【一般に宗教って…】

 このサイトを作る時、背景とか画像とか使いたくて、そういうのを専門に置いている「素材サイト」というところにちょくちょく行きました。その「素材サイト」には、必ず「利用規約」があるんですけど、多くのサイトが
  アダルトサイトと宗教サイトはお断り!
とありました。アダルトと宗教を並べるんじゃねえ、、、という思いもありましたけど、これが現実なんですね。「宗教=カルト=アブナイ」なんですね。
 「宗教=カルト=アブナイ」という構図は、一般に使われる「宗教みたい」という言葉によく表れてます。何かに熱中して他がみえないような集団の状態を「宗教」が記号として使われているんですよね。

相原コージ著「一齣漫画宣言」(小学館文庫)より
 
(2003/1/26up)


 「宗教は集団の主観である」。
 これも一般的に思われていること。つまり、神にしても仏にしても、特定の宗教を信仰している人だけの実存であるということでしょうね。客観的に外から見ていたら、「そんなもん、おるわけないやろ」となるわけです。また、こっちの宗教の主観とあっちの宗教の主観がぶつかり合って、宗教間の諍いが起こる。大きくなれば戦争になると。
 法事なんかの後の御斎(おとき/食事)で酒が入ると、こういう論調で喋る人がいます。要するに「あんたは浄土真宗は普遍やというけど、それがどこで証しされとんのや?」と問われているんですね。
 ちょっと前まで、こういうことを言われると私の方がムッときてしまって、半分ケンカみたいになってました。でも今は結構素直に「そうか、オレの法話から普遍性を感じなかったのか」などと反省しますし、丁寧に説明しようと努めます(伝わらないことの方が多いですがね)。
 宗教の普遍性、いつでも・どこでも・だれにでもはたらくことは、どこで証しされるんでしょう?。それが証しされないかぎり、「宗教は集団の主観」と思われても仕方ないですね。

(2003/2/28up)


いしきひさひち著「DOUGHNUT BOOKS11」(双葉社)より

 新々宗教教団なんか、色んな面で厳しいノルマ≠ェあると聞きます。そのノルマをある種の行≠セと説いている団体もあると聞きます。
 厳しい競争社会の中で人間はモノのように扱われている。機械みたいに生産性だけを重視されて、追い込まれて、毎日くたくた・・・。そして救いを精神的な世界に求めようとする。しかし、救われたいと思って行った、その精神的な世界を標榜する集団にも競争主義、能力主義があって、役に立つ者、立たない者を選別されちゃう・・・。
 別に金銭だけが目的の怪しげな新々宗教教団だけの話じゃない。ほんと真面目に活動されている新々宗教教団、既成教団にもあるような話じゃないですかね。世間の価値観を超える、または問うはずの宗教教団の中に、非常に厳しいかたちで世間の価値観が根付いているってこと。

(2004/1/1up)



