【1匹と99匹】

 100匹の羊を飼っている人がいます。その中に1匹がいなくなってしまいました。もしあなたが羊飼いならばどうするでしょうか?。
 99匹を野原に残して1匹を探しますか?。
 「99匹もいるのだから1匹くらいいいだろう」って1匹を放っておきますか?。
 さて、どうしますか?。
(2003/2/15up)




 これは『新約聖書』のルカの福音書(15:1-10)に書かれた、あまりにも有名な喩え話です。新約なんでイエスの言葉なんですが、イエスはどうするべきなのか示唆を与えてくださるんだけど、自分ならどうするのか、現実にどうなっているのか考えてみてくださいな。
 例えば円満な家族≠ニいうものがある。外から見ていたら全く問題ないのだけれど、実はその家族の一人が物凄く我慢しなければならない状況だった、とか。
 学校なんかで、クラスに一人問題児がいた。その子さえいなければ、そのクラスはまとまった優等生のクラスになる。さてどうする、という問題。
 世界中から嫌われている国がある。何だか大量虐殺兵器を所有しているらしい。そんな国は危ないから戦争して潰してしまえばいいか、ということ。
 さて、どういうふうに考えたらいいんでしょう?。

(2003/2/15up)


「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)
 私が一年間行っておりました、真宗大谷派の坊さんの学校の食堂の入り口に暖簾がありまして、その暖簾にこの言葉が書いてありました。つまりですね、毎日この宮沢賢治の言葉を見ることになるんです。
 な〜にを夢みたいなことを...と思われる方があるかもね。実際私もその学校に行っている頃は、そう思ってましたし。夢みたいだと思う人は、宮沢賢治の言葉を実現が可能か・不可能か、できるか・できないかという視点でしか考えてないんです(私がそうでしたから)。これは厳しい世間の中で生きたことがある人なら誰しも思うこと。競争社会です。こっちが勝てば、あっちが負ける。全員が円満にいく道なんて見えないですよね。
 でもね、坊さんになって何年か経って思うことは、この言葉をできる・できないで判断するのは間違いだということなんです。それじゃあ、どう考えればいいのか。それは「真なのか・真ではないのか」なんでしょうね。
  私さえ幸福ならいい、私のフィールドに中にいる人だけ幸福ならいい。これが真なのか?
  世界全体が幸福にならねばならない。これが真なのか?
どうですかね。多くの人が宮沢賢治の言葉が表す世界が「真」だと思われるんじゃないですか?。これを本当の真だと頷けたら、その後に「でも・・・」とか「と言っても・・・」という言葉はいらんのじゃないですかね。こういう世界が真だと頷けたら、そうなっていない世間とか私自身の有り様が「虚偽」なんじゃないですかね。
 真だと本当に頷いて、世間や自分の虚偽が知らされたなら、そこから具体的にどういう行動に出るのか決まってくるようにも思えます。

(2003/2/19up)


 何ちゅうか、私たちは自分を善人≠セと思い込む習性があるようです。善人というと分かり難いけど正しい者、間違いのない者≠ニいうかね。
 私たちは人と人との関係の中を生きているんだけれども、その人間関係も「私は絶対に正しい人間との関わり方をしている」と思い込んじゃうわけ。「世界全体が幸福になる」ということを聞いて、それが「本当だ」と頷けたなら、自分がそういう生き方をしているような勘違いをするんです。 ところがです。現実の私の人間関係は、自分の本音というか、本性をいつでも教えてくれますよ。
おかあさんは、にこにこ笑うて、ぼくのオムツをかえてくれはる
ケンちゃんのオムツは、こわい顔してかえてはる
ぼく三か月
ケンちゃん八十五歳と三か月
どっちも寝たきりやねん
掲示板伝道の言葉を集めた本に書いてあったんですけど、ものすごくよく分かりますよね?。分かるってことは、この「おかあさん」と同じ体質が私≠フ中にあるんです。人を、えらび、きらい、みすてるような。
 「世界全体が幸福になる」ということが頷けたとしても、身近な人との関係の中でさえ、それが実現しない私というものがある。逆に言えば、「世界全体が幸福になる」ということが真だと頷けた心が、平生の自分の人との関わり方の質を問うているとも言えます。

(2003/6/28up)


