大阪の人と対面して交渉すると「お寺のことやから」と十万円出してくれました。寺の住職も世話方もお寺のことを思って気前よくお金を出してくれたことに本当に喜ばれた。しかし家を出て五十b歩いた時、世話方が「御院主さん、こんなことやったら二十万と言えばよかったなあ」と言われた。
 人間の真実は長続きしません。五十bもたない。しかしこの時、「私はなんと浅ましい身であったか」という自覚があったか、なかったで大きな違いがあります。人間は誰しも欲を持っています。そのことを口に出した時、自分自身の浅ましさが明かになるわけです。つまり自分自身の本当の相に出会うということです。
 「お念仏」ということも、そこを離れてありません。よく「念仏を称えたおかげで、家も安泰、足腰もたっしゃや」と言う人がいます。その人は念仏を喜んでおられるのではなく、家が安泰なこと、足腰がたっしゃなことを喜んでおられるのです。どこまでも自分の都合が中心で、お念仏の本当の心がないわけです。
 私たちは良い縁であっても悪い縁であっても、御縁の中を生きているわけです。その業縁をそのまま受け入れて生きよと念仏は教えているわけです。
 私も脳梗塞の気があるそうです。今は梗塞で倒れても、管を入れて延命治療できる。私はそれがどうしても嫌なので、妻に「わしが悪くなったら、ええ加減に死なせてくれ」と言いました。すると妻は「目の前で苦しんでいる人を放っておく訳にはいかない。それは自分勝手です。どんな御縁も受け入れて生きることが真だと御院主さんは御門徒に言っているはずなのに」と私を叱りました。
 本当にお念仏の教えを通して自分自身の相を知らされた者は本当の懺悔がある。その懺悔のところにこそ、喜び合い、悲しみ合う人間関係を回復していけるのだと感じます。それは南無(=帰命)から始まる人間関係です。

■ 耳をすませば ■
『葉っぱのフレディ』
──(童話出版/レオ・バスカーリア著/みらいなな訳)──
 理屈ではなく事実として、人は生まれて、生きて、死ぬ存在である。死≠フ前では全ての人が平等。財産、権力、そして健康や若さも無力なのだ。
 寺などという所で暮らしていると、このことが逃れようのない事実だと感じられる。住職になって八年、数えきれないほどの葬儀式に参勤してきた。時に感情を殺しながらお勤めをしなければならないこともあった。
 『葉っぱのフレディ』(童話屋出版/レオ・バスカーリア著/みらいなな訳)という絵本がある。舞台や映画にもなった。フレディという葉っぱが、春に生まれ夏に人生を謳歌し、秋に衰え、冬に死んでいく。この絵本は、死すべき生を生きる人間の姿を教えるとともに、「自分の死」を事実として受け止めることの大切さを教えてくる。
 繰り返すが死は平等であり、この事実から誰しも逃れようがない。死を恐れ死に向かって欲望のまま生きるのか。それとも死を受け入れ、限りのある命を精一杯生きるのか。人はいつでも自分の生から問われているのだ。
 竹中智秀先生は、「死を受け入れたところから、真の人の生き方が始まります」と私に教えて下さった。

 

■ コラム ■
誰にでも、その人にしかできないことがある
その人にしか 生きられない人生がある
だからナンバーワン≠目指すのではなく
オンリーワン≠求めて生きていこう
──新垣勉氏──
 全盲のテノール歌手で新垣勉さんという方がおられる。新垣さんの母は沖縄の女性、父は空軍に所属する米兵だ。出生の時、新垣さんを取り上げた助産婦が、出産に使う劇薬を点眼するというミスを犯してしまった。その後直ぐに父はアメリカに帰り、母は全盲の赤ん坊を捨て再婚してしまう。新垣さんは祖母に育てられることになった。
 「何故自分は独りぼっちなんだろう。何故自分だけこんな目に遭うんだろう」。思春期になった新垣さんは日々こんなことを考える。「大きくなったら、父を殺そう。母を殺そう。助産婦を殺そう」。
 そんな新垣さんは一人の牧師と出遇う。その人は「頑張れ」などという言葉をかけてこない。新垣さんのために共に泣き、共に笑ってくれた。その牧師さんとの出遇いを通して、新垣さんの被害者意識は薄れていったのだ。
 私たちは自分を他人と比べて、劣っている・優っているという世界を生きている。そういう視座で生きる時、劣っている自分を受け入れることができず、自分自身を見捨てる世界しか開かれない。誰かと比べた自分ではなく、そのまんまの自分の全てを受け入れて生きてこそ、本当に自分を生きたことになるのだろう。
 新垣さんが何時も口にされる言葉は「ナンバーワンからオンリーワンへ」。宗教は違えども、念仏が開く世界がここにある。

■ 耳をすませば ■
人と思想G『親鸞』
──(清水書院/古田武彦)──
 「親鸞(しんらん)聖人のことが分かる入門書はないですか?」とよく聞かれます。学者が書く「親鸞入門」は面白くないものが多いかもしれません。宗門が出している出版物にその類のものはありますが、私が個人的にお勧めしたいものが古田武彦氏の「親鸞」(清水書院)です。
 「きみがこのページをめくったことによって、きみの人生の一端は、わたしの人生と確かに触れ合った」。序文はこのように始まります。これだけでも充分にインパクトを感じますが、読み進むと、古田氏がただ単に親鸞研究家ではないことが分かります。
 『「邪馬台国」はなかった』の著者としても知られる古田氏は、親鸞の思想に多大な影響を受けておられるようです。僧侶ではない立場で親鸞の生き方にある種の感銘を受けておられますし、それが行間から伝わります。
 特に「夢告」と呼ばれる親鸞が見た夢の告げに関する記述は、古田氏が独自に研究された部分が多く、夢告が親鸞の宗教家としての歩みを深めていったことが分かります。
 11月28日は親鸞聖人の祥月命日にあたります。本山東本願寺でも報恩講が勤まります。秋の夜長に宗祖の人間としての歩みを、書物を通して確かめられてはいかがでしょうか。

 

■ コラム ■
世界中に定められた
どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに素晴しいだろう
世界中に建てられてる
どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに意味があるだろう
──ブルーハーツ『TRAIN TRAIN』より──
 十二月というのは不思議な月。街をクリスマスムードが支配し、今年の禊ぎと来年の準備が始まると、(人生の中で)何か大きなことをやり残したんじゃないかという、ほんの少しの後悔が生まれる。
 私も三十五歳。若いと言われたり中年と言われたりする歳だ。この前、同世代の友人がポツンと呟いた一言が忘れられない。「人生も半ばを過ぎたけど、人生ってこんなもんか?」。仕事や家庭がある程度安定して、これからの人生が見えてしまった#゙の呟き。痛いほど気持ちは分かる。
 若い頃、もっと言えば子供の頃、人生とはもっと濃厚なものだと思っていた。ところが、今まで自分が生きてきた人生を振り返っても、これから生きていくであろう人生を考えてもスカスカ。何となく生きて死ぬ。虚無感をうめるために興じるただ単に欲望を満たすためだけの遊び。人生ってこんなもんか?。
 生きていながら生きている実感や喜びを知らずに生きることを「空過(むなしくすぐる)」と仏は教える。また空過する生しか生きていないという自覚は私たちが本当に生きたいんだという心の底にある深い願いの表れ。その願いこそが、仏と私たちをつなぐ細い道なのだろう。
 「人生ってこんなもんか?」。その人生─あなたが生きてきた、生きている、生きていく人生が何よりも尊い。

