【思い通りに…】

「VOW6」(宝島社発行)より

 大谷派の坊さんなら、これが誰の言葉が分かりますよね?。
 この「VOW(バウ)」というのは「voice of wonderland」の略で、『宝島』という何とも言えない雑誌の読者ページを本にしたもの。まあ、新聞の誤植とかヘンな看板を集めて笑おうという本なんです(マジメな人はこれだけで怒りそう)。私(住職)は長年の大ファンなんですけどね。
 大谷派本光寺さんの掲示板が、そのヘンな看板に見事当選したんですけど、投稿した人のコメント(矢印)とそれを採用した人のコメント(温泉マーク)を読んでみてください。思い通りにならない現実というものがある。それでは困るから神様仏様に何とかしてもらいに来る。そういう場所が神社仏閣っていう意識がすごくよく出てるでしょう?。

 この掲示板に書かれた言葉を言われたのは鈴木章子さん。北海道にあるお寺の坊守さんでしたが、何年か前に癌で亡くなりました。癌で亡くなる前に多くの言葉を遺され、それが書物になってます。
 癌になる前、現実は何でも自分の思い通りになると思っていた。思い通りにしたいと思っていた。癌(=死)というものが足下にあることを知らされ、現実が自分の思いではどうすることもできないことを知った。さらに、どうしてみても思い通りにならない現実を通して、何でも思い通りにしようと思っていた自我の罪を教えられた。そしていのち≠フ事実を教えられた。
 最後に「癌よ、ありがとう」と言って浄土に還って行かれた方でした。
 「ああ、思い通りにならなくて、本当によかった」。

(2003/1/27up)


 北陸の寺の住職から聞いた話。
 篤信の真宗門徒(もんと)のお婆ちゃんがいました。もちろん毎朝毎晩のお勤めは欠かしません。若い時からお寺に行って熱心に聴聞。近所の人から「あの人は熱心な人や」と言われておりました。
 その婆ちゃんには小学生の孫がいます。この孫は物心ついた頃から、仏様を拝み念仏を称える婆ちゃんの姿を見て育ちました。小学生になったら、婆ちゃんと同じように毎朝必ず仏様の前で「なむあみだぶつ」と申すようになったのです。これが、またまた近所や親戚に評判になります。「あそこのお子さんは感心やね。毎朝仏様を拝んでから学校に行くんやって」。婆ちゃんはその孫が自慢でなりません。
 ある日のこと、いつもと同じように孫と一緒に仏様を拝んだお婆ちゃん。家族で朝食を食べておられました。婆ちゃんは日頃から孫に尋ねたかったことがあります。その日は、それをちょっと訊いてみようと思いました。
 「なあ、お前はいっつも何を思うて仏様を拝んどるの?」。
 孫は「え?」っという表情をしたまま何も応えません。あれ、おかしいなあと思った婆ちゃんは、しつこく同じ質問をします。「難しいことを訊いておるんやない。何を思うて仏様を拝んどるんか?」。孫は困った顔をして、「婆ちゃん、言うてもええけど怒ったらあかんで」と言い出します。何だろうと思いつつ「怒らへんから言うてみい」。「絶対に怒ったらあかんで」といつこく念を押して、
   婆ちゃんが早う死んだらええなあと仏様にお願いしとるんや
と応えたそうです。
 事情はこうです。その子は家に「自分の部屋」がなかった。婆ちゃんが死んだら、その部屋が空いて自分の部屋になる。そういう思いをそのまま仏様にお願いしておったそうなんですよ。
 婆ちゃんはショックで三日ほど寝込まれたそうですが、復活されたのかどうか・・・。

(2003/2/22up)