【「いのり」】

 2002年12月10日、「毎日新聞」朝刊の一面(!)に面白い記事が載っておりました。極々一部の浄土真宗の坊さんの間だけで話題になったんですけど、本願寺派(お西)が教化方針を全く変えちゃうんじゃないかと。その記事がこれです。
《 浄土真宗本願寺派:「宗教の原点」祈りを公認 解釈変更で 》
 合格祈願や無病息災といった現世利益(りやく)を求めないため、「祈らない宗教」とされてきた浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の教学研究所が、「祈り」について「宗教の原点であり本質だ」と"公認"する見解を示していたことが9日、明らかになった。浄土真宗は宗祖・親鸞(しんらん)聖人の時代から、現世の欲望から来る祈りを「不純な動機に発する行為」と否定してきた歴史がある。門信徒数公称1000万人、末寺1万を誇る国内最大の伝統仏教教団の変化が、宗教界や他の真宗門信徒らに与える影響が注目される。
 宗派の国会にあたる定期宗会で、祈りを否定する考え方に疑問を投げ掛ける質問に対し、"内閣法制局長官"ともいえる教学研究所長の大峯顯(あきら)・大阪大名誉教授(宗教哲学)が答弁。「『祈り』とは聖なるものと人間との内面的な魂の交流であり、あらゆる宗教の核心。『祈り』の概念は現世利益を求める祈とうよりも広く、祈りなくして宗教は成り立たない」と明言した。
 浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を唱える時、浄土に往生して仏になることが決まるとされる。信心や修行など人間側の力(自力)を超越した阿弥陀仏の力(他力)が教義の根幹にあるため「他力本願」の言葉が生まれ、「健康をお祈りします」といった表現でも「念じます」と言い換えるのが正しいとされてきた。
 しかし、世界規模の宗教間対話が行われる時代の流れが、変化を促した。他のあらゆる宗教が「祈り」を持つ中で、大峯所長は「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」と説明。「言葉の表面的な意味で『真宗は祈らない』と単純に割り切るのは教条主義だ。死への恐怖といった人間の根源的な問題に答えず、『現世利益は求めない』と言っても説得力がない」と話す。
 また、真宗大谷派(京都市下京区、本山・東本願寺)の玉光順正・教学研究所長も「人間の思いを超えた領域にある『祈り』の意味を、誰もが理解できる言葉で説明することを真宗は怠ってきたとも言える」と肯定的にとらえている。 【丹野恒一】
 宗教評論家の丸山照雄さんの話 浄土真宗は独自性を強調するために「祈り」をあえて狭義にとらえてきたとも言える。言葉にこだわり過ぎれば、一般の日本人に通じないばかりでなく、外国語に翻訳する際に支障が生じ、込められた精神が届かなくなる。その意味で、教学研究所が「祈り」を認めたのは大きな一歩だ。
2002/12/10『毎日新聞朝刊』より
 これって全国紙の記事でしょう?。何でこんなにややっこしい書き方をするかなあ。
 つまりですね。記事の内容を要約すると、浄土真宗という宗派は「いのり」「祈願」をしなかったけど、宗派の方針を変えて、これらかするかもしれないということ。
 でも丹野恒一記者の論調と大峯所長の発言内容には相違があるような気がしてました。大峯所長は、「真宗門徒(もんと)は現世利益をしてはならない」という形で切って捨てるような教化ではダメだ」と言っているように思えます。
 家内安全とか合格祈願とかを神仏に祈るのが「現世利益」。親鸞(しんらん)聖人は「現世利益をするな」なんて教えてなくて、「現世利益を必要としない生き方」を教えてくださっておるんですね。さらに「現世利益」を求めてしまう私たちの苦しみを、どこまでも悲しむ視座があったようにも思えます。大峯所長は、そういった人間の苦しみを抜きにして、「現世利益はダメ」って唸っていることが教条主義であり、これでは教化にならないと言われているんですよ。
 ってなことを思っていたら、やっぱり本願寺派の教学研究所からこの記事に対するコメントが出ましたね。
《 教学研究所:「『祈り』について」 》
 十二月十日付の毎日新聞に「祈り"公認"浄土真宗本願寺派」という見出しで、「いのり」という言葉の使用を宗派が認めるかのような記事が掲載されました。
 この記事は十月に招集された第二百六十九回定期宗会での「いのり」という言葉についての質疑をもとに作成されたもののようですが、誤解を招く表現であったため、早速、毎日新聞に申し入れをしました。
 掲載後宗務所へ様々な問い合わせがありましたので、浄土真宗教学研究所にあらためて教学の上から、「いのり」について執筆してもらいました。
 浄土真宗では、伝統的に「いのり」という言葉は使用してきませんでした。「いのり」という言葉は、本来神仏に対して願い求める(「祈願請求」)という意味を持ち、その意味が浄土真宗の教えに背くからです。
 浄土真宗の信心は、自らのはからいをまじえず、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせるものです。
 したがって「いのる」必要がないと言えます。もし「いのり」を認めるならば、それは自己のはたらきを認めることとなり、他力の信心を否定することになります。
 浄土真宗のみ教えには、このように祈り求めることを否定する明確な教理があり、親鸞聖人の著されたものの中には、「いのり」を積極的に使用した例を見ることはできません。
 ただ、性信坊に宛てられた消息の中に肯定的と思われる使用例もありますが、「いのり」という言葉を「おぽしめす(お思いになる)」と表現し直されるなど様々な限定の中で使用されております。
 したがって、この用例をもって宗祖が積極的に「いのり」の使用を認められたとは到底言えません。
 一方、現代の「いのり」の語を調べますと、神仏を対象として願い求めるという古典的な意味とは別に、「心から望む、希望する、念ずる」という意味が出てきます。
 したがって現代では、「いのり」という言葉の中に、神仏を対象としない意味が含まれるようになってきています。
 また、「いのり」は英語のprayの訳語として使用されていますが、この言葉は神との対話を意味しており、神に願い求めるという意味には限定されえません。
 しかしながら、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせる浄土真宗の教えの上から、決して「いのり」ということは認められるものではなく、それ故これまで「いのり」という言葉を使用してこなかったのです。
 このことを重く受けとめなければなりません。
 お西らしい堅い表現ですが、「あの記事は誤解です」ということ。
 だいたいやね、今は宗教というと「現世利益」「先祖供養」「生活倫理」と相場が決まっとるけどもやね、これが違うっちゅうねん。特に「現世利益」、最低でも仏教でそんなもんあるかいな。
 「私のご都合」を参照してもらえばええんやが、仏教寺院が「現世利益」などというものを全面的に認めるようなことをしてどうすんねん。ネットの宗教検索サイトで「御利益で検索」っちゅうのがあったけど、なんやあれ。宗教は薬の効能か!。
 毎日の記事を通して、もう一回宗教ちゅうもんを考えなあかんで。


(2003/2/28up)


 今回同時にUPした「全力投球」の「自殺ということ」にも展開しましたけど、ある新聞社が「わたしたちの人生にとって一番大切なものはなんでしょうか?」という質問をしました(四衢亮師講述『三つの出会い』より)。
 このアンケートに日本人はどのように答えたのか
一位…健康、二位…家族、三位…お金
だったわけですよ。思いっ切り、私たちの平生の心が表れているように思いますが、こういった現象に宗教はどう関わるのか。
 ちなみに、他の国でこのアンケートを行った時に一位、二位に必ず出てくるのは「宗教」なんだそうです。
 何だかね、現代の宗教──寺院仏閣──って、こういう平生の心を全面的に認め、助長させてますよね。「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」、、、これを神仏に祈願する、祈祷するということをやってるわけ。
 祈願の効果に関しては知りませんけど、この平生の心を問う、その心を疑えと教える、これが宗教なんじゃないですかね。健康な自分、家族円満な自分、お金に困らない自分、、、そういったものに象徴されるような、幸福な自分。私たちはこういった自分を思い描いているわけでしょう?。そうすると、健康とか家族とかお金に象徴される、自分の思い描くものが無くなる不幸な現実に直面した時、その自分自身を生きていられない。
 宗教は、自分が平生大切だと頼りにしているものの根本にある、自分の思いを問い直せ、疑えと教える。その思いは確かなもんじゃない、どんな状況、境遇、どんな自分を生きていても、それが自分だ、この自分を生きていてよかったと頷ける視座を教えるのが、本当の宗教なんじゃないでしょうか。
 「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」「安産祈願」・・・これらを神社仏閣で祈っている自分自身の心、、、一回問うてみてください。

(2003/10/12up)



