子供との出会い
沙加戸崇

 人と初めて出会って自分自身が喜んだり、感動したりすることは今までの経験では思い当たらなかった。人と出会った時、私はその人がどんな人か観察し、時間をかけてその人のことを理解していく。一般的に、人との出会いを喜ぶというのは、あのときに出会えて良かったと結果的に感じるものではないだろうか。しかし私は、幸運にも初対面からその出会いに感動し、それまでにない喜びを感じることができる経験をさせていただいた。その出会いというのも、自分の子供との「出会い」である。出産の時には、とにかく無事に生まれてくれと願い、待ち望んだことであっただけにあなたに会えて良かったと、心から言える瞬間であったのかもしれない。この「出会い」の喜びは全くなにものにも換えがたい喜びであると同時に、生命の力強さやその神秘性に感動したことを鮮明に記憶している。
 先日読んだ本に『運動神経がよくなる本』というのがある。この本の中で著者である白石氏は、運動に向かう子供への支援という観点から、「かつて自分の子供が初めて歩いたときには、お母さんもお父さんも大喜びで、あんよが上手よ」と誉めるであろうし、また「2、3歩で転んだからといって、怒鳴る親はいないであろう。」と述べている。子供を見て、その成長を心から喜び支える両親も、やがて集団に入れることで「比較」というレンズで我が子を見るようになり、できたことではなく、できないことを責めるようになる。その子のあるがままの姿に喜び感動を覚えた自分も、いつの頃からか「もっとがんばれ、もっとできるだろう」とその子の本当の姿が見えなくなってしまう。自分にも当てはまりそうで、読んだだけで恐ろしくなる文章である。
 近年、マスコミで多く取り上げられている人工受精、精子や卵子の売買、その他臓器移植やクローンの問題など、私たちをとりまくいのち≠ノ関わる問題はどのように考えていけばよいか、課題が残されるところである。実は私も、この子が生まれる前に流産になった子供がいた。担当医の話によれば、最近は3カ月ぐらいまでにいのちを落とすケースは非常に多いと聞く。実際友人や周囲の人からきくと、同じような経験をされている方がおられるようである。またその他にも、不妊の治療など当事者の方には切実な問題として現実には存在している。南学会の例会においても話題にあがったが、医療の発達にともなって複雑化する“いのち”に関しては、今一度立ち止まって考えなければならないことがあまりにも多い。
 出会ったときの感動だけを持ち続けて子供の成長を見守っていきたい、というのはあまりにも美しすぎる話であるし、あり得ないことではあるが、どこかで「あなたと会えて、心からうれしく思う。」と言えればと思う。
(近江第1組 響忍寺)

【2000/11発行「湖南教化委員会報」16号より転載】


親と子の出会い
齊藤恵

 前職を辞してから暇になったせいか、今までに出会った人々のことをよく思い出す。そんな思い出の中に一人の少女との「出会い」がある。
 私が少年鑑別所に勤務していた時、女子中学生が入所してきた。家出して都会をさ迷ううちに転落しかけたところを警察官に保護されたのだった。世間によくある話だ。
 ところが、詳しく調べてみると、彼女には非行の前歴もなく、生活の乱れも全くうかがえない。しっかり者の優等生の姿しか浮かんでこない。面会に訪れた中学校の担任も、彼女は温厚ながらクラスの中心的存在で、成績も良く、担任としても期待していた生徒で、何故こんなことになったのか全く判らないと表情を曇らせた。一体、何が彼女をこのような行動に走らせたのか。
 家庭裁判所の審判も終わって、彼女が鑑別所から去った日、彼女の担当だった職員から一枚の紙片を見せられた。「ここへ来て、初めて私の話を聞いてもらえる成人(おとな)に出会えた。鑑別所に来て本当に良かった。」紙片には彼女の筆跡でそう記されていた。
 彼女は、学校では教員からも級友からも存在を認められ、社会的にもしっかりした両親に可愛がられ、彼女も両親や家族を愛していた。そんな彼女に「出会えた」といえる人が一人もいなかった。鑑別所を後にする彼女の寂しげな後ろ姿が、紙片を手にした私の目に浮かんだ。
 私たちにとって、親子の関係は「出会い」などと言う以前の関係だ。子供が生まれた時から、いや、生まれる以前、母の胎内にある時からのものという思いが心の底にある。他方では、「子供も可愛いのは小さい時だけで、大きくなると、何を考えているのかということも解らん。」という親たちのぼやきも本心だろう。
 しかし、彼女を一人の人間として認めて、正面から向かい合い、彼女の言葉に耳を傾けてくれる人が彼女にはいなかった。彼女にとって、親は人間として理解し合える最も身近な成人(おとな)ではなかった。ホームドラマにでも出てきそうな暖かな家族の中にあって、彼女は一人ぼっちだった。孤独が彼女を自棄的な行動に駆り立てたのだ。
 今、私の娘も中学生。はたして娘と本当に出会えているのだろうかと思う。
(近江第4組 正覺寺)