 浄土真宗というか仏教の教えは「欲」を罪だと教えます。「欲」というと、金が欲しいとか物が欲しいという分かり易いものだではなく、自分の生きている境遇とか容姿とか変えようのないものを「変えたい」と無い物ねだりすることも入りますよね。
 熱心に聴聞されていた、上のお婆ちゃん。そんなことは知っておられたはず。だから自分の孫に「神仏には願い事をせよ」などと教えるはずありません。この孫の周りにいた両親を中心とした大人達、もっというと社会環境自体が、孫にこう思わせたんでしょう?。「仏様に願い事をしたら、言うことをきいてくれる」って。
 この「願い事」ですが、こういうふうに書くときれいです。でもこの「願い事」の内実は「欲を満たしたい」でしょう?。「欲」の罪を教える阿弥陀如来にそんなことたのんでも、無理な話やで。
 何だか現在の日本の宗教環境って、この「願い事=欲の充足を祈願」ばっかり。どこの神社でも、本来はそういう施設でなかったはずの寺院でも「○○祈願」大流行りだよね。そういう宗教環境はしっかり私たちの生活にも根付いていて、子どもに「明日のテストが100点取れるように仏様を拝んどけ」「運動会で一等になれるように・・・」と大人が教える。子どもは、仏様を拝む=自分の欲を満たしてくれると思って、エスカレートしていって、「婆ちゃん、早う死ね。なむあみだぶつ」となってしまった。
 南無阿弥陀仏ってそういうふうにはたらくの?。お寺ってそういう場所なの?。これを読んだ人は、ちょっと考えてくださいな。

(2003/2/22up)


 何か最近ついてねぇなあ、いいことなんてまるでねぇしなあ・・・と思い立ったある若い人がお遊びで「姓名判断」をしてもらいに行きました。
 行った場所は、その手のことで有名なS≠ニいう施設。字画なり何なりを「みて」もらっていたのですが、その「みて」くれていた人の顔が変わっていきます。
  「これは最悪ですね。こんな名前でよく生きてこられましたな」
と、もっともらしい理由をつけて言われてしまいました。最初は遊び半分で「みて」もらっていたその若者も、そこまで言われたら深刻になります。「そう言えば、オレの人生は良いことなかったなあ。それって名前のせいだったのか・・・」とマジメに考えてしまったんです。
 家に帰って母親に、「今日S≠ナ名前を「みて」もらった。そしたら『こんな最悪の名前はない』と言われたぞ。オレの人生がダメだったのはこの名前のせいだ」と問いつめました。
 するとその母親は、「何を言っているの。お前の名前はS≠ナ高いお金をだして「みて」もらった由緒正しい名前なのに」。

(2003/5/16up)


 親が子に名を付ける。こういう人生を生きて欲しいという願いを込めて。
 これは尊いことです。ボクにも体験があるけど、ムチャクチャ緊張するし、考えに考えて、真宗聖典という分厚い聖教を見て、これでいいかな、、、なんて何度も書いてみて。ある方に言われました。「坊さんは、普段は聖典なんて見ないけど、自分の子どもの名前を付ける時は熱心に見るね」。アハハハハ、ボクのことですね。
 上の子は「真実帆(まみほ)」、真実に生きて欲しい≠ニ願って。下の子は「利華音(りかね)」、『正信偈(しょうしんげ)』に「分陀利華(ふんだりけ)」という言葉があります。「白蓮華」という意味ですが、白蓮華は泥の中でも純白の花を咲かせるところから、濁り多い世間の中で覚りの花を咲かせる、つまり覚の象徴として仏教では大切にされます。だから苦しい世間に生きていても自分が自分として生きる道を探して欲しい≠ニ願って付けました。
 色んな思いがあると思うけど、親の子への願いが言葉になったもの、それが名だと思います。
 姓名判断とか字画とかそんなもんが大流行してますよね。昭和30年代に出た少女雑誌の付録が始まりらしいですけど、そんなことはどうでもいい。「何故、我が子の名を全くの他人に付けてもらうの?」って思います。姓名判断をする人は、他人の子の名なんてマジメに付けてやしませんよ。根本的に願い≠ェないんです。
 自分の子の名は自分で付けてくださいな、、、なんて思います。