 うちの本山である東本願寺(真宗本廟)に同朋会館という建物があります。全国の御門徒が寝食を共にし、親鸞(しんらん)聖人の教えを学ぶために建てられた建物なんですね。ここの大きな食堂に面白い掲示板伝道があります。
 大きな模造紙に「愛の反対は何ですか?」と書いてある。そして答≠フ部分が隠してあるんです。こういう仕掛けがあると、ホントに少しでも頭を使って考えますね。
 さてさて、皆さんはどう思いますか?。愛の反対って何でしょうかね?。
 まず出てきそうなのが「憎しみ」、さらには「怒り」、「欲望」もあたるかも。具体的なこととして、「戦争」「差別」とか。「自我」なんてことも考えます。
 同朋会館のこの掲示板には、愛の反対は「無関心」だと書いてありました。
 実はこの言葉を言われたのはマザー・テレサ師です。師はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。知らない人はいないかもしれませんね。そのマザー・テレサ師に「愛の反対は何ですか?」と尋ねる人があったそうです。その質問に応えるかたちで、師はこう言われます。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」と。そして「憎しみは愛に変わる可能性があるけれど、無関心は愛には絶対ならない。愛の反対語は無関心≠ナす」 と言葉を続けられました。
 「愛の反対は無関心」。印象深いし、考えてみる必要のある言葉ですね。【続】

(2005/10/29up)



【分別(ふんべつ)】

 「分別(ふんべつ)」という言葉を『広辞苑』なんかで調べると、「わきまえるきと。わきまえ。思慮」なんて出てきます。ものが分かった人、思慮深く判断力に優れた人のことを「分別のある人」と言ったりするし。またまた「無分別」とは、前後の考えなく思慮が浅い、という意味に使われますよね。
 仏様って分別のある人?、無分別な人?。
 答は「仏様は無分別な人」なんです。
 「分別(ふんべつ)」とは、もともと仏教の言葉。単刀直入に言って「何でも分けてしまう心」のことをいいます。自分の価値基準=物差しで、自分の見たもの聞いたものを「善・悪」に分けちゃうんですね。
 ボクの知り合いのお坊さんから聞いた話です。そのお坊さんは寺の住職さんで、ご門徒(もんと)さんから「御院主さんは顔が広いから、うちの娘に婿を紹介してくれませんか?」とお願いされたんですよ。良覚寺と同じですね。そのお坊さんは方々尋ねて、この人なら間違いない、という人の履歴書と顔写真を、そのご門徒の家に持って行かれました。
 三日ほどして、そのご門徒から電話が。「この縁談はお断りします」。人格的に素晴らしい青年をさがしたはずなのに、、、ましてや、まだ会ってもいないし。。。お坊さんは理由が分からないので、訪ねます。しかしご門徒は口ごもって何も言いません。「先方に断るにしても説明責任があるから、理由を教えなさい」と言うと、こう言われました「この大学出身では、私の娘には釣り合わないのでは…」。そのお坊さんは「あなたの娘さんは人ではなく大学と結婚されるようなので、この縁談はこっちからお断りします」と言われました。その青年の出身大学はボクと同じ○谷大学なんですけどね・・・。
 こういうのを「分別」といいます。学歴≠ニいう物差しで人を計る。世間的に名の通った大学出身なら善=A京都の何だか聞いたことのない仏教系の大学出身なら悪≠ニ。
 この「分別=価値基準=物差し」は、人間なら誰しも持っているし、人間一人ひとり違います。この欄では、「分別」についてい考えてみますね。

(2004/9/29up)


 仏教はボクらの営みは苦しみに溢れていると説きます。その苦≠フ中の「怨憎会苦(おんぞうえく)」というものは、実生活の中で結構リアルに感じられる苦≠セと思います。
 「怨憎会苦」、つまり、怨みを抱く者、憎い者と会わねばならない苦しみ。。。人間というものは社会的動物ですよね。必ず人と人との関係の中で生活していくわけです。その関係の中で、会わなければならない他者というものは、好意を持てる人もいる。けれど、同じ数だけ「会いたくないなあ」「こいつ嫌いやなあ」、、、もっと言えば「こいつ、オレの前からおらへんかったらええのに」、「死んでしもたら・・・」という人がいる。自分の中でこの二種類のタイプの人間いて、後者がどうも気に入らんとうことが、どうも世の中を生き苦しくしていいるわけです。
 達観した仏者なら「憎たらしい相手を受け容れろ」とか言うでしょう。人生相談の人なら「相手の良い部分を見るように」とか言うでしょう。こういう言葉、リアリティがない気がします。そうんなふうになれたら苦労しないって。
 そんなふうに考えられない自分が、いま、ここにいる。。。というから、ものを考えるのが浄土真宗というものだのだろうと思います。何ちゅうか、人間関係を円滑にする解決策を提示することが浄土真宗の教えではない。相手の良い部分を発見できず、相手を受け容れることができない、この自分自身を深くたずねていくからはじまる生き方がある。。。(続く)

(2006/2/28up)