【宗教心】

 2004年7月のWeb良覚寺「今月の言葉」は、
人間は何を求めて生きているのだろうか?
でした。これを言われたのは高橋法信(たかはし・ほうしん)師といって、大阪の生野にある光徳寺の御住職です。
 高橋さんが住職の光徳寺さん、地下鉄出入り口を出て五歩の場所にあります。五歩ですよ。一回お伺いしましたけど、「五歩って、冗談だろう」みたいに思ってたんですけど、ホントに五歩でした。お隣が焼鳥屋さんと喫茶店、道をはさんでお向かいにパチンコ屋さんです。お寺というと閑静な場所にあるというイメージがありますけど、雑多で賑やかな場所のど真ん中にある寺なんですね。
 ある月、高橋さんがお寺の伝道掲示板に書かれた言葉が「人間は何を求めて生きているのだろうか?」なんですよ。
 雑多な人が行き交う、そのど真ん中にこの言葉を提示されたらどうなったのか?。パチプロのおじさんが、学校帰りの女子高生が、会社帰りのサラリーマンが、この言葉の前で立ち止まっていたらしいです。
 人間って、別に宗教者じゃなくても、寺や教会と縁遠い生活をしていても、どんな生き方、どんな境遇にあっても、「何を求めて生きているのか」というストレートな問い掛けに立ち止まることができるんですね。立ち止まって、自分自身に問うことができる力を持ってるんですね。
 この話を良覚寺の同朋会でしてみました。みなさん考えておられましたよ。「わしは何のために生きとるんやろ?」と良い座談にもなりました。
 この「何のために…」という問いかけは、ボクら一人ひとりが一生かかって明らかにしたいと思っている、心の深いところにある問いなんでしょう。だから、この問いの前で立ち止まることができるんでしょう。

(2004/6/29up)


 終わりませんね、癒しブーム≠ェ。
 2003年の4月頃、イラクに取材にいかれた日本の記者が言っておられたことです。世界中、新聞はイラク戦争の今後を連日トップ記事にしていた。日本に帰ってきて、新聞の一面を見たら、「タマちゃんに釣り針が刺さる」という文字が・・・。
 癒すという言葉自体は嫌いではありません。宗教にも癒しというはたらきがあるように認識していますし。何と言いますか、生活の中でささくれ立った心に温かさを回復する機能っていうか。でも昨今の癒しブーム≠フ癒しって、現実逃避に近い感じがしませんか?。それが何だかイヤですね。
 癒しブーム≠ヘ厳しい現在の現実社会と連動している。不況、少子化、治安の悪化、国際社会の混乱・・・それに伴うリストラや人間関係のトラブルとかの身近な問題。やっぱ現実社会は見たくないことばっかり。その問題を真正面から向き合うのがしんどいから「癒し」に逃げる。今の癒しブーム≠フ構造って、こういう感じじゃないかなあ。・・・ボクなんか、そういうことありますけどね。
 時代社会が厳しく、ささくれ立ったような状況なら、時代社会に生きる人間の心もそうなる。宗教は、そこから逃げることを第一義にするのではなくて、ささくれ立った心に温かい心を回復する。そしてもう一度、厳しい時代社会に還ることができる勇気を回復する。こういったことが宗教のはたらきなのではないでしょうかね。
 「癒し」に逃げたいと思う心は、実は宗教を求める心である、と言えなくないかなあ(続く)。

(2004/7/29up)