(2003/6/28up)


てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに
晴れたら 金の鈴あげよ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願いを 聞いたなら
あまいお酒を たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョンと切るぞ

(浅原鏡村・作詞/中山晋平・作曲)

 てるてる坊主って、願い事をした人の思い通りになったら、色々良い事あるんですね。高価そうな金の鈴をもらったり、お酒飲ませてもらったり。でも思い通りにならなかったら、凄まじい結末が待ってる。「首をチョンと切るぞ」って・・・「ちょん切る」より「チョンと切る」の方が怖いなあ。
 この歌詞を先だって「へぇ〜、へぇ〜」とか言う番組で紹介してたんですが、ボクらの有り様がそのまま歌になってるなあと感心してました。
 以前、京都の神社の絵馬に「今年こそ合格させてください。今年で三度目です。今度不合格なら神社に火をつけるぞ」というものがあって話題になってました。思い通りにしてくれると感謝もするんでしょうけど、そうならなかったら・・・
 てるてる坊主とか絵馬だけじゃない。他人に対しても、先祖に対しても、社会に対しても、生活環境に対しても、自分の思い描いた通りにしてくれるものには感謝で応えるけど、そうならなかったら報復、罵声・・・。神仏に願い事(頼み事──「思い通りにしてくれ!」)をするボクらの心は、平生のボクらの他者や周りに対する関わり方を映しているように思えますが。。。

(2004/4/20up)


 「おもい」  鈴木章子

あーあ
思いどおりにならなくて
ほんとうに よかった
こんな汚ない根性で
思いどおりになっていたら
何人 人を殺したやら…
何人 敵をつくったやら…
今 太陽の下で
おしゃべりに夢中になれるのも
思いどおりにならなかったおかげ…
あーあ
おもいどおりにならなくて
本当に
よかったなあ…
癌だって
おもいどおりにならない人生だもの
あたりまえ…
おもいどおりにならぬ恩恵
良かったなあ…


   (探求社発行『癌告知のあとで』より)

 「鈴木章子(あやこ)さんの詩を全部教えてください」というリクエストがありました。
 そりゃそうだわな。あれだけ書いてて、全部載せないのも問題ありますよね。みなさんは、どんなふうに感じられるでしょうか?。感想とか教えていただけたら・・・
 ボクの感想、、、すごい詩だ、の一言。
 これがすごい詩だと思えても、、、こういうふうに教えられても、教えられても、、、こういう世界が真なんじゃないかと思う心が起こっても、自分の思いを通そうという心が消えない自分っていうのがあるんですよね。もう底なし沼っすね。
 でも、教えられないと、自分の思いを通そうだけで生きちゃうし。自分の思いを通そうでということが周りの人を傷つけていることに傷みも感じられないし。

(2004/8/29up)


 神仏に自分の都合をたのむ、いわゆる現世利益(げんぜりやく)。上の方から展開してますけど、この現世利益はどうも仏教とは言えないようです。特に浄土真宗の教団では現世利益を厳しく指弾したりもします。言い方として「真宗では現世利益はしないんだ」という感じで。
 その「真宗では現世利益はしないんだ」という言い方そのものにですね、その言葉を受けたほうとして「現世利益はしてはいけないんだ」と受け取ってしまうようなニュアンスがないか配しておりますです。
 実際、そういうふうに考えるかたが多くて、研修会とか聞法会に行ったとき「私は阿弥陀様にたのみごとをするようなことをいたしません」と言われる方が増えてきてます。そういう方々は現世利益≠ノ変わる言葉として感謝≠ニいうことを言われるんですよね。「私は感謝の念仏を称えております」と。そこで、その感謝≠フ内実を尋ねたら「健康であること、先祖が財を残してくれたこと、家族に波風がないこと」などの答が返ってきます。
 ん?、まてよ…。その感謝していることって、自分の都合のいいことばっかりじゃないの?。自分の都合のいいことへしか感謝できない、、、これって、神仏に自分の都合をたのむのと、どう違うの?、、、という疑問が生じてしまいます。
 現世利益をたのもうが、たのまないが、自分の都合≠ナ生きているボクらの本質は変わりません。それどころか、現世利益という下世話なことをしていない、感謝している自分を善い自分としてしまったら、自分の都合でしか生きていない自分がみえない、ということはないかなあ。