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【前編】(2002/11/8.9)
──藤本愛吉師──
 仏法とは、親鸞(しんらん)聖人の言葉で言えば「本当のことを学ぶこと」です。本当のことを学べば、本当のことから知らされてくる世界があるのだと親鸞聖人は仰います。
 その仏法についてですが、私がおります大谷専修学院の院長であります竹中智秀先生から、これが仏法ではないかというお話をお伺いしたことがあります。
 ある真宗門徒のお百姓さんの家に長く付き合ってきた柿の木がありました。その柿の木も月日とともに腐ってきます。これをそのまま切ってしまうのは忍びない。その人は近所で同じように念仏を聞いておられる同行に相談しました。相談された人は、「わしらは百姓をして田圃から育ててもらったということがある。柿の木も同じやな」と。結局その柿の木をただ切るのではなく、その柿の木から観音さんを作られました。
 つまり柿の木はただの物ではない。そこにいのちを通わせて養ってもらったという関わり方をしていくのです。柿の木と私は別々の生き物です。しかし別々だけれども別々ではない。こういう世界を親鸞聖人は「一如」という言葉で受け取っておられます。
 こういう仏法の考え方を「本当だ」とうなずけた時、そういう世界を生きていない私のあり方が映されるのです。仏法は遠い話ではありません。身近な所で自分自身を大事にしてくれる人は必ずおられる。そういう人の願いを通して、私自身は人との関係はどうなっているのか、私の心はどうなのかということを、本当のことから知らされていくわけです。
 松本梶丸という方の本にこういう話が載っていました。ある法座でお婆ちゃんが孫を連れてきた。そのお婆ちゃんは「この子は仏様を拝むのが好きで、ほんまに良い子や」と自慢でしかたがなかったそうです。しかしお勤めが始まってすぐに孫がぐずり始めました。さっき自慢した孫なので、何とかなだめようとしても、言うことをききません。そしてお婆ちゃんの口から出た言葉が「この子はきかん坊の悪い子や」。ものの五分で良い子から悪い子に変わってしまったわけです。
 松本さんは言われています。私たちが物事を判断する時、良いとか悪い、正しいとか間違っているという世界で生きている。しかしその判断している自分≠ニいうものが吟味することがない。このお婆ちゃんは、孫が自分の思いを満たしている時は良い子、自分の思い通りにならない時は悪い子となっている。そういう矛盾したところにいる自分≠ェそのまま見えてくる。それが信心の真ということである。
 松本さんが言いたいことは、自分の都合で善い悪いと判断していることを、それはどこまでも自分の都合なのですよと、仏から教えられて、照らされていると仰るわけです。  松本さんは、そのお婆ちゃんの話を聞いた時、「似たような者がここにおる」と言われたそうです。私たちは身勝手な人を見た時、それは他人事だと外に出してしまう。しかし松本さんは、お婆ちゃんと同じ心を私も持っているのだと、自分自身に引き受けていくわけです。
 仏法を聞くと特別なことがあるのではありません。本来ひとつのいのちを頂いている─アミダのいのち頂いているにもかかわらず、自分の都合だけで生きている。そのことに気づいていきなさいと、仏から呼び掛けられている。その呼び掛けを聞けるかどうかなのです。【続く】

【後編へ】

■ 耳をすませば ■
『大人問題』
──(講談社文庫/五味太郎)──
 帰帆こども学校を始めてよく言われる言葉として、「子どもに仏様のことを教えてやってくれよ」があります。それを一回もお寺で顔を見たことのないお年寄りから言われるわけですよ。子ども云々言う前に、あなたにとって仏様の教え≠チて何なんですか?と問い直したい気分になります。
 今の子どもは昔と比べて悪くなったぞ、という言葉をよく聞きます。しかし人生を数年しか過ごしていない子どもが勝手に悪くなるはずありあません。子どもの回りに居る大人、子どもの生きている社会を構築していく社会を作っている大人に問題がある。もっと言えば大人の一員である私≠フ生き方に問題があるわけです。
 童話作家の五味太郎さんが『大人問題』(講談社文庫)という書物を書かれています。主に大人が「子どもに問題がある」と言い切っている事柄を、それは大人の問題じゃないの?と五味さんの視点から問い直すことをされています。賛同しがたい箇所もありますが、論旨は明快で分かり易く読めます。
 この本の本当の題名は「大人(は)(が)(の)問題」。そしてその上に英語で「take your choice…、(あなたが選びなさい)と書かれています。




to index flame