 2005年、NHK教育テレビの『こころの時代』に安積力也氏が出演されていました。現在安積氏は恵泉女子学園中・高等学校校長ですが、その前は日本聾話学校で校長を務められました。「聾唖(ろうあ)」ではなく「聾話(ろうわ)」です。この言葉の中に聴覚障害者は話せないという概念を捨て、ほんの少しでも残っている聞く可能性を追求し、最終的には音声で言語を話せるまで育てようとする「聾話学校」の願いが込められているそうです。
 もちろん聴覚障害のある子どもが音声を認識することは、補聴器等の技術面を含めて非常に難しく時間のかかることです。しかし、それにもまして困難なことは、自分の産んだ赤ん坊が難聴であることを母親に理解させることなのだそうです。自分が産んだ赤ん坊は可愛い。しかし次第に子どもが難聴であることが分かってくる。自分の子どもと言語による関わりができないと分かってしまったとき、母子関係が崩壊するケースが多いそうです。具体的には自分の子どもが「可愛くなくなる」のです。この日本聾話学校のスタッフは長い長い時間をかけて、あせらずに母親と赤ん坊の関係を結んでいきます。
 数年前、聾話学校から普通学校に赴任された安積氏が現在子育てをしている親たち──つまり私たちに最も欠けていることは、「待つことができない」ということだと指摘されます。「待つ」を教師としての課題とされてきた安積氏の目から見れば、今の親世代(私たちの世代)は子どもに対して早急に答を求めすぎている。躾や学力の向上に直ぐに結果を求めてしまうということもある。それ以上に問題なことは、人間としての成長や成熟を待てないと言われるのです。
 高度経済成長の中で生まれ成長してきた私たちは能率主義やスピード優先主義が骨の髄まで染み込んでいるのでしょう。交通機関も通信手段も世の中の万事に関して時間が短縮され、無駄が省かれていく。このことがより良い社会を作っているのだ。逆に言えば、遅いこと、無駄なことは駄目なことである。血肉となったこの価値観をもって我が子と接している。だから待てない。直ぐに子どもに答や結果を求めてしまうのです。
 また、違う視点で「待てない」ということをみれば、私たち親が「子どもはこうあるべき」という答を持ってしまってることも問題なのでしょう。私たち大人が考える「こうあるべき人間」もしくは「こうあって欲しい人間」に子どもを近づけようとする。その人間は大人≠ナす。つまり、子どもは未熟で未完成な大人であることが前提で子どもと接しているわけです。そこに抜け落ちている視点は、「子どもは子どもの今を生きている」ということなのでしょう。子どもの今≠ヘ親の考える子どもの未来≠フためにあるのではないのです。
 私たちには、子どもが抱えている課題は無条件に小さな問題だと思い込んでいるのかもしれません。「そんな小さな問題は早く解決しないさい、あなたにはもっと重要な問題があるのだから」というところでしか子どもと接していないのです。
 「子どもは親を映す鏡である」という言い方には、また子どもの主体性が見えていない大人の傲慢さを感じます。子どもとの関わり方そのものが、大人の今を映す鏡なのです。

(2006/3/30up)


 浄土宗の元祖・法然(ほうねん)上人は親鸞(しんらん)聖人の師匠にあたるかたです。この法然上人が「念佛往生の道」について「不軽大士のごとく」と語れています。
 「不軽大士」を正確に「常不軽(じょうふぎょう)菩薩」といいます。この菩薩様は、全ての人々に「あなたは仏に成るべき尊い方です」と合掌礼拝されたそうです。時に、その行為を薄気味悪く思うものがあって、常不軽を棒で打ち、石を投げる者もいた。そんなとき、常不軽は自分に危害を加える人から少し離れたところから、その人を合掌し「あなたは仏に成るべき尊い方です」と繰り返したそうです。
 常不軽菩薩は何が真の人との関わり方なのかを教える菩薩。人と関わるとき、「まず尊敬からはじまるのだ」と教える菩薩。どんな人とも、自分に危害を加える人とも、尊敬という視点を忘れず関わる。
 常不軽菩薩のように生きられるかどうか、これが問題ではありません。常不軽菩薩の生き方こそが本当であると頷けるかどうか、これが問題なのです。常不軽の生き方が本当だと頷けた心は、本当の生き方をしていない自分を教えてくれる。まず分別心で人を善悪とわけ、悪人に対して軽蔑の目で人間関係を始める自分を教えてくれるのでしょう。

僧はただ何もいらず常不軽菩薩の行ぞ尊かりける
良寛

(2007/12/1up)



