【おかしいと思いませんか?】
 私(住職)は、このHPの色んなところに書いているように、寺院出身者ではありません。職人と公務員の子です。だから寺院出身者の方の当たり前≠ェ当たり前じゃないんです。
 特に「仏事」に関してこっち側≠ノ座ってますがそっち側≠フ気持ちがよく分かるわけです。
 私の実家の菩提寺(真宗では「手次(てつぎ)寺」といいますが)は禅宗でした。子どもの頃から坊さんが家に来るのがイヤでイヤで…。特に年忌法要など1時間以上、正座して、訳の分からない唸り声を我慢して聞いてなくちゃいけない。20歳くらいになると、親から「年忌やから帰ってこい」と言われても、わざわざ仕事や予定を入れて帰らなかったほどですから。
 私の実父や実母は「仏事は我慢するもの。お経は分からないもの。それが当然」だと今だに思ってます。
 このHPの「仏事あれこれ」のどのコンテンツでもいい。ちょっと見てみてください。「仏事は仏法を聴聞する場である。勤行は仏法を聴聞する行為である」と書かれてあるはず。
 意味の分からないお経を聞いて仏法を聞くことになるの?。仏法を聞くことは我慢しなくちゃいけないほど辛いことなの?
 おかしいと思いませんか?




【形≠変えたっていい!】
 「願いと意味をもって形は作り出された。しかし、その形の意味を問わなくなった時、それは因習になる」。これは「仏事あれこれ」のTOPにも引いた渡邊晃純師の言葉です。だから繰り返しになりますが、これの「形」という言葉を「仏事」と置き換えて読むことができます。
 仏事という形が生み出された願いと意味を本当に問い、現在ある形が本来の意味からかけ離れているとなれば、その形を変えたっていいのです。
 はっきり言えば、新しいものを作り出すより昔からある仏事の型をこなす方が楽です。仏事参詣者から「この仏事はおかしいのでは?」と問われても、「昔からこう決まっとるんや」で済むし。御門徒(もんと)が清め塩を「昔からしているから」と言えば「本来の葬儀の意味を問え」などと言うくせに、僧侶は仏事のこととなると因習の体現者になるんですね。
 もしこれを読んで、前から抱いていた仏事に対する疑問があるなら、どんどん声を挙げてください。このHPの「掲示板」でもいいし、「メール」でもいいし、直接住職に言っていただいてもいい。各々手次寺の住職さんに言っていただいてもいい。すでに挙がっている声を坊さんが聞かないだけってこともありますがね。
 繰り返します。仏事という形が生み出された願いと意味を本当に問い、現在ある形が本来の意味からかけ離れているとなれば、その形を変えたっていいのです。




【手次寺≠フ住職って言うことの恥ずかしさ】
 浄土真宗では「菩提寺」とか「願い寺」とか「檀家寺」と言わずに、「手次寺(てつぎでら)」といいます。これは仏法・教えを縁ある人に手次ぎする寺という意味です。
 「寺に人が来なくなった」と嘆かれる住職は多いですね。でも、様々な仏事を通して、私ら僧侶は年間何千人の人と出会っているでしょう?。その仏事の場が苦痛でしかない、訳が分からなかったという印象しか与えていないのが現状ですよ。その仏法・教えを手次ぎするチャンスを逃しておいて、「私は手次寺≠フ住職です」って言えますか?。私(良覚寺の住職)は恥ずかしくて言えません。
 法話だけじゃダメなんです。仏事そのものが、教えを聞き、教えを通して自らのすがたが照らされ、世間の中で立ち上がっていく勇気を与える場でないと。

 このコンテンツは私の仏事に対する微力な取り組みと、これからの方向性を模索するコンテンツです。 ご意見、ご批判、疑問、アドバイス等ありましたらお寄せください。




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