完全燃焼
 朝廷、さらには鎌倉幕府による専修念仏の禁止は、その後もしばしばくりかえされていました。そのなかを、60歳をこえたころ、親鸞(しんらん)聖人は関東を後にして京都にかえられています。その都での生活もけっして安穏なものではなく、住居もあちらこちらと、縁をもとめて移されています。
 なぜ関東の御同朋(おんどうぼう)と別れて、ひとり京都にかえられたのか、その理由についても、聖人はなにも語っておられません。ただ、聖人は京都にかえられてから、関東においてすでに書きすすめられていた『教行信証』を完成され、さらに、その後の生活を、もっぱら著作にささげられたという事実があります。
 『教行信証』は、専修念仏に対する聖道(しょうどう)諸教団からの批判や、国家からの弾圧をうけとめ、本願念仏こそ真実の道であることをあきらかにされたものです。それは、時代をへだて、民族を越えた念仏者の歴史を、七高僧の伝統として掘りおこし、どのような人も、ともにひとしく、人間としての尊厳さを自分自身のなかに見いだして生きていくことができる道をひらかれた、人類の根本聖典というべきものです。
 さらに聖人は、その『教行信証』によってあきらかにされた広大無碍の世界を、『和讃(わさん)』をもってうたわれ、お手紙をもって語りつくしていかれました。そこには、当時の人々を縁として、遠く未来世の人々にまで、まことの道を伝えていこうという、聖人のつよい願いが脈うっています。
 そして当時、善鸞(ぜんらん)事件などにみられる幾多の異義や、鎌倉幕府の弾圧などによって動揺をつづけていた関東の御同朋たちは、その聖人のお言葉を力として本願念仏の一道を生きていったのです。
 1262(弘長2)年11月28日、親鸞聖人はその命を仏道に捧ささげつくして、90年の生涯を閉じられました。しかし、本願念仏に生きられた聖人の命は、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今日なお生きつづけ、無数の念仏者を生みだしつづけています。

東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜仏道に捧ぐ』より






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