【関係】

 いつの頃からか、こういう言葉をよく見かけるようになりました。
 色紙に書いたこの言葉が、玄関先とか仏間とかトイレとかに飾られている。何故か茶碗とかに書いてある。手拭いにも書いてある。
 この言葉って何?。どこのだれが考えた言葉?。だれが広めた言葉なんですか?。知ってる人は教えてください(マジで)。
 この言葉っていうのは「日常の五心」ってやつ。
 まず何が気になるかって、何で「いいえ」という心が素直≠カゃないんでしょう?。「いいえ」だって充分素直な心ですよね。
 会社勤めなんかしてると理不尽なことがたくさんあります。上≠ゥらの命令や指示が納得いかないというやつ。それが会社の損得だけの問題だと別にいいけど(?)、もっと深刻な問題もありますよね。
 例えば、この商品には重大な欠陥がある。これを使うことで消費者が病気になるかもしれない。もっというと死に至るかもしれない。それはよく分かる。それでも上≠ヘ会社の利潤を上げるために「売れ」と言う。こういう時、本当に素直な心≠チていうのは「いいえ!」じゃないですかね。
 薬害エイズ、薬害ヤコブ病、森永ヒ素ミルク、水俣病・・・企業の利益優先、安全は後回し的な発想が人を殺した事件です。現場の人は会社の方向性に危機感を持っていたと言われてますよね。でも素直≠ノ「いいえ」が言えなかった。
 こんなこともありますよね。上官から「敵(人)を殺せ」と言われて素直≠ノ「いいえ」が言えなかった。
 この「日常の五心」って、ちょっとアブナクないですか?。

(2003/5/20up)


 この「日常の五心」はね上から下にものを言っている≠謔、な雰囲気をムチャクチャ感じます。つまり「上下関係」「縦の関係」ですね。
 どんな組織でも共同体でも、それを維持する一番いい方法は、属する者が組織・共同体に絶対服従して、感謝して、奉仕して・・・つまり個というものが全く無視されればいいんでしょうね。この「日常の五心」には、そういう感じが漂ってるんだけど。
 スタンリー・キューブリックが撮った『フルメタル・ジャケット』という映画があります。ベトナム戦争の映画ですが、米軍が兵士を洗脳して人間を兵器≠ノ変えていく、、、という内容です。戦争という状況で、個が国のための戦争に疑問を持つと、軍そのもののが崩壊しちゃいますよね。そういうことないように個を洗脳しちゃうんです。今もどっかの国でありそうなことだし、日本もこういうことがあったような・・・またこうなる雰囲気があるような、ないような。
 「日常の五心」は非常に綺麗な言葉の連続です。ただその綺麗さの中に漂うアブナサを感じます。滅私奉公、日本では美徳だとされてきた言葉。悪くはない言葉かも。でもそれは「公」が間違っていたり、明かに義に反するものだった場合、「私」を滅しても「NO!」を言うというふうにも読めるから。

(2003/9/29up)


 クリスマスです。日本のクリスマスは信仰を動機としてお祝いするんじゃないですね。では何でお祝いするんでしょうか?。たぶん、家族や恋人、友達などといった、人と人との絆を確かめる機会としてクリスマスがあるんでしょう。しかしその方法として、プレゼントや豪華な料理といったモノを介在させるしか術を知らないのが現状なのでは。
 人と繋がっていたいという要求を持つだけれど、平生の人間関係に自信がなく、本当のところ自分は孤立しているかもしれないという不安を抱えている。クリスマスで、その人間関係にモノを介在させることによって、自分は独りではなかったのだと自身を納得させている。そして次の日から、また不安な人間関係に戻る・・・。
 モノで人間関係を取り繕うんじゃなくて、自分だけが可愛い≠ニいうところでしか他人の関係できていない自分自身を問う機会がクリスマスであって欲しいですね。親しい人にモノをあげて、豪華な食事して、はい、終わり・・・じゃあ、イエスも怒るって。


(2003/11/29up)


 ちょっと怖い話。
 東京のマンションで独り暮らしをしてる若い男がいました。ある夜、酔っぱらってマンションに帰った時、コートを着た一人の男とすれ違います。夜中に変だなあ、と思ってその男をよく見てみると、コートの端に血が付いてたそうです。「まあ、いいか。気にしないでおこう」とその人は寝てしまいました。
 数日して、その人が部屋に居た時、インターフォンが鳴りました。「誰ですか?」と尋ねると「刑事です」と。その人は玄関まで行って話を聞きます。「数日前、このマンションで若い女性が殺されました。不審者を見ませんでしたか?」。あ、あの時の男かも…。その人は、そう考えましたけど、面倒に巻き込まれるのはイヤだなあ、という思いが浮かびます。「いえ、見てません」。刑事は「そうですか」と帰っていきました。
 また数日経ってテレビを観ていると、そのマンションで起こった殺人事件が報道されています。「東京都のマンションで若い女性が殺されました。その犯人が捕まった模様です」。その人はその犯人の写真を見て愕然となりました。その犯人は、刑事を名乗ってマンションに訪ねてきた男だったのです。
 つまり、犯人が刑事を装って目撃者を殺しに来たという話なんですね。もし、「私は犯人を見ました」と言っていたら・・・。

(2004/1/31up)


