◇ コラム ◇

世は皆な無常なり
会うものは
必ず離るること有り

『遺教経』


 家族をはじめとする、ごく親しい者だけで葬式を勤める「家族葬」が増えてきているという。豪華な祭壇や過度な演出等、華美になっていく現代の葬式に対しての拒否反応の表れなのだろう。家族葬という形式を全否定することはできないが、葬儀を家族≠ニいう単位だけで済ませてしまうことに違和感を感じるのである。
 我々は一人で生きているのではない。更に家族という人間関係だけで生きているのではない。多くの人々との関わりのなかで生きている。そういう意味で、人間の死は公≠フはずである。関係のあった人が亡くなったとき、我々は故人の生涯に改めて手を合わせるために葬儀に参詣する。また、故人と関係のあった方々と出会い、そして語り合うことで、生前は出会うことのなかった故人に出会うこともある。
 親しい者だけで執行する家族葬は、死者と生者の出会いの場所としての葬儀を狭いものにしていないだろうか。生きている者が人間関係を煩わしく面倒に思う、その延長線上に葬儀を置いて、関係を絶って葬儀を済ませてしまうことは、関係存在としての人の死に対する冒涜ではないだろうか。
 葬式の最後、故人と近い関係にある喪主が、故人の生前の厚情に謝辞を述べ、生前にかけた有形無形の迷惑に慙愧する。この時、葬儀参詣者の心の中に去来する様々な思い。これを噛み締めることの大事さを思う。




 ◇ TrueLiving ◇

臓器移植法「改正」について
──谷大輔──
〜当院住職〜


 二〇〇九年六月十八日、衆議院本会議において「臓器移植法改正A案」が可決されました。「A案」の特徴は、年齢の制限なく脳死を一律に人の死とし、本人の意思表示を問わず、本人の拒否がない限り家族の同意で臓器を提供できるようにすることでした。
 改正法は、「脳死は人の死」とする考えが「おおむね社会的に受容されている」という認識のもと国会議論がなされたそうですが、我々は「脳死を人の死」と受容していますか?。しっかりとした議論のないまま、臓器移植を行いやすいように法が整備されていきます。生きている者の都合で、生きている者が、「死」を定義してよいのでしょうか。
 難病で苦しまれている多くの人の心情は思いを馳せねばなりません。それと同時に「脳死は人の死」と認めてしまうとは如何なることかを考える必要があります。長期脳死状態の人々、そして脳死でも生きていて欲しいと願う家族の思い。脳死から回復した人々。様々なことを念頭におき、真摯に脳死、臓器移植の問題を議論する必要があります。


【「臓器移植法改正」に関する動きについての宗務総長コメント】

 「臓器移植法」に関して、私たち真宗大谷派教団は、一九九七年に「「臓器移植」法案の衆議院可決に対する声明」において遺憾の意を表し、初めての「脳死臓器移植」(一九九九年)に際して、この問題が私たち一人ひとりに改めて生と死の意味を問いかけており、このことをとおして広く問題が論議され、「いのちの尊厳」と「生死」の豊かな意味が回復されることを願う旨、見解として示してまいりました。現在もこの姿勢・表明は異なるところではありません。
 「脳死」、「臓器移植」の問題は、基本的には、人が生まれ、生き、死んでいくことを、人間の考えで計ることができるという立場が問題となるものであります。そこには、人の死に「種類」があるかのような概念作りや、臓器を「部品」と見るような危うさをはらんでおります。
 元来「受けとめること」であった「死」ということを、私たちは傲慢にも、「決めるもの」、「決めることができるもの」と変化させてきました。
 親鸞聖人があきらかにされた仏教、浄土真宗は、すべての人が人間であり続ける道であり、そこには、悲しみ、いたみと共に在る、本当の救いというものが示されております。この教えによって、「脳死」、「臓器移植」という問題は他者の生と死の問題ではなく、私たち一人ひとりの生き様が問われる、実に「この私が人と生まれた」というところの問題であると深く知らされるものであります。
 このたびの「臓器移植法改正」をめぐる人知の闇の表出に対し、いよいよ、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」(清沢満之)という、人間存在の受けとめに立った論議が始まることを念じてやみません。

 二〇〇九年七月六日
真宗大谷派宗務総長 安原 晃




 ◇ 耳をすませば ◇

『絞死刑』
(監督:大島渚/制作:ATG/1968)

 裁判員制度が具体的に目の前にあるなかで、重大事件の裁判員に選ばれ、死刑という判決を下さねばならいこともあるのです(評決は多数決で決められます)。この現実のなかで否が応でも改めて「死刑」ということを考えねばならなりません。しかし死刑を問題にするとき、国家が定める制度として死刑を問題にするのではなく、まず死刑制度を下支えしている私たちの意識を問題にしなければならないと思います。
 我々の日常心は、自分が認識できるもの全てを、「自分の思いに適う善」「自分の思いに適わない悪」に分けて考えます。これは他者に対する評価も同じで、自分に都合に善い人を善人、都合の悪い人を悪人と分別します。これが「人を裁く」ことの根っ子なのです。不確かな善悪分別でしか生きていない自分を根拠にして、我々は犯罪者に「死刑」を宣告できるでしょうか。
 大島渚監督作品『絞死刑』は死刑制度を真正面から取り上げた映画です。この映画には民族と国家というテーマも含まれますが、死刑が大きなテーマです。






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