親鸞(しんらん)聖人は吉水に、同じ人間としての歓びをもって、ともに生きていくことのできる念仏者の僧伽(さんが)を見いだしておられました。それは、本願念仏のほかには、もはやどのような世間的権威をも必要としない、仏法の僧伽でした。その僧伽は、あらゆる階層の人々に道心をよびおこしていき、これまで仏法とは無縁なものとされていた一般の庶民をはじめ、僧や貴族・武士などが、吉水の法然上人のもとにつどい、ともに一つの念仏に和していったのです。 もちろん、吉水につどう人々のなかにも、念仏の教えにではなく、法然(ほうねん)上人の人格にすがっていたにすぎない人々もありました。また、念仏の救いにはどのようなことも障りにはならないと、平気で悪事をおこない、吉水教団にたいする無用の非難をひきおこすものもありました。 1204(元久1)年冬、延暦寺の僧たちは、重ねて念仏の禁止を座主(ざす)真性(しんしょう)に訴えました。そのため、元久1年11月、法然上人は「七ケ条の制誡」をつくって、門弟をきびしくいましめ、それを守る誓いの署名を求められました。このとき、聖人は、僧綽空(しゃっくう)の名をもって署名にくわわっておられます。 しかし、翌1205(元久2)年10月、奈良興福寺は、法然上人ならびに弟子らの罪をかぞえあげて、処罰するよう朝廷につよく迫りました。そして、翌1206(建永1)年12月、院の御所の女房たちが、法然上人門下の住蓮房(じゅうれんぼう)・安楽房(あんらくぼう)らの念仏会にくわわったことが、後鳥羽上皇の怒りをよび、これが直接の動機となって、「興福寺の奏状」がにわかにとりあげられ、1207(承元1)年2月、住蓮房ら四人が死罪に、また、法然上人はじめ八人が流罪に処せられるにいたったのです。 このとき、法然上人は藤井元彦(ふじいもとひこ)の罪名のもとに土佐の国へ、親鸞聖人は藤井善信(ふじいよしざね)の罪名で越後の国へ流罪となりました。その後、師弟はついにふたたび相い会うときをもつことなくおわったのです。 しかし、このような非難圧迫は、これまで仏教の名をかかげてきた聖道(しょうどう)の諸教団が、すでに行証(ぎょうしょう)が久しくすたれているすがたであると、聖人は見ぬかれていました。 事実、この権力による吉水教団への弾圧も、法然上人が人々の道心のうちにうちたてられた仏法の灯(ともしび)をうちけすことはできなかったのです。それどころか、本願念仏の法のