教化
 越後に流されて5年、1211(建暦1)年に親鸞(しんらん)聖人は、師・法然(ほうねん)上人とともに赦免をうけられました。しかし、聖人は京都にはもどられず、1214(建保2)年、42歳のとき、常陸(ひたち)に移られました。
 その後約20年の間、聖人は、本願念仏の教えを縁ある人々に伝えることをみずからの使命として、関東の地に生きられたのです。
 その教化は、常陸・下総・下野の三国を中心に、ひろく関東から東北にまでおよび、その歩みのなかから、各地に念仏者の僧伽(さんが)が生まれていきました。
 なお、聖人が関東の人々と語りあわれたことの一端は、帰洛ののち、その人々に書きおくられたお手紙などによってうかがうことができます。

東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜大悲に生きる』より




我が身
 親鸞(しんらん)聖人には、法難を身にうけられたとき、かえってつよめられた念仏者としての気負いがありました。しかし、越後での生活には、そのような聖人の気負いをも打ちくだくほどのきびしさがありました。後に語られた「さるべき業縁(ごうえん)のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」というお言葉には、わが身の煩悩(ぼんのう)の、底しれないふかさを思いしらされていかれた、越後時代の聖人の生活がうかがえます。
 その後関東にうつられてのち、聖人はいよいよ、かつて法然上人が折にふれて語られていた「愚痴(ぐち)の法然房(ほうねんぼう)」という言葉を、身にしみる思いをもって聞きとっていかれました。

東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜大悲に生きる─愚者になりて─』より




三部経読誦
 1214(建保2)年、家族とともに越後から関東に向かわれる途中、上野(こうずけ)佐貫(さぬき)の地で、親鸞(しんらん)聖人は浄土三部経を千部読誦(どくじゅ)することを思いたたれたといわれます。
 そのころ、関東一円には飢謹がひろまり、人々は地をはうようにして、その日その日の命をつないでいました。そして力つきた人々がつぎつぎと倒れていく。その姿から目をそむけることのできなかった聖人は、ただひたすら経典を読誦して、世の平安を祈らずにはおられなかったのでしょう。
 しかし、どれほどいとおしみ、不憫に思っても、その思いのままにすべての人々をたすけることはできません。その事実があらためて、聖人の心を重くとらえ、聖人は、浄土三部経の千部読誦の行をすてられました。
 この体験は、聖人に、いよいよ本願念仏の一道を生きとおすことを決定させたのです。その後、聖人はただひたすらに、本願の名号に徹していかれ、人々が正定聚に住するものとなることを願いつづけていかれました。

東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜大悲に生きる─正定聚に住す─』より






to index flame