【2001/02発行「湖南教化委員会報」17号より転載】


私の聞法環境
城徹

 教職を辞し住職を継承してから13年になります。
 初めのころ、毎日の月忌参りをするなかで、ただ御経を読み世間話をして帰ってくるということの繰り返しに、何かしら充実感が得られず、僧侶としてこれで良いのかという疑問を抱きました。
 そこで、月忌参りを、ご門徒(もんと)さんにとっても自分自身にとっても、もっと充実した聞法学習の機会になるようにできないものかと考え、たとえ二〜三分でも、何かしら教えに触れる話をすることを心がけるようにしました。
 しかしながら、これはなかなか受け入れてもらえませんでした。というより、かえって拒否反応を示されたりしました。
 それもそのはずで、大谷大学にも専修学院にもいっていない私は、これといった聞法学習の蓄積経験がないばかりか、自分自身に聞法姿勢そのものがありませんでした。にもかかわらず、ただ教化者意識だけが先走りして、出版物を読みあさっては消化不良のままそれを話し聞かせるという事を繰り返していたのです。
 色々な方との出遇いを通して、やがてそのことに気づかせていただいたのですが、ちょうどそんな時、山本隆先生より「南学会」にお誘いをいただきました。
 毎月の例会は、講師の沙加戸弘先生による講義と、集まったメンバーによる座談会といった内容ですが、今の私にとっては、かけがえのない、大切な集いであります。
 そこには、今、自分が悩んでいることや考えていることを、素直に、飾らずにぶつけられるメンバーと、それを受け止め、時には誤りを指摘してもらえる空気があります。また、他のメンバーが抱えている問題や考えていることを聞き、一緒に考えることを通して、自分自身が経験しえなかったことをも、間接的に経験することができます。
 蓮如(れんにょ)上人が、「寄り合い、談合せよ」とおっしゃったお心が、少しは体得できたような気がします。
 そんな「南学会」との出遇いをいただいた今、自坊の法務のほうはどうなっているのかといえば、お粗末ながら、徐々にではありますがご門徒さんとの信頼関係も築けてきて、月忌参りの場も、特に意図することなく自然に世間話の中に法談を交えることができるようになってきました。
 色々な相談ごとや愚痴をこぼしてくださる方もあり、時にはこちらが愚痴っていることもありますが、とにかく一方通行ではなしに、共に語り合えるということは、本当にすばらしいことだと思います。
 現在の課題は、それでもやっぱり、月忌参りや法事の場を如何に聞法学習の場(あるいは、そのきっかけづくりの場)として充実させるかであります。もちろん、自らの聞法の場としても…。
(近江第1組 宗徳寺)