「僕がそばにいるよ、君を笑わせるから」
何か耳について離れないんですけど、、、これは川口恭吾さんの『桜』の歌い出しです。
 去年ものすごく辛い思いをした人に出会いました。衣を着ているというヘンな責任感で、その人を救いたい、なんて考えたりしました。でもムリ。何か無力感を抱えながら、ボーっとしていた時期がありましたよ。
 そんなことを、ある先輩のお坊さんに喋ってたら、「お前はこれまで何を聞いてきたのか。おこがましいヤツだ。人が人を救うことなんてできん。そばにいて話を聞くだけでええんや」という趣旨のことをおっしゃったんですね(もっと丁寧な言葉でしたが…)。
 その人には何も言ってませんけど、教えられたなあ、、、と思いました。ほんとに辛い思いされた人、苦しんでおられる人を目の当たりにすると、何とか…と思う情を誰だって持っている。だから救おうと右往左往する。でも相手が自分の思い通りに救われてなかったら、無力感を感じる…親鸞(しんらん)は人が人を救うことの無力をご自分の経験を通して、繰り返し繰り返し言葉にされてます。言葉だけで全然聞いてなかったよなあ。
 そのお坊さんは「そばにいて話を聞いただけで、充分意味があったはずや」と(もっと丁寧な言葉で)言われました。
 他者を救う自分の能力とか才能を云々するんじゃなくて、ただそばにいる≠ニいう愛情の表現。本当の優しさってこういうところにあるのかも。。。

(2004/3/16up)


 幼い娘が全力で私のところに駆けてくる。頭で考えるより先に体が彼女を受け止めようとする。胸に飛び込んでくる娘と受け止めた私。この時に感じる温かい心・・・。  娘が走ることができるようになった頃の、この何気ない出来事を今も鮮明に覚えています。父親は必ず受け止めてくれると信じているから娘は全力で父親のもとへ走ってくることができるのです。ところが、大人は全力で人に向かって走ることはできません。  そこに必ず入る躊躇。他人は自分を体で受け止めてくれることはないと知っているから、躊躇がうまれる。この躊躇は自分の心の裏返し。この躊躇の奥にある心は、娘が成長するにつれて、娘との関係にも表れます。時代社会の価値観という物差しで娘を計る私に、彼女は全力で走ってきてくれるでしょうか。  今年二月に、「着床前診断」を、日本産婦人科学会に無断で行った大谷産婦人科のことが報道されました。着床前診断とは体外受精した卵子の細胞を診断することで、受胎した赤ん坊に障害があるかどうかを調べる検査です。大谷医師は「障害者を手助けする社会は必要だが、母親が障害者を産まないと決意した場合、自己決定権がある」(京都新聞/傍点筆者)と語ります。
 ここで問題になったのは「無断で」という部分であって、一九九八年に学会は着床前診断を「重い遺伝病」に限って実施を認めています。そして今年七月に学会は、「重い遺伝病」について「成人に達する以前に日常生活を強く損なう症状が出たり、生存が危ぶまれたりする状態」と初めて定義しました。既に着床前診断の是非ではなく、生まれてよい命、生まれてくるべきでない命の線引き≠ェ議論されているわけです。
 受胎した我が子を殺してもいいという「自己決定権」が親に与えられ、その線引きは学会のお墨付きで認められる。こういう時代に親として生きていることに恐怖を感じます。それは、「自己決定権」という引き金に私の指がかかっていて、時と場合によっては簡単に引き金を引いてしまいそうな恐怖です。


 分別という引き金に指をかけ、銃口を娘に向ける私に、全力で飛び込んできてくれた彼女。銃を持っていることを忘れ、全身で彼女を受け止めた私。この時、感じる温かい心。私たちは、心の深いところで、価値観を必要とせず、理屈を超えて存在を認め合えることの温かさを知っているのです。
 ほんの一瞬の消えてしまいそうな温かさが、引き金に手をかけた私の心に傷(いた)みを感じさせてくれる。やわらかだけれどもこの傷みが、分別に開き直きれないでいる私の心を、揺らしてくれているのかもしれません。
 しかし厄介なことに、自分を傷みをもつ善き者、正しい者と思い込んだ時、私は、他の者を「傷みをもたない者」として裁く者となります。達観したかのように、いのちを分別する時代社会を嘆く素振りをしても、自らの分別心で時代社会を計っているだけ。分別という引き金に手をかけた銃口が、今度は時代社会や時代社会を象徴する事象に向いただけです。
 捨てたと思っていた銃がまた手の中にある底なし沼の中で、硝煙の臭いの中でたたずむ私。

(2004/8/29up)