 爆笑問題の太田光さんが、現代の癒しブーム≠ノ関して文章を書いておられました。その中にあった言葉が印象的で、「自分達は傷ついた。だから癒して欲しい。そう思っている人達ばかりで、傷つけたのはは誰なのかはわからない」(TVブロス)と。
 あ、そうか、なるほどなあ、、、って思いません?。癒しブーム≠フ根っ子って被害者意識なんやね。あくまでも自分は加害者ない。。。
 太田さんは言葉を続けて、「癒されるために傷つけて、傷ついた人達は、また癒しを必要とする。そのためにまた傷つける。なんだかワケがわからない」(同上)。
 太田光さん、鋭い。太田さんはここでテロの例えを出しておられるけど、身近なところでは、、、癒されたいから他者を傷つける。会社・学校・家庭のストレスがイジメを作り出して、イジメられた人はネットを使って他者を攻撃する。そこにある意識はあくまでも被害者。自分が加害者になっている意識の欠如。
 これは癒し≠ェ直接の攻撃に結びつく構造を独断で考えてみただけです。分かりづらいのは、自分は時代社会から傷つけられた被害者だから癒して欲しいって意識かも。ここには、自分も社会を創っている1人である、だから加害者であるという意識が無いんですよね。
 この文章の太田さんの〆ですが、「人間はいつまでたっても不完全で、必要なのは、「癒し」よりも、そんな人間でいる事に対する「許し」なのかもしれない」(同上)と。自分が癒されたいと思う前に、被害者でもあり加害者でもあるという矛盾、不完全性に目覚めよと理解できます。「癒されたい」という意識は自らの宗教心に目覚める第一歩かも。ただ、そのまま癒し≠ノ逃げちゃあ何にも分からない。癒し≠ノ逃げようとする意識で止まって、その意識そのものを掘り下げる必要性があるんでしょうね。

(2004/12/20up)


 「癒しブーム」の根っ子が被害者意識から出てる、というのは面白いっすね。
 自分を被害者という立場においたとき、自分は加害者であるということに目を閉ざすことができるんです。ボクはこういうの、物凄く思い当たります。人間関係なんか、「私が被害者。私が傷ついた」と言ったもん勝ち。「自分が加害者。自分が傷つけている」ということに無自覚になれる。
 結局のところ、「癒しブーム」って、自我中心、自分中心のボクらの有り様が映されてるのかもしれないっすね。
 ホント、流行ってる癒し≠チて安易に、お手軽に手に入る。ってことは、ボクらは安易にお手軽に自分の被害者意識(自我意識)を拡大できるってことですよね。これは怖いねえ。安易にお手軽に、加害者であるかもしれない、傷つけてるかもしれない自分を忘れることができるんだから。

(2005/2/28up)


 宗教心≠ニいうと言葉からどういうイメージがわきますか?。
 たとえば、崇高。たとえば、純粋。はたまた、狂気。。。人によっていろいろありますよね。しかし思い浮かぶ言葉が、何か身近ではないんですよ。自分とは別の世界の話、自分とは無関係の話。宗教心なんてもんは、特別な人の特別な心。。。

(2005/3/31up)


 いつから流行ったのか分からないけれど、いつの間にか大流行している言葉があります。最近では社会現象と呼んでも不思議ではないほど、その言葉を目にしない、耳にしない日はありません。それは「癒し」という言葉です。癒しブームは一過性の流行で終わるだろうと思っていたのですが、終わるどころか静かにではありますが過熱しているようにも思えます。ふと気付くと、あっちにもこっちにも人を癒すモノと癒されたい人とが溢れている現象に、薄気味悪さを感じるのは私だけでしょうか。
 「癒す」という動詞を辞書でひくと「病・飢渇や心の悩みなどをなおす」とあります。しかし、現在使われている「癒し」という名詞は、肉体の痛みや精神的な悩みをどうこうするという深刻な意味はありません。もっと軽い言葉として使われています。
 いわゆる癒し系の商品として出てきたアロマテラピー、マッサージ、ヒーリングミュージックといったものの流行をへて、二〇〇二年には多摩川に現れたアザラシを「癒し」と呼びました。ここにきて「癒し」という言葉は広義に使われているような印象ですが、要は見る者を和ませ、心に平穏をもたらしてくれる物や人を「癒し」と呼びます。
 手軽に、そして安易に手に入れることのできる「癒し」。人々がその「癒し」にこぞって手を伸ばそうとする現代。現代人はそれほど殺伐とした厳しい時代社会を生きているという言い方もできるでしょう。しかし、癒しブームの根底には、「癒し」を求める私たちの心の奥にあるドロドロとした部分が、「癒し」というかたちをとって表に出てきているように思えてなりません。
 「癒されたい」と思う心は「自分は傷ついた」という意識の裏返しです。自分はこれだけ傷ついた被害者なんだ、だから癒して欲しい、と。考えてみれば、今を生きる私たちの意識の根底には、自分は被害者なのだという意識が非常に強くあるように思います。時代社会や生活環境の中で自分自身を位置付けるとき、「私は被害者である」というところに立つことは非常に心地よいことです。この心地よさと「癒し」というぬるま湯に浸かる心地よさは同質のものなのです。
 癒しブームの中で抜け落ちていることは、自分も傷つける者である、加害者であるという自覚なのではないでしょうか。人は自我を中心に生きている以上、他者を傷つけないということはあり得ませんし、加害者でないということはあり得ません。私たちは、自分が被害者だと感じる以上に加害者なのでしょう。しかし、人は自分が被害者であるという立場に立ったとき、加害者である自分に寛容になれる、いや無自覚になれるのです。
 「あなたは傷ついた被害者。あなたは悪くない」。こういうかたちで自分を見出し、認めてもらいたくて「癒し」を求める私たち。しかし、どのように私たちが見出されたいかという願望に先立って、私たちがどのように生きているのかを自覚することが求められます。私たちが生きている事実からは、どうしても逃げられないのですから。