【2001/04発行「湖南教化委員会報」18号より転載】


出会いとことば
佐藤賢隆

 昨年末から大谷祖廟事務所にて嘱託勤務を始めた。それまで自坊の法務しかしていなかったので、当たり前だが、突然に不特定多数の人と触れ合うようになったのである。
 法務では、ほとんどの場合が決まった家に行き、また応対する人も決まっているので、非常に限定されたところでしか他者と触れ合うことがない。私のいる寺は小さく、門徒戸数も少ないので尚更だ。それが大谷祖廟という東本願寺の飛地境内地において、全国各地から来られる方々と接するようになるのだから、その違いたるや大層なものだ。
 当然ながら大谷祖廟に参詣に来られる方は、私個人とは何の面識もなく、そのとき初めて接する。そして対面している時間は、受付業務と案内が主だった仕事なので、ほんの少し言葉を交わすだけといっても差し支えがない程に短い。しかも納骨や参詣に来られた方にその取り扱いを説明するのが大半なので、どうも平坦なやり取りになってしまう。
 事務所に入る際、所長から「自坊の門徒さんに接するのと同じ気持ちで参詣者の方に接して下さい」との言葉を頂いていた。
 普段、私は自坊の門徒の方と接するときに、出来るだけ親近感を持ってもらおうとして、言葉遣いを所々で崩してみたり、話題にしてもテレビのワイドショーで取り上げられているような軽いものにしてみたりして、まるで孫か息子かのように近い距離感で話すようにしている。私のような若造であっても僧侶というだけで場の雰囲気が堅苦しくなりがちなので、意識的にそのように努めているのだ。
 そんなわけで大谷祖廟の業務においても、たとえ短い時間であってもなるべく参詣者の方と近く話が出来るようにと普段に近い感じに言葉を崩すようにして話していたら「君、馴れ馴れしすぎるよ」と職員の一人に注意されてしまった。また、方言もなるべく出さない方がいい、とも言われた。
 参詣者は全国津々浦々からいらっしゃる。また受け止め方には個人差というものがある。私はなるだけ柔らかく親しげな口調で話しているつもりであっても、その言葉が関西弁だというだけで、ある人にとっては馴れ馴れしいと感じたり、または威圧的に感じたりもするだろう。柔らかく親しげな口調、というのは私の勝手な思いでしかないのだ。
 その反面、方言を削ぎ落とした丁寧な標準語だと、言い回しが丁寧であっても話者の気持ちや心遣いが今ひとつ伝わり難いという点もある。
 私の役割は、大谷祖廟とそこへ参詣に来られる方々との橋渡しなのである。私個人が参詣者と近しくなる必要はないが、「大谷祖廟の職員」が遠く感じられるようになるとそれは大谷祖廟が参詣者にとって遠いものになるように思う。  どうすんのが一番ええねんやろ?
 ほんの少し言葉を交わすだけ、がとても難しい。
(近江第1組 閑栖寺)