『蟇佛(がまほとけ)』〜花岡大学氏著〜「根本説一切有部毘奈耶薬事」より

 山がそびえていた。その山のふもとに草原があり、川が流れていた。草原は牧場になっていた。その草原の草かげに、いっぴきのでっかい蟇(がま)が、岩のようにうずくまっていた。
 よく見ると、ぞっとするような、醜いからだつきをしている。からだ全体が、ぶ厚そうな、でこぼこの皮で覆われて、大きな口も、その上にギョロっと突き出た目、それにもまして、なんとも不気味なのは、背中一面に、灰色の小さなイボが、かさぶたのようについている事だ。
 人間に見つかって、死にかかるほど、ひどい目にあわされることが、何べんかあった。とくに、蟇は牧場を歩き回っている、山賊のような牛飼いの男を、恐れ憎んでいた。
 気が荒く、意地悪で、何をしでかすかわからない。人間の中でも、人間扱いを受けていないような、恐ろしい男らしい。その男に見つからないように、蟇は、できるだけ、しげった草のむら深くに身をひそめながら暮らしてい。
 しかし今は、その男に対しても、少しも恨み心を抱いていなかった。草かげに身を隠し、お釈迦さまのお話を聞かせてもらったからだ。何べんも聞かせてもらっている内に、いつのまにかそうなったのである。そうなったことを蟇はなによりの幸せだと喜んでいた。
 まぶたを閉じ、じっとうずくまっていた蟇は、まぶたを開けて、ぎろっと目を光らせると、短い前足をつっぱって、からだを起こし、ごそっごそっと、はいはじめた。いつもの時間に、なったからであった。
 その時間になると、いつもお釈迦さまはアナンを連れて、川のほとりの道をお通りになるのだった。そして、これも決まったように、そこに、だれかがお釈迦さまの来るのを待ち受けていて、仏さまのお話をお願いするのだった。蟇は急いだ。
 だが、ごそっごそっとした、のろまな足では、なかなか思うように進めなかった。ありったけの力を出して、蟇は一生懸命にはい続けた。
 すでに、お釈迦さまは、アナンを連れて、いつもの所までお出でになっていた。そして、二人の男が、その足元にひざまずき、手を合わせている。お話をお願いしているのにちがいない。
 蟇は、あわてて、お声の聞こえる所まで近づき、草かげに身をかくし耳を澄ませた。ちょうどよかった。そのとき、やさしい、お釈迦さまのお声が聞こえはじめた。
「ガンジス川の流れを、見てみてください。今、川の真中を、一本の丸太が、流れていくだろう。あの丸太は、こっちの岸にも、つきあたらず、人にも、とられず、渦巻きにも、巻き込まれず、壊れもせず、くさりもせずに流されていくならば、やがて海にたどりついて、そこで止まることになるだろうね」
「はい」
「修行をする者も、それと同じことだよ。あっちの岸、こっちの岸にも、つきあたらず、人にも、とられず、渦巻きにも巻き込まれず、壊れもせず、くさりもせずに修行を続けていくならば、やがて仏さまにならせて頂けるのだよ」
そこまで、お話を聞いたときだった。蟇は突然、背中を何かで、ぎゅっと押えられた。どうしたのかと思って、上をみあげた蟇は「あっ」と驚いて声をのんだ。
 あのけだもののような牛飼いの男の杖が、のっかっていたからだ。もう、逃れる手立てなどない。「今度こそ、殺される」。そう思うと蟇の心はちぢにみだれ、とたんにお釈迦さまのお話が聞こえなくなってしまった。死にたくなかった。
 しかし、よく見ると、どうも様子がおかしかった。背中を杖で押えてはいるが、牛飼いの男は、そこに蟇がいることに気がついていないらしい。どうやら、お釈迦さまのお話に耳を傾けているように見える。
 そんなことってあるだろうか。へいぜい、お釈迦さまのことを、ばかにして、くそみそに罵っている、けだもののような男だ。間違っても、お釈迦さまのお話など、聞くはずはない。
 それでも蟇はしばらく、注意深く男をみあげていて驚いた。間違いなく聞き入っている。
 へいぜいが、へいぜいだけに、その顔つきは、真剣そのもので、遠くから、くい入るようにお釈迦さまのお顔をみつめ、ときどき頷きさえしていた。
 こんな嬉しいことって、あるだろうか。今、けだもののように、気の荒いひとりの男が、救われようとしているのだ。
 熱心に、聞き入っているせいで、思わず杖に力が入るのか、杖は強く蟇の背中を押えつけた。男は、蟇に、気がついていないのだから、ひょっとしたら逃げ出せるかもしれない。だが蟇は、今は逃れようとする気など、すっかりなくなっていた。
 いま動けば、せっかく大切な話を聞いている、牛飼いの男の心をみだし、またとない機会を失ってしまうに違いないからだ。
 その杖は、いよいよつよく、蟇の背中のイボのあるぶ厚い皮にくいこんだ。痛い。だが、ここで、からだを動かせば、もともこもない。蟇は、大きな口を、ゆがめるようにして我慢した。
 そのとき、「ぷちっ」という、小さな音がした。それと一緒に、背中全体に、しびれるような痛さが走った。杖は皮を破って、肉の中へ突き刺ったのだ。
 でっかいからだ全体が、食い込むたびに、ズキンズキンと痛んだ。気を失いそうに、ぼうっとなった。それでも蟇は動きもしなかった。
 お前にできる、たった一つのことは、岩のように、じっとしていることだと、繰り返し、繰り返し、いい聞かせていた。まもなく、杖は、蟇のからだを、つらぬき、腹の下の土に、ぐさっと入った。
 そして、蟇は、その醜いからだを、杖に支えられながら、それっきりびくとも動かなくなってしまった。背中の一面の、かさぶたのようなイボイボは、たちまち色が変わり、いっそうぶきみであった。
 こんな尊い「死に方」が、どこにあるであろうか。

