覺の会
講話録
京都教区伝道研修会法話実習
(2011/01/19)


【横田典師(京都・光圓寺)】
 私の祖母は親鸞聖人のことを「ご開山」と呼んでいました。山≠ヘ本山、本願寺を象徴しますから、本山・本願寺を開いてくださった方という意味です。しかし私はこの「ごかいさん」という呼び名を「ご開さん」といただいています。つまり、この私に仏道を開いてくださった親鸞聖人ということです。
 京都では何でも「お」という丁寧語をつけますね。そして愛称として「○○さん」という言い方をします。私の中では「ご開さん」としての親鸞さんは身近で、いつでも直ぐ側に居てくださるという認識が強いのです。
 一瞬一瞬の「今」を形作っていく、代々受け継がれてきたものというのが重要だと思います。親鸞さんが生きられて、生活され、亡くなられた。親鸞さんの精神を受け継いできてくださった人や物が、一瞬一瞬今の私に関わりをもってくださっているんだということを、ご縁のある方々と共にいただいていきたいと思います。(了)

【岡信行師(滋賀・法興寺)】
 私は二年前まで北海道の寺で働いていました。北海道の人は他所から来る人に温かい方が多かったですし、私自身親しくしていただきました。
 去年の末、北海道の寺で役員をされていた方が亡くなり、御香儀と手紙をお送りしました。その手紙に信國淳先生の「念仏のなかで再会を」という言葉を書きました。しばらくして、その息子さんから返信が来ました。そこには「葬儀のとき念仏を称えていると父親の声が聞こえてくるようでした」と書かれていました。
 その息子さんは、亡くなった人を通して仏様を感じられたのでしょう。我々は亡くなった方のことを、あれこれと心配します。そうではなくて、この息子さんは、亡くなった方から声をかけられている、心配されている自分に出会われたのだと思います。
 我々は、仏様、亡くなった方、もっと言うとこれから生まれてくる人の願いに抱かれている身を生きているのだと、改めて感じさせられました。(了)

【井上顕師(滋賀・信行寺)】
 私は若い頃から寺を出たいと思い、高校を出てから寺を出ました。今も寺には居ますが、別の仕事をして、定例法要以外は寺と関わることをしていません。
 私の住んでいる町では、正月は全ての御門徒が町にある全ての寺に参られます。今までは、御門徒が寺参りをされることを何とも思いませんでした。しかしこういった伝道研修会に参加して、それが素晴らしいことだと感じられるようになりました。仏教というものを自分の中に感じて、少しでも御門徒と喜び合えるようにしてきたいと思っています。
 仏教を学んできたなかで印象的な言葉があります。「自分が思う生きるという意味より、もっと深い南無阿弥陀仏という意味がある」。それまで、自分中心に好き嫌いを分別し生活してきましたし、その自分中心の物差しが通用しないこともありました。自分の物差しで、こう生きなければならないと考え、思い通りにならないことで苦しんでいましたが、生きているということは、自分の思い、物差しよりも深い意味があると教えられ、嬉しかったです。(了)




Mobile良覚寺
Mobile無上尊
Web良覚寺