(2005/6/30up)


 仏教には「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。『大般涅槃経』というお経に出てくる言葉ですが、これは単なる言葉を超えて考え方≠ニなっています。全ての生きるものは、ことごとく仏に成る性がある──全ての人間には、ことごとく仏に成る性がある、と。
 仏に成るということそのものが非常に捉えにくいわけですが、、、ここでは人間として本当を生きること、と曖昧な表現をとっておきます。人間は縁しだいで生活のスタイルは様々になりますよね。学校を出て就職して結婚して子どもが生まれて・・・という人もいるでしょう。しかし、縁しだいで学校を辞める人もいるでしょうし、就職をしない人もいるでしょうし、結婚をしない人もいる。犯罪を犯す御縁に出遭ってしまった人もいるでしょう。どのような生活をしている人でも、どのような生き方をしてきた人でも、たとえ殺人を犯しそれを悔いることを口にしない人でも、人間として本当を生きたいという深い願いを心の底に内在している。これが「一切衆生悉有仏性」という考え方です。
 先だって研修会に参加したとき、御講師がこんなことを言われました。
「一切衆生悉有仏性」を本当だとうなずいたら、あらゆる人間のあらゆる営み、あらゆる人間のあらゆる行動から、成仏の願いを感じ取れるはず。
御講師の名前は伏せます。なぜなら、この言葉は正確ではないから。でも趣旨はこんなことだったと思いますよ。
 暴走族の兄ちゃんが夜中に爆音をたてて走り回る…これもある意味で宗教心の表現である、と。生き生きと生きたい、でも生きられない、どうしたらいいんだ。そういう言葉で表現しきれない思いが暴走となっている。引き籠もってインターネットばかりしている子。自分の世界を守りたい、誰にも壊されたくない、だから人と接しない、人との関わりはネットを通してなんだ。自分で自分の命を絶つということで、生き生きと本当を生きられないことに「NO」を表現する人。  「一切衆生悉有仏性」は考え方≠ニ書いたけど、本当は感性≠ネのかもしれない。どのような人からも「悉有仏性」の願いを感じる力、というか。

(2006/6/30up)