(2005/11/30up)


今年もまた一緒に九億四千万キロメートルの宇宙旅行をいたしましょう。
これは地球が太陽のまわりを一周する距離です。
速度は秒速二十九.七キロメートル。
マッハ九十三。
安全です。
他の乗客たちがごたごたをおこさないよう祈りましょう。

── 星新一氏 ──




(2005/12/31up)


 今でもたまにMr.Childrenの曲を車で聴いたりします。櫻井和寿の歌詞はいいなあ。彼の詞からお念佛≠フ世界を感じることもあるし。
 最近、ミスチルのベストCDを聴いていて、「う〜ん」と思ったのがあったので紹介します。『【es】〜Theme of es〜 』という10年くらい前の曲。映画の主題歌でした。
甘えや嫉妬やズルさを抱えながら誰もが生きてる
それでも人が好きだよ
この「それでも」が考えさせられるんですよ。何て言うか、「人間が大好き!」とかいうキャッチコピーをよく耳にするけど、何か胡散臭いし鬱陶しい。人間なるものの何をもって大好き≠ニ言っているのかが問題なんだろうね。善意、優しさ、あたたかさ、人を愛する心・・・などなど、人間の善い部分≠セけをみての「人間が大好き!」なら、それは不十分でしょう?。だって、それは人間の側面でしかないから。
 甘えや嫉妬やズルさ、、、汚さ、身勝手さ、欲望、悪意・・・それも持っているのが人間。櫻井は「それでも」って言うんですよ。「それでも、人が好きだよ」と。こういったことが、どこで言えるのか大きな問題だなあ。
 ボクの学校の先輩は結婚披露宴でヘンな御祝いのスピーチをうけました。「もし彼女が可愛いから結婚を決めたということであれば、可愛くなくなったら、別れるということです。もし、彼氏がかっこういいから結婚したというのであれば、かっこう悪くなったら別れるということを暗に語っているのです」。つまり、我々の愛というものがいかに不純であるかを語っているんです。好きだの愛してるだの言っても、それは条件付。その条件が満たされなかったら、好きじゃなくなる、愛さなくなるんですよ(披露宴で言わなくてもいいのにね)。
 ボクらが人を愛したり、好きになったりする。それは全て条件付なのかもしれません。「無条件の愛」なるものは如来の世界にしかないし。人間の見たくない部分に触れて、人間が嫌いになる。そこから「それでも」ってどこで言えるんだろう?。「それでも、人が好きだよ」ってどこで言えるんだろう?。これ、間違いなく念佛の課題です。

(2006/7/31up)


 会話のなかで、「あいつは変わってるな」という話題が出ることがありますね。色々しゃべって、最終的に「谷(私、がんしょうの俗名です)さんが1番変わってるよね」となることも多々ありますが。
 誰々が変わってるという場合、自分は普通なんですよ。普通な自分を基準にして他人を評価する思考が誰々が変わっている≠ネんでしょうね。そう言えば、普通の人間なんてみたことない。自分の所属する共同体や組織にムチャクチャ無理して合わせよう、適応しよう、迎合しようとする人がいるけど、その共同体で普通にあろうとしているのかな。そういう人を私は普通でないように見えるけどね。
 人間はほぼ全てが変わっている。48億の変人がいる。
 自分は普通という概念が他者を排斥するんだろう。自分は普通という概念が、他者に「あいつは変わっている」というレッテル貼る。他者に「あいつは変わっている」というレッテル貼るという行為は、自分はまともだという自己暗示≠ネんでしょう。そういったかたちの安心は直ぐに崩れるけど。

(2006/7/1up)


