蓮如上人五百回御遠忌の厳修にあたり
 


 この度、良覺寺門徒一同の懇念が実を結び蓮如上人五百回御遠忌を厳修する日をここに迎えました。この勝縁に出遇わせて頂くことは、この上ない慶びでございます。本日まで、法要準備にために御尽力を賜りました有縁の皆様に衷心より感謝し、厚く御礼申し上げます。
 蓮如上人が生きられた室町時代は、正に時代の過渡期でありました。幕府や朝廷の権威は地に落ち下克上がはじまります。それに伴い大小の戦乱が絶え間なく続き、加えて天災が人々を襲いました。倫理も道徳も破壊され、人々は自分が何のために生まれ、何のために生きていくのか分からぬまま死なねばならない。そういう時代でした。
 生の拠り所を見出せないまま迷い惑う当時の人々に、蓮如上人は、親鸞聖人が顕かにされた真宗を「雑行を棄て、一心一向に阿弥陀仏をたのめ」と端的に表現し人々にお伝え下さいました。まるで地を這う虫のように時代社会から見捨てられ、自分自身で自分を見捨てていた人々に、人間をはかる全ての価値観を棄て、人間存在そのものの尊さを教えてくださったのです。そして、自分が生まれた意義、自分が生きる喜びを問うていく生き方が、ここにあることを説いて下さったのです。
 我々が生きる今という時代も、また時代社会の過渡期であります。価値観は多様化し、人々は生の確かな拠り所を見失っています。生きるための手段ばかりに迷い、生きる目的を見出すことに目がいくこともありません。この時代社会にあって、蓮如上人が我々の先達に伝えてくださった浄土の真宗を今一度聞き直し、我々一人ひとりが自分自身の生まれた意義と生きる喜びを問うていく生き方を成就する深重の機縁であると、この御遠忌を頂いてまいります。
 この度の勝縁に参詣頂きながら、準備不行き届きの点が多く、御迷惑をおかけしておりますこと、深くお詫び申し上げます。
 本日はようこそお参りくださいまして、誠に有り難う御座います。

 2006年(平成18年)10月21日
良覺寺住職 釋願證
門徒一同



 
御遠忌の円成


 2006年10月22日(日)に厳修された「結願(けちがん)日中」の終了において、良覺寺蓮如上人五百回御遠忌が円成(えんじょう)いたしました。
 「円成」とは仏の覚りをわたしのなかに完成すること≠ニいう意味なのだそうです。それが物事の完成≠ニいう言葉に転じ、大法要などの終了を「円成」という言葉で表現しするようになりました。
 この度の御遠忌を勤めるなかで、この御遠忌を勤め上げるため、多くの良覺寺門徒が力を尽くしてくださいました。失敗や不行き届きがあったかもしれません。しかし、御遠忌円成にむけて必死になって力を尽くしてくださる門徒をかかえる良覺寺の住職であることを誇りに思います。
 皆様、本当にありがとうございました。
 御遠忌の円成は一つの到達点であります。そして到達点は出発点でもあります。有縁の良覺寺門徒と共に、御遠忌円成を出発点とし私が私として生まれてきたことの円成≠深くたずねていくことを初めていきます。「御遠忌円成」は「私の生涯の円成」への出発点でもあったのです。



良覺寺蓮如上人五百回御遠忌 表白
 


敬いの心をもって、
救主・阿弥陀如来、教主・釈迦牟尼世尊、宗祖・親鸞聖人、無数の念佛者、良覺寺歴代の住職坊守、累代の良覺寺門徒に白し上げます。
本日ここに、阿弥陀如来の尊前を荘厳して、有縁同朋あい寄り集い、真宗再興の祖である蓮如上人の五百回御遠忌を厳修いたします。

今を去ること五百年の昔、闇のなかで地を這う虫のようにしか生きられなかった人々の前に、大きな灯りを焚いて下さった人がいました。
人々が闇のなかで生きるが故に、往くべき道を見失わないように、
闇のなかで生きるが故に、つまずいて立てなくなることがないように、
闇のなかで生きるが故に、心の中まで闇が覆わぬように、
一生涯、渾身の力を込めて目印になる灯りを焚き続けて下さった人がいました。その人の名を蓮如上人といいます。

15世紀、社会体制が根底からゆらぎ、人々は生きる寄る辺を見失いました。戦乱と災害と飢饉が人々の生活を奪い、人々の心から優しさや温もりを奪いました。
蓮如上人は、生まれた意義と生きる意味を問うことを忘れてしまった人々に、本願念佛を拠り所とし、浄土を願う生き方を伝えて下さったのです。時代社会や世間の価値観から見捨てられ、自分で自分を見捨ててしまう生き方しかできなかった人々に、人間の存在を量ることはできない、そこにあるだけで尊いと呼びかけ、人と人とのつながりを「とも同行」という世界に呼び返して下さったのです。
蓮如上人の呼びかけによって、人間としての大事を回復した人々は、蓮如上人を真宗再興の上人と呼びました。

蓮如上人の呼びかけに感動した人々は、多くの友といっしょに、再興された真宗を喜ぶことができる場所を求めました。そして、その場所ができたとき人々は思いました。
この場所さえ滅びずにあれば、蓮如上人が我らに伝えて下さった真宗の教えが、自分たちの子々孫々にも伝わるだろう。時代が変わり、また人間が人間を尊べない社会になっても、この場所さえあれば、真宗は再興されるはずである。
五百年前、この矢橋という土地に住み、蓮如上人と出遇い得た人々は、その場所に万感の願いを込めました。
その場所こそが、この良覺寺であります。
そして良覺寺歴代、矢橋新浜の門徒累代、良覺寺五百年の歴史を通じて、天災地変に翻弄され、権力の重圧に押しつぶされそうになりながら、濁世において真宗の法燈を絶やすことなく輝かせ続けてきました。

蓮如上人滅後五百年、この良覺寺に本来あるべき真宗精神は見失われていないでしょうか。
佛法は理想理論の彼方へ隠退してはいないでしょうか。
教えは本当に民衆の生活に寄り添っているでしょうか。

今という時代は豊かな社会であると言えます。その豊かさは、物と金の量ではかることのできる豊かさであり、豊かさの量が多いほど幸福だとされています。
その豊かさを増やし、幸福を実現するため、他者と争い、人を差別し、いのちを踏みつけるような生き方をしているのが我々のすがたなのではないか。我々は幸福を実現する手段ばかりに目が奪われ、生きることの大事を見失っていないのか。
まさに現代は五濁悪世であり、私は濁世に流されてしか生きることのできない衆生の一人なのです。

この混沌とした現代社会という濁世において、いや濁世の世だからこそ、救われなければならない一人の衆生として、親鸞聖人が顕かにされ、蓮如上人が伝えて下さり、良覺寺先達が護り続けて下さった、浄土の真宗を私の中に再興し、同朋社会の顕現に全力を傾けなければなりません。

「人の信なきことを思し召せば、身をきりさくような、かなしさよ」という蓮如上人の激励を聞きつつ、五濁悪世の今という時代社会を、一切の衆生と共に真実に生きていくことを、ここに誓います。

  親鸞聖人滅後745年、西暦2006年(平成18年)10月22日
良覺寺第十七世住職 釋願證  
敬って白す





    



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