(2005/2/28up)


 大晦日といえば『紅白』というのも今は昔、今や大晦日といえば格闘技ですね。まあ、子どもたちにとっちゃあ大晦日は『ドラえもん』なんでしょうけど。2005年の大晦日は何と3時間も放送しておりましたです。2005年大晦日の『ドラえもん』の中で非常に印象的な作品がありました。その名も「どくさいスイッチ」。あまりに凄い話なので、思わず原作本を買ってしまいました。
 いつものようにジャイアンに苛められるのび太。そしていつものようにドラえもんに泣き付きます。「ジャイアンさえいなくなれば…」、のび太のいつものつぶやきですね。そしていつものようにドラえもんはのび太に未来の道具≠出して助け船を出すのですが、今回の道具の名は「どくさいスイッチ」なのです。この道具の質は『ドラえもん』のいつも≠ニ少し違います。いつもはジャイアンやスネ夫に苛められたり追い詰められたりしたのび太が、その状況を打開するためにドラえもんは道具を出す。しかし今回の「どくさいスイッチ」という道具は、のび太を苦しめる根本を無くすことができる。つまり、このスイッチを押すと、のび太にとって都合の悪い人でも物でも消すことができるんです。


 「どくさいすいっち」を手にしたのび太は最初使うことをとまどいます。しかしジャイアンにこっぴどく苛められたとき、とっさにジャイアンを消してしまいます。ジャイアンを消してしまったことを後悔するのび太でしたが、次にスネ夫に苛められたらスネ夫を消す。クラスの友だちに小言を言われたら、その子を消す。誰かを消しても消しても、全てが自分の思い通りになる人間などいるはずがありません。のび太は最後に世界中の人間を消してしまうのです。
 誰ものび太の行動を邪魔する人間はいません。自分の思い通りです。思い通りの自由≠満喫することもつかの間、あまりの孤独感で泣いてしまうのび太。そこでドラえもんが登場し、この道具は未来の独裁者を懲らしめるための道具であることを告白します。
 怖い話だと思う反面、そういう道具が欲しいと思う自分もしっかりといます。自分の都合、自分の思いを物差しに善いと悪いを分けて生きる私たち。自分の思いにかなう人は善い人、かなわない人は悪い人。普通の生活の中で(自分にとって都合が)悪い人に出会ったら、「こいついなくなればいいのに」と、ついつい思ってしまう。だから欲しいんですよね、「どくさいスイッチ」が。でもこの道具を手にしたら、ボクは間違いなくのび太と同じ結末になるでしょう。
 何でも思い通りになる権限が自分に与えられたら、ボクは何人の人を殺すだろうか?、なんていう完全に絵空事とも言えないリアルな自分の中の恐ろしい部分の存在を教えてくれるお話でした。

(2006/1/31up)


 我々は仏教と世間を分けて考えがちだな、と思います。もしくは、仏教と世間の棲み分けをしているというか。仏教はここまでの問題しか対応しない、ここからは世間法といったように。戦争の問題、差別の問題、人間関係の問題等々、これは仏教の問題でない。これは世間の問題である。こういったことは世間法で解決するのだ、と。
 こういった思考というか、仏法と世間法の棲み分けを当たり前みたいにおこなうと、目の前にある問題に悩まなくなります。格好付けた言い方すれば、目の前の問題が課題にならなくなる。
末法(まっぽう)五濁(ごじょく)の有情(うじょう)の
 行証かなわぬときなれば
 釈迦の遺法(ゆいほう)ことごとく
 龍宮(りゅうぐう)にいりたまいにき
 親鸞は人を救わない、人の問題に向き合えない教えは「龍宮」にある教えと言い切ります。海の底の置いてきぼり。実際にはたらかないという意味でしょうか。教えを龍宮に押しやっているのは、実は我々の教えを聞く姿勢、そして教えに生きる姿勢なんでしょう。

