◇ 御伝鈔が死んでいる ◇

【読んでるだけの御伝鈔】
 近所の大谷派のある住職曰わく、「御伝鈔が死んでいる」。
 寺院報恩講の初夜(しょや/夜のお勤め)に『御伝鈔(ごでんしょう)』というものを読み、報恩講中『御絵伝(ごえでん)』というものを荘厳する。しかし、それが何なのか、何が書かれているのか、参詣者は誰も知らない。
 「仏事あれこれ/報恩講/報恩講で何をする」にも書きましたが、『御伝鈔』は親鸞(しんらん)聖人の生涯を讃嘆するために覚如(かくにょ)上人が書かれたもの。『御絵伝』は画で親鸞聖人の生涯を讃嘆したもの。でも現状は読んでるだけ、吊ってるだけ。それが本当に親鸞聖人の生涯を讃嘆することにつながっていないわけです。
 『御伝鈔』をゆっくりと読む、丁寧に読む、厳かに読む。このことで親鸞聖人の生涯を大事に頂こうということを表現してきたわけですが、辛抱のきかない現代人(年寄りも含む)には、何分も黙って聴いているだけというのはきついだけかもしれませんね。。

【とりあえず良覚寺の報恩講では…】
 本山の報恩講で初めて『御伝鈔』を聞いた時、そのあまりの時間の長さに辟易(問題あるなあ)したことを覚えています。『御伝鈔』は三字下といって、ゆ〜っくり読むんですよ。この読み方だと『御伝鈔』は上巻・下巻があって、一巻読むのに1時間以上かかります。今の人にこれを聞いておれというのは無理な話だよね。
 良覚寺の住職はこの『御伝鈔』を一年毎に上下巻を別々に読んでます。しかも物凄いスピードで。三字下なんかとんでもない、「御文」より早いかも。
 そして、『御伝鈔』を冊子にして参詣者に配ります。文字を大きくしてルビをふり、画像をたくさん入れて読みやすくし、文字を追うことで聞きやすいのでは…と思って。いちおうこの冊子は毎年更新し、参詣者に持って帰っていただけるようにしています。
 『御絵伝』と『御伝鈔』はリンクしていますから、ほんとは、『御絵伝』をスライドかビデオにして、拝読している『御伝鈔』に合わせて、参詣者に見てもらうのがいいんでしょうね。でも、そこまではやってません。
 さらに考えていることは『御伝鈔』を抜粋してしまえばいいのかなあと思ってます。最終的には現代語訳を読むのが一番よいのかも。大部なものなので現代語訳は難しいだろうし、拝読に堪える美しい現代語訳なんて、今の私には無理。もうちょっと時間をください。


【絵解の復活】
 大谷大学教授国文学の教授・沙加戸弘(さかど・ひろむ)先生は、何年も前から『御絵伝』の「絵解(えとき)」をされています。
 上記のように本願寺第3第御門首(留守職)の覚如(かくにょ)上人が親鸞聖人の生涯を絵巻物として書かれた。それが『本願寺聖人親鸞伝絵』です。絵巻物ですから「絵」と「伝文」が交互に書かれてある。それを絵と伝文に分けた。その絵を『御絵伝』、伝文を『御伝鈔』というわけです。
 『御絵伝』が一般寺院にも流布するにつれ、この絵の説明のため「札名(さつめい)」というものが生まれました。絵に短冊のようなものを作り込んで、場面の説明を書くものです。室町時代〜江戸初期には札名が盛んだったのですが、江戸初期以降からみられなくなります。これは札名を必要としない何かが生まれたからですね。
 まず、江戸初期に「絵説」というものが生まれました。絵説は名の通り、「絵に描かれている場面を説明する」こと。これは単なる場面説明です。この絵説が次第に口説者の主観というか、頂いている教えを通して解釈したものを交えた説明になってきた。これが「御絵解」「御絵指」です。
 つまり「御絵解」とは、『御絵伝』に書かれている絵を真宗の教義と結びつけて受け取り解釈するものです。繰り返しますが、単なる絵の場面説明ではありません。
 明治初期までこの「御絵解」は非常に盛んだったそうですが、その内容があまりにも俗っぽくなったので、大谷派では「絵解禁止令」が出ました。これは未だに取り消されてないそうですがね。
 沙加戸弘師制作の「絵解台本」をもとに、良覺寺では2007年報恩講から「御絵解」を始めました。参詣の方々には概ね好評です。『御絵伝』はただ吊っていただけ、『御伝鈔』は高尚すぎて意味が分からん。報恩講初夜は我慢大会だと思っていたら、親鸞聖人の生涯ってそうだったのか!という感想を持って頂いたようです。




◇ 信仰告白の場として ◇

【改悔批判】

 蓮如(れんにょ)上人当時、本山報恩講の時に、親鸞(しんらん)聖人・御真影(ごしんねい/御木像)に御前で、宗祖に向かって信仰告白をすることが行われていました。
 これが「改悔(がいけ)批判」です。
 しかし、告白の内容が長すぎたり、猥雑になっちゃったんで一定の形式に定められてしまいます。それが『改悔文』です(作は蓮如上人と伝えられる)。
『改悔文』
もろもろの雑行(ぞうぎょう)・雑修(ざっしゅう)、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生(ごしょう)御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定(いちじょう)・御たすけ治定(じじょう)とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山(ごかいさん)聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化(ごかんけ)の御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりもうすべく候う。
 一定の型にはまっちゃうと、あんまし面白くないんですけど、「改悔批判」の原点である信仰告白≠チていうのは面白いことだと思います。


【信仰告白=私≠表現する】

 これは私(=住職)のイメージなんですけど信仰告白≠チていうと、堅苦しい教義を言わなきゃならないとか、やたらめったら親鸞聖人とか御本尊とか教えを褒めなきゃならないとか、自分の悪いことを殊更に発表する、、、という受け取りがあります。
 キリスト教でいう信仰告白とは洗礼を受けるにあたり、信仰を表すことらしいですね。
 浄土真宗で信仰告白とは「私がどのように教えを聞いているのか」を言葉を飾らずに言うことだったんでじゃないかなあ。
 真宗門徒(もんと)にとって年に一度の「報恩講」は、親鸞聖人の教えや生涯を改めて聞き直し、その教えを通して私≠ヘどのような生き方をしているのか──自我を中心に欲望のまま生き、他を傷つけ、いのちを傷つけてはいないか──を教えに聞くという意味をもっていたのでしょう?。だから、浄土真宗の信仰告白は、そのまま私≠ェどのような生き方をしているのか、また教えによってその生き方がどのように問われたのかを表現することなのでしょうね。
 これは面白いです。っていうか大事です。「改悔批判」を良覚寺でも復活したいんですけど、やるんなら門徒さん一人を選んで、信仰告白≠オて頂きたいですよね。




◇ いろいろな可能性 ◇








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