 家庭生活を営むとき、その家庭のなかで「自分の頭が下がる空間」が必要なんだと、つくづく思います。
 一般的に家庭には人間が二人以上いますね。人間が二人いれば必ず揉め事が起こります。よく、「うちの家は波風ひとつありません。揉め事なんてあるはずありません」と言われる方がいるけれど、そういう人こそが家庭のなかで我慢している人の顔が見えてないということがありますよね。地獄の「獄」の字は、犬と犬が向かい合い吠え合う様、つまり言葉の通じない世界を表しています。人間二人が自分中心、自我中心の言葉を発し合うとき、言葉は人と人とを繋ぐものではなく、ただの凶器なのです。
 現代の家には、「自我中心に生きる私」を問題にする空間がありません。居間、リビングで起こった人間の諍い。これから逃げるために自分の部屋≠フ閉じこもる。一人でああだ、こうだ考えれば、相手の悪いところが余計に見えて、また腹が立つ。
 「お内仏(ないぶつ)」の前、仏前は正に自分の頭の下がる空間です。「頭が下がる」ということを具体的に言えば「自我中心に生きる私」が問題になるということです。平生は自我中心に生きる私のなかだけでモノを考えるけれど、その「私」というものの外から「私」を見せてくださるはたらきが仏なのです。仏に出会い、私を省みる視点を頂く空間が「お内仏(ないぶつ)」の前──仏間なのです。
 「お内仏(ないぶつ)」のない家庭は犬と犬が吠え合うような空間しかない家庭なのです。

(2008/4/1up)


 2004年の正月の放送された『クイズ$ミリオネア』に元千代の富士である九重親方が出演されていたそうです。御承知のように『クイズ$ミリオネア』は少しずつ難解になっていくクイズ問題に答えて、最終的に千万万円を目指すクイズ番組ですね。
 九重親方、とんとんと正解を出し150万円の問題として、次の問題が出題されたそうです。
仏教用語の「南無阿弥陀仏」の、言葉の正しい切れ目はどれ?
A:南・無阿弥陀仏
B:南無・阿弥陀仏
C:南無阿弥・陀仏
D:南無阿弥陀・仏
九重親方のご実家は浄土真宗なのだそうで、簡単な問題だ・・・と思いきや「テレフォン」を使用する、と。『クイズ$ミリオネア』は問題が分からないとき、3回助け船が出されます。「テレフォン」とは電話で友達にクイズの答をたずねること。親方の友達は「C」と答えた。すると九重親方はそのお友達のアドバイス通り、「C」とお答えになったそうです。
 もちろん、正解は「B」、「南無・阿弥陀仏」ですね。
 このお話は長浜市浄願寺住職である澤面宣了氏より教えて頂きました。世間では案外と「D:南無阿弥陀・仏」と答える人が多いのではないか。「南無阿弥陀・仏」と区切れば、「南無阿弥陀」という「仏」がどこにあるような表現となる。「南無」と「阿弥陀仏」で区切って、「阿弥陀仏」に「南無」するという私の姿勢が問題になるのだ、と。
 南無とは帰命(きみょう)。心の頭を下げるという意味です。もっと具体的に言えば、一切の生きとし生きるものを平等に救い取ろうという本願を真だとうなずき、自分だけ助かろうという自分の思いを課題にするということでしょうか。信仰は私がどうするのかという態度決定を抜きにして語れません。南無阿弥陀仏をどこで区切るのかという簡単な問いは、私の生き方を問うているような深い問い掛けなのかもしれないですね。

(2008/6/1up)