 「私は人間を理解することがとても下手で、すぐ人間を判断してしまう」という言葉がボーヴォワールにあります。「人間を判断する」とは、自分の生きてきた経験や知識で人間(他者)をイメージし分類するという意味でしょうか。例えば、あの人は古い考えの人だ、右寄りだ、左寄りだ、ダメな人間だ、敵だ、味方だ、等々。そして問題は、そういったかたちで他者を分類できたことを、我々は「人間を理解した」ことだと思い込んでいる。そしてこういったかたちで人間を分類できたとき、その人と正面から向き合うことを止めてしまう、ということなのでしょう。
 エルサレムの郊外にあるアナタという町にアビール・アラミンという十歳になる少女が住んでいました。彼女は学校の帰り母親にカードをあげようと雑貨屋に寄りました。「永遠に大好きです」と書かれたカードを選び外に出たアビールら数人の子どもたちに、突然イスラエル国境警察が攻撃を仕掛けました。アビールは逃げようとして転倒。頭を強く打って二日後に亡くなったそうです。アビールの父親をバッサム・アラミンといいます。彼はイスラエル軍に殺された娘を前に悲嘆にくれながらも、こう言いました。「戦闘による報復は求めない。イスラエルとの共存への活動を全力で進める」。
 若い頃バッサム氏はイスラエル軍と闘い、七年間イスラエルの刑務所に服役しました。そのとき、拙いヘブライ語でパレスチナ人の権利を否定する看守と八ヶ月話し合い、最後にその看守はパレスチナ人の権利を支持すると言ったそうです。その経験をふまえて、二〇〇四年にバッサム氏ら元パレスチナ戦闘員と元イスラエル兵が「平和のための戦士」という団体を作り、敵味方の関係を超えて共に体験談を話し合っています。その活動があったからこそ、バッサム氏はユダヤ人に対して報復ではく共存を求めたのです。
 人の憎しみは憎しみを生み出します。それは歴史が物語ると同時に私の中にあるドロドロした感情がそれを証しています。しかし、人の悲しみと悲しみは共鳴します。愛する者を殺された悲しみ、人を殺さねばならなかった悲しみ。共鳴した悲しみは憎しみを超えて、人間そのもの、そして人間が生きる世そのものを悲しむ視点を生み出すのではないでしょうか。バッサム氏のなかにあったであろうユダヤ人に復讐したい、殺してやりたいという心を超えて、「イスラエルとの共存」を願う心が生まれた根拠はここにあるように思うのです。  実は人間(他者)を判断している(自分の経験で分類している)だけなのに、理解したつもりでいることは傲慢なことです。本当のところ我々に他者を本当に理解するなどということなどできません。他者と出会い続けても、その人の課題を何とか理解しようとしても、必ず何かを漏らしているのです。しかし、縁ある他者の課題に寄り添うことはできるのではないでしょうか。縁ある他者の課題を分別し分類する前に、その課題に素直に涙することはできます。
 涙には目に見える涙もあれば、目に見えない涙もあります。涙に宿る悲しみに寄り添うことができるのは、私のなかの悲しみしかないのです。

(2007/12/31up)


 無着成恭氏の『ヘソの詩(うた)』という本に「ごはんの時に」という詩が載っていました。この詩は大谷派の児童教化連盟が出している教化冊子『いのち』にも掲載されています。書かれたのは山崎まどかさんという1982年当時に小学校6年だった女の子です。その一部を紹介します。
人間は、生きるために
にわとりも殺さなくちゃいけないし
豚も殺さなくちゃいけない。
生きているってことは
ずいぶん迷わくをかけることなんだ。
自分で自分のことを全部できたら
人は一人ぼっちになってしまう。
他人に迷わくをかけることは
その人とつながりをもつことなんだ。
他人の世話をすることは
その人に愛をもつことなんだ。
生きるっていうことは
たくさんの命と
つながりをもつことなん
すごい文章ですよね。素直に、真正面から、生きるという事実を言い当てておられます。他の生命と殺≠ニいう事実で関係をもっている、他者と支え支えられるということで関係を持っている。「他人に迷惑をかけることは、その人とつながりをもつことなんだ」、「生きるってことは、たくさんの命と、つながりをもつことなんだ」なのですね。
 先日、法話を聴聞していたら、説教師がこの詩を引いて、その後で「人に迷惑をかけるという自覚が人と人をつなげるのです」と言われました。そうなんですよね。人間は高い理想や理念でつながるのではないのですね。理想、理念、そして思想というものが人と人をつなげて、その輪が広がっているところに、みんなが共に行き合えるパラダイスのようなものがある、と私たちは考えがちです。ある大谷派の僧侶が「仲間意識が仲間外れを作り出す」と言われましたが、輪を作るとき、その輪から外れる人が必ず出てくるわけですから、その発想そのものが排除の発想です。そうではなくて、命を殺し、迷惑をかけるという自分自身の事実を自覚し、頭が下がってこそ、関係というものは成り立つ、とその説教師は教えたかったのです。
 しかしです。自分自身のすがたを自覚し、頭を下げるということが、私たちにできるのでしょうか?

(2010/6/2up)






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