(2007/8/1up)




【福ハ内、鬼モ内】

 お寺で節分の豆まき…などと言うと烈火のごとく怒る坊さんがいることを承知で、我が家も豆まきをしてます。まあ、子どもが保育所とか通い始めると、保育所でやるからねえ。すると、他の家の子は「うちでもやる」って話になって、「何で、うちではせいへんの?」ってことになる。
 ただ、豆まきの時に言う言葉は、
福ハ内、鬼モ内
ですがね。浄土真宗系のお寺の子って、たいがいこうじゃないの?。
 「福」は幸福、「鬼」は不幸・禍。「福は内、鬼は外」で外に行った鬼はどこに行くんでしょう?。隣の家?、隣の町?、隣の国?。イラクとか北朝鮮に行くかもね。とりあえず鬼が自分のテリトリーにさえいなきゃいいっていうのは、ちょっと違うんじゃない?。
 誰しも自分の幸福を望みながら生きてます。それは私(=住職)も同じ。でも自分だけの幸福≠望むことが、他に不幸を招くってことが往々にしてあるわけです。私たちが自分だけの幸福≠望むというところで生きているかぎり、側で泣いている人の顔が見えないんです。
 これが本当の鬼の姿かもね。
 「幸福であれ、不幸であれ、全部ひきうけます」。ここに立てた時、私たちは鬼の生き方から人として生きていく道が開かれるんでしょうね。

(2003/2/5up)


 私たちの閉鎖性≠チて、こういう形で表れるんでしょうね。
 海外からのニュースなんかで、「本日、大きな事故が起こりました。死者は何百人です」って聞くと、えらいこっちゃ、大惨事だなあ、って思う。事故に遭われた人の安否を気にしたりもする。でもアナウンサーが「この中に日本人は含まれません」と言うと、「あ〜よかった…」ということになってません?。
 全然よくないんですよね。日本人が含まれようと含まれまいと、人が死んだり傷付いたりする事実は変わりない。
 滋賀県の南部は一昔前水害の多い所だったそうです。特に良覚寺の所在地である矢橋って琵琶湖沿いにあるし、毎年何人かは水害で亡くなってます。今では堤防なんかが整理されて、どんな豪雨でも琵琶湖が氾濫することはない。だからほとんど天災に遭遇しないんです。
 日本全国をみれば、台風や地震や豪雨なんかで天災に遭われる人は多い。その時に私たちはどう発想するかというと、「矢橋に住んでてよかったなあ」なんです。
 私たちは瞬時にこういう発想をしちゃう。こういう瞬時に出てくる発想が本音≠ナあり、私たちのもってる性根≠ネんでしょう。平生の綺麗事が全部とんじゃうような・・・。

(2003/4/1up)


「VOW18」(宝島社発行)より

 また『VOW』に面白い投稿があったので紹介します。
 この絵馬を書いた人の気持ちは分からんでもない、って思いません?。この「人の不幸は蜜の味」的感情の根源は何だろう?。自分だって大して幸福でもないだろうけど、他者の不幸と比べることで、「オレもあいつに比べればマシやん」ってことになる。そういうかたちで自分の幸福というか、不幸でない自分を確かめるのかなあ。
 そういった思いも幸福を求める心──もっと言えば自分が自分として生きていくとき、喜びのなかで生きたいという願いの表れなのでしょう。ただ、生き生きと生きたいという自分の中の願いが、自分の世界の中に閉塞し、自分勝手な自分の世界の中だけでねじ曲がると、「人の不幸は蜜の味」的な感覚、「ここに書いてる全ての願いがかないませんように」という表現になるんだろうと思います。
 自分が自分として生きていることへの喜びを求める心≠他者の不幸を求める心≠ノねじ曲げているものの正体は何でしょう?。他者の不幸と相対化しないと自分の幸福を実感できない心の正体は何でしょう?。その感情を放っておくのか、ここを逃げずに向き合えるのか、大きな分かれ目があるように思います。