【2001/04発行「湖南教化委員会報」18号より転載】


よりそう
三品正親

 先日、境内の槙の木にヒヨドリが巣を作り、三羽のヒナがかえりました。親鳥がせっせと飼を運び、ヒナはまだ目が見えていないだろうに、親鳥が巣の枝にとまると、その気配を感じるのか、一斉に口を目一杯開けて「早く、早くご飯ちょうだい」と言っているのです。こりゃまぁ親は大変だ、どこの世界も一緒だなあと、一瞬子育て真っ最中の我が身を思い起こしました。
 四、五日たってから、子ども達に見せてやろうと思い、そっと遠目に巣をのぞいてみると、ヒナはもうふっくらと体毛も生えて、だいぶん大きくなっていました。しかしまだ飛び立ちはしないだろうし、幸い親鳥もいないし、もう少し近寄ってよく見ようとした時でした。私たちに驚いたのか、飛ばないと思っていたヒナが、急に三羽とも巣から飛び立ったのです。「しまった」と思いましたが、時すでに遅し、案の定ヒナは大空へは飛び立てず、羽をばたつかせながら滑空し、地面に落ちてしまいました。
 その瞬間、どこで見ていたのか、私たちを威嚇でもしているかのようなかん高い声を上げながら、親鳥がヒナに向かって飛んでくるではありませんか。そして自分の羽でヒナを隠そうとするのか、あるいはわが子に飛べと言っているのか、羽を広げてそばに寄り添ってくるのです。少し早い巣立ちだったかも知れません。私もこれはいけないと思い、子ども達を連れてその場から立ち去りました。
 しかしその光景を見た時、ハッと胸打たれました。子育て中の親鳥を見た時は、私も同感と感じたのですが、巣立ちの時は違ったのです。ヒナが巣から飛び立とうとする時アクシデントが起こり、鳥にとって生きられないかもしれない場面で、親鳥として手伝う訳にもいかず、ただそばによって励ますだけ、人間の言葉にかえるなら「大丈夫、大丈夫。心配しなくていいのよ。こうして羽を広げてごらん、さぁ飛ぶのよ」とでも言っているのでしょうか。まさに安心と力が湧いてくることでしょう。鳥の本能だと言い切ってしまうには、あまりに鳥に対して申し訳ないような場面でした。
 今日もまた、小学二年生の子が親による虐待で亡くなったと報じられていました。池田小学校の事件の容疑者は親に勘当され音信不通だったとか、十七歳が危ない、普通の子が危ないと言われるように、今の現実、これらのことは特別なことでは無さそうです。
 このヒヨドリの親のように、いざ子どもにアクシデントが起こった時、さっとそばによりそう@p意と覚悟ができているでしょうか。くどくど説教するのではなく、悲しかったら一緒に泣き、苦しかったら一緒に苦しもうとする覚悟が大切だと思います。
 よりそう 今の時代、このぬくもりが人を育てるのではないでしょうか。  明くる日ヒナはいませんでした。きっと親鳥と共に大空を飛べたことでしょう。
(近江第4組 蓮生寺)


【2001/08発行「湖南教化委員会報」19号より転載】


〜南学会月例会座談会より〜「仏事について」
高木淳善

 南学会の毎月の例会では、大谷大学教授・沙加戸弘師による『歎異抄』の講義の後、座談会がもたれています。座談会は、毎回担当者(会員が順次担当)が話題提供し、その話題について自由活発な討議が繰り広げられています。
 座談会の話題は、会員各自が日頃抱えている問題意識・疑問等の中から提起され、これまで実に様々な話題が出されてきました。座談会を通して、一人の問題意識・疑問が会員全員に共有されます。座談会は会員が共に考え、学ぶ大切な場となっています。
 今回は、私が話題提供を担当した座談会の様子の一部を伝えたいと思います。