【カルト=z

 英語でいうところのカルト(cult)≠取り上げていきます。
 まずカルト≠ニいう言葉の定義の問題ですが、これが曖昧。日本では「カルト宗教。カルト教団」というふうに、狂信的、妄信的、独善的であり、マインドコントロールによって信者を洗脳する、反社会的側面を持ち合わせた新興宗教団体を指すことが多いですね。
 もともと、カルトとはキリスト教教会から独立し、独自にキリスト教の教義を解釈する小規模な集団のことを指す言葉でした。アメリカにおいて1978年に「人民寺院」なる独立系キリスト教教団(つまりカルト)の信者が900名も集団自殺を行い、カルト=社会的に危険な宗教教団という定義が定着したそうです。1995年のオウム事件のとき、アメリカ発の報道のなかで「オウム真理教はカルトである」という言葉が再三ながされ、日本においては上記の定義が広まりました。
 日本においては、非常に特殊であり反社会的要素を含む新興宗教教団以外に、洗脳による契約を契約を目的とした自己開発セミナー、洗脳による商品販売を目的としたマルチ商法なども「カルト」と呼ぶようです。
 この欄は、日本での「カルト」の定義をもとに、カルト宗教団体、カルト商法、カルトセミナーなどの問題点をみていきたいと思います。
 地域共同体においてカルトのことを啓蒙する組織はりません。自治体や学校などがそこに口を出すと、「行政や教育の宗教弾圧」と言われるからね。純粋な真宗門徒(もんと)の村のばあちゃんに「お寺の住職さん勧めてる」とビデオを売り込みにくる真宗系カルト教団がある。ばあちゃんは、親鸞さまとか蓮如さんのことが分かり、御院主さんが勧めているんならと商品を買う。平生から「この教団はカルトなんやで、こんなもんと関わったらあかんで」と啓蒙していれば、被害に遭わずに済んだかもしれないということがあります。訪問布教をするキリスト教系のカルトに入信しなければ、あの家庭は平穏だったのに、と思うこともあります。カルトのことを啓蒙することも寺院の仕事ですもんね。

 ここで注意したいことは、既成の教団と違うことをしているからおかしい、今の日本の価値観に合わないことをしているからおかしい、、、自分たちと違うからおかしい、、、といったような排他的な思想を原理にしてカルトを貶めることはしないということ。排他が排除になり差別になるような構造は違うもんね。

(2006/11/30up)


 京都府福知山市教委が全小中学生を対象に「命の大切さを考える児童生徒アンケート」を行いました。(2007年12月に実施。市立の27小学校10中学校の計約7100人のうち95%に当たる6783人が回答)
 このアンケートのなかで、「死んだ人は生き返るか」との質問に9・7%が「はい」と回答したそうです(2008/2/15「読売新聞」より)。 ふざけて回答した子どももいるのでしょうが、約1割の子どもが死者の再生を信じているという事実には驚かされます。
 こういう、子どもの心の中で生と死の区別がつかなくなるような傾向をゲームなどの影響だという人もいるでしょう。ヴァーチャル空間では人は何度も死に、そして生き返ります。それに影響を受けてしまった、と。しかし、今の子どもは賢い。ヴァーチャル空間と現実を取り違えるということはないでしょう。
 子どもの感覚でいうところの「生き返る」には来世のような感覚がありように思えます。それは、細木数子氏や江原啓之氏がテレビで喋る、まことしやかな死後世界であったり、霊魂観の影響が大きいと思いますよ。昨年、「あるある大辞典」でテレビ業界のやらせが問題になりましたよね。細木氏や江原氏の番組も同じでしょう?根拠のない占いや霊界体験といったものを放送するときは「これはフィクション≠ナす」と表示すべきです。2008年になって、細木氏の出演番組の多くが終わるそうですし、江原氏の番組に放送倫理番組向上機構が提言を行ったそうです。文句が出たから終わらせればいいという問題でもないように思いますね。細木氏や江原氏をつかって、テレビ局が放送してきた内容を徹底的に検証し、世の中にどのような影響を与えたかを明かにすべきでしょう。
 巷には細木氏のようなモノ、江原氏のようなモノが溢れています。大人があのようなモノに依って自分の人生の主体性を失うような生き方をしていると、真っ白な子どもたちにも悪い影響を与えてしまうのです。こういうモノがカルト宗教の温床にもなっているようにも思えますし。

(2008/03/01up)


■ カルトについてのリンク集 ■
真宗大谷派 青少幼年センター準備室 〜カルト問題について
日本脱カルト協会
全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)
カルト被害を考える会
弁護士紀藤正樹のLINC







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