(2006/6/30up)


 あなたにとって真宗とはどのような意味をもつのか?≠ニいう問い、そしてこれを具体的に毎日、御本尊に向かい合うときどのようなことを思うのか?≠ニいう問いを出したとき、
「今日も1日、生きていたことに感謝します」、「家族が無事であったことに感謝します」、「私たの豊かな生活や現在日本の繁栄は先祖の苦労によってあります。だから先祖に感謝します」
という答え方によく遭遇します。前々から、こういった「感謝」に違和感があったのですが、皆さんはどうでしょうか?
 死に対して生がよい、不幸に対して幸福がよい、貧困に対して豊かさがよい。こう思うことは当たり前かもしれません。しかし、こういう我々の思いは現実が打ち砕きますよね。豊かで家族円満、幸福に生きたい、と思い描いても、現実は思い通りにならない。自分の思いと現実に距離がある。これが我々の苦悩なんです。
 上に書いたような感謝≠ヘ、自分の思いがなかっている場合だけにある感謝ですよね。逆に言えば、思い通りにいかない現実にいるときは感謝はない。この感謝≠フまえでは、現実を善し悪しと分別している「自分の思い」は問題になりません。
 これを現代社会ということで言えば、「この豊かで平穏な現代は先祖のおかげだから感謝・・・」となったとき、現にある現代社会の問題に目がいくことはない。平穏のなかで踏みつけている人、豊かさのなかで蹂躙されているいのちが見えない。
 自分、自分が生きている社会、世間、、、これが感謝≠ニいう言葉のなかで問われない。ここに「感謝の真宗」の問題を感じます。御本尊と向き合うことは、自分と向き合い、世をいとうという意味があったはず。ここを抜きにして真宗はないはず。

(2006/7/1up)




【気になる・・・】

 友だち夫婦が部屋の模様替えをしました。
 テレビとかタンスとか色々動かしてみて、これでいいかってことになりました。でもよ〜く見ると本棚が微かに傾いている。その友だちは神経質なヤツで、その微妙な傾きがどうしても許せない。色んなものを本棚の下に引いてバランスを取ろうとしたけど、上手くいかなくてしばらくほっときました。
 ある日、その友だちが会社から帰ってきて、本棚を見ると見事にバランスがとれていて傾きがない。奥さんに「上手にバランスとれてるやん。何を敷いたん?」と訊きました。すると奥さんは、「あなたは神様とか気になる方?」と変な質問をします。そいつは「いや、全然。何の話?」と逆に訊ね返しました。
 奥さん曰わく、「本棚の下に敷いたんは、神社のお守りなの」。
 そいつは慌ててボクにメールしてきて、「これって大丈夫?」と訊ねてきました。

(2003/6/1up)