◎話題提供
 今回は「仏事について」と題して話題提供しました。
 湖南教化委員会では、「在家における仏事のあり方を考える」というテーマのもと、何度か研修会・懇談会が開催されてきました。その中で様々な問題が提起されてきましたが、その一つに、勤行における漢文の棒読みを考え直すべきではないか、という問題があります。この問題が提起されてきた背景として、以下の事柄が挙げられます。
・住職による読経の時、参詣者はただ座っているだけになり、法事への参加感が味わえない。
・漢文の棒読みでは、意味が分からない。
 以上のような現状の中、勤行における漢文の棒読みを考え直すべきではないかという問題が提起されてきました。そして、この問題に応えるべく、新たな実践をされている実例が紹介され、それらを参考にして、今後法要のあり方を変えていく必要があるのではないか、という課題が提起されています。このような動きの中で、従来の漢文の棒読みを改め、経典の書き下し文、あるいは現代語訳を用い、それを参詣者と共に拝読するという方法が注目されています。具体的には、阿弥陀経の書き下し文、無量寿経の現代語訳の一部等を参詣者と共に音読するという試みがなされています。
 この方法だと、共に拝読するという点において、確かに参詣者の参加意識というものは高まってくるでありましょう。しかしながら、書き下し文・現代語訳を読んだからといって意味が分かるとは限らない、という疑問も残ります。
 そこで私は、南学会の座談会での話題として、これまでも度々提起されてきた「仏事について」という大きな課題の中で、特に「漢文の棒読みを考え直す」という問題について意見を出し合おう、と提起しました。尚、私が念頭に置いているのは、主に在家での年忌法要の場での読経に関してです。
 まず私は自分の意見として、先にも書いたような、
・法要の中で経典の書き下し文・現代語訳を読んだからといって、その意味が分かるとは限らないのではないか。
という疑問を述べました。しかしながら現実問題として、門徒の方々から「お経に書いてあることの意味が知りたい」という願いが出ていることも事実です。そこで、問題点を整理して考える必要があるのではないかと考えました。そして、
・「経典の意味を理解する」ということと、「法要の場において、それを実現していく」ということは、別の問題として考えなければならないのではないか。
という意見を述べました。つまり、経典の意味を知りたいという願いを実現していくにしても、それを必ずしも法要儀式の中で行う必要は無いのではないか、ということです。
 以上の疑問点等を踏まえて、現時点での自分の意見として、
・法要において経典の書き下し文・現代語訳を用いることには賛成できない。(実際に実践されている方の行動に反対しているわけではない。しかし自分が実践するかどうかとなると、幾つかの疑問が残っている以上、賛成はできない)
という考えを述べました。
 さらに私は経典の書き下し文・現代語訳を使用するという方法に関して、
・法要のあり方を変えていく、とは言っても、書き下し文・現代語訳を使用するということは、基本的に「法要の場でお経を読む」という従来のスタイルがベースになっており、そこから抜け出せていない。そもそも年忌法要にお経(この場合三部経を指す)を読むことは必要なのか。現に葬式や報恩講ではお経は読まないではないか。
という意見を述べました。  以上の話題提供のもと、座談会が行われました。

◎座談会での意見
 「漢文の棒読みを考え直す」という問題については、
・書き下し文・現代語訳を使用することによって、意味は分からなくとも、漢文の棒読みよりは親しみやすいものとなる。住職による漢文の棒読みを聞いているだけでは「問い」すら起こってこないが、書き下し文・現代語訳を声を出して読むことを通して、「問い」が起こされてくることがあるのではないだろうか。そういう縁を開くという意味で、必要であると思う。
・短くていいから、漢文音読を残した方がいい。こういう形で伝わってきている、ということを大切にしたい。
・僧侶だけでなく、在家の門徒の方々の意見・考えも聞く必要がある。
等の意見が出されました。南学会の座談会として、一つの結論が出た訳ではありません。しかし一つの問題について、それぞれがどのようなことを考えているのか、意見交換をして、共に考えることができたのではないかと思います。
 「法要にお経は必要か」という問題については、
・北陸地方のある地域では、江戸時代には、法要でお経は使われていなかった。
という発言があり、「他の地域ではどうだったのか」「そもそもいつ頃から法要でお経が読まれるようになったのか」等の疑問が出されました。あまり踏み込んだ議論にはなりませんでしたが、今後継続して課題となっていくことでしょう。

 その他の発言として、以前の座談会で話題に上った「法要の式次第を最初に公開する」という試み(『湖南教化委員会報』第19号4頁参照)を実際に行ったところ、参詣者に非常に好評であったという会員からの報告がありました。この発言を受け、これは今後どんどん実践していくべきであろうという気運が高まりました。

◎おわりに
 以上、南学会例会での座談会の内容を一部記しました。座談会では一つの結論が出される訳ではありません。冒頭にも書いたように、会員が共に考え、学ぶ大切な場なのです。今回のテーマは、議論の時間の不足のため、充分な議論ができませんでしたが、今後も継続されていくことでしょう。これまでに出された課題、そして今後新たに提起されるであろう課題を、会員全員が大切にしていきたいと考えています。
(近江第3組 覺成寺)


【2001/09発行「湖南教化委員会報」21号より転載】






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