親鸞(しんらん)聖人が京都に帰られたのち、権力者による弾圧や日蓮(にちれん)上人の念仏批判などがあいつぎ、そのために関東の御同行(おんどうぎょう)の間に信仰上の動揺がおこってきました。
聖人は、その人々にたいして、お手紙をもって惑いをただされるとともに、子息・善鸞(ぜんらん)を関東に送って、人々の力ぞえとされました。 使命を荷負った善鸞は、関東の教団を統一しようとして、かえって、有力な門弟と対立するようなことになっていきました。そのため善鸞は、聖人の子という立場を強くおしだし、また、権力者たちとも妥協し、それを利用しようとさえしました。 そうした善鸞の行為と、そのためにおこった教団の混乱を知られた聖人は、念仏の僧伽がくずれていくことを悲しみ、あえて善鸞を義絶(ぎぜつ)されました。 しかし、義絶によって、善鸞の親であるという事実まで消そうとされたわけではありません。かえって、義絶しなければならない子をもった親として、善鸞の犯さねばならなかった罪のふかさを、聖人自身が重く荷負われていきました。 東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜大悲に生きる─善鸞義絶─』より
|
わが身に、誇りも自信ももちえなかった人々は、親鸞(しんらん)聖人の教えに遇いえて、もはや善も必要とせず、悪をもおそれることのない生き生きとした日々を生きる道を知りました。それは、われわれこそ人間なのだという自覚を、人々によびおこしていきました。 しかしそれだけに、一部には、どんな悪事をおかしても救われるという教えに歓喜するあまり、非行にはしるものもあらわれました。 そうしたことが、しばしば念仏を誤解させ、領家・地頭など土地の支配者による、念仏弾圧への口実をあたえることともなりました。 そのため、聖人は、念仏に生きるものの姿勢を、くりかえしくりかえし、さとされました。 東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜大悲に生きる─念仏者のしるし─』より
|
神々を恐れ、鬼神(きじん)におびえ、日の良よし悪しを気にする人々の弱い心につけこんで、これまでの教団は、加持・祈祷・呪術にあけくれていました。それは、人々から現実を直視する眼をうばい、生活を暗くさせ、はてしのない闇にひきこんでいきました。 親鸞(しんらん)聖人は、そのような人々に、念仏は無碍の一道であることを説きつづけ、禍福(かふく)にまどうおびえから人々を解放し、仏教のあかるい智慧の世界へとよびさましていかれました。 それは、呪術や祈祷にあけくれる、われわれ日本人の精神生活を根底からゆりうごかす出来事でした。 東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜大悲に生きる─無碍の一道─』より
|