 とりあえず坊さんに訊いてみようっていう気持ちは分かるけど、大丈夫かどうかなんてボクには分かりません。でも面白い話だなあとは思います(S君、これ読んでたらゴメンね)。
 お宮さんのお守りをここまで邪険に扱う人も珍しいですね。車とか運転してると、バックミラーの所に「交通安全祈願」とかのお守りをかけてる人は多いです。車の後ろに「○○神社」とかステッカー貼ってる人もね。
 蓬師祖運(ほうし・そうん)という先達が招かれてある寺に行かれた時、駅にタクシーが用意されていた。「先生、どうぞ乗ってください」と言っても蓬師先生は乗ろうとしない。理由を尋ねると、「この車の運転手は運転に自信がないようだ」と。運転手は、「そんなことありません。私は20年以上タクシーの運転をしているベテランです」と言い返します。蓬師先生は、「バックミラーにお守りがついておる。そんなもんに頼らないと安全に運転できない運転手の車には乗らない」と言われたそうです。
 お守り、占い、姓名判断、○○祈願・・・私たちはそういったものが気になる≠けです。気になって、気になって仕方がないわけです。「そんなもん信じてない」という人も、本棚の下に敷きっぱなしにはできないわけです。
 そういった私たちの本音。ここには何が表れてるんでしょうね?
 そして仏の教えとしての蓬師先生のご指摘。
 色々考える必要がありそうです。

(2003/6/1up)


 正月にテレビを観ていたら、初詣のお賽銭を銀行員が数えてる風景が映ってました。それを見てうちの娘が「あの人達はうちの寺にも来るの?」。娘よ、うちの浄財箱はお母さんが1分で数えることができるのだよ。
 2004年は初詣のお賽銭が非常に多かったそうで。
 神(仏)頼みは、現実生活の不安の表れでしょう。経済でも国際関係でも社会問題でも日本という国は非常に大きな問題を抱えてますよね。そういった日本の世相は思いっ切り家庭生活にも入り込んできているんだろうし、生活する、生きていく、ということが非常に不安で不安でしかたがない。その不安が神(仏)頼み≠ノなって表れてるんだろうと思います。
 気になる≠フ一つの正体は実はここなんでしょう?。
 まず、自分の中の気になる≠生活する・生きることへの不安≠ニ押さえられますよね。

(2004/1/20up)


 失職した人は仕事のことを、受験生は大学の合格を、お金に困っている人はお金を、赤ちゃんが生まれそうな人は安産を、神仏に願い事というかたちでたのむ。
 ボクらがいわゆる「現世利益(げんぜりやく)」をたのむのは、生きることの不安や悩みの表れなんでしょう。生活している今≠フ苦悩と不安が、神仏に何かをたのむという形で表現されているわけですよ。
 実は、一番大きな問題はこの苦悩や不安なんです。
 お金があって、健康で、快適で、ある程度人からも尊敬されて、苦労なく生活したい。これは誰しも思うこと。こういった生活を守るため、こういった生活を手に入れるために人は日々努力するわけです。そして神仏にたのむわけです。
 でも、ボクらが思い描く幸福は非常に不安定。何か少しのきっかけが、その幸福を壊しちゃう。それを知っているから、人は神仏に「現世利益」をたのむの・・・

(2004/6/29up)


 蓮如(れんにょ)上人の言葉に
如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなし
というものがあります。仏法には、大安や仏滅といった良い日悪い日を気にすることはない。まじない、占い、祈祷等はない、ということでしょう。しかし、人間には「吉日良辰をえらぶ」ことがあるのですよ。仏教もそういったことをしようと言うのではありません。仏教教団、寺院で現世利益を行っているというのは言語道断です。そうではなくて、現世利益にたよる人間の弱さを外して仏教はない、と言いたいんですよ。
 仏教を深く学んでいる人、浄土真宗の僧侶は、現世利益を下等なもの、下品なもののように言うことがあります。でも、仏教を学んでいる人は、そういったものにたよる人間の弱さを超えてるんですか?。そうではないでしょう?。私は切羽詰まったことに遭遇したとき、朝のお勤めの拝む心にそういった心が雑じることがありますよ。
 「吉日良辰をえらぶ」ことが人間の在り方として間違っていると、如来から教えられても、「気になる」を捨てることができないのが人間です。仏法を聞き、それが真だと頷いた心にとらわれてしまうと、自分が如来になったように勘違いします。これが怖いですね。

(2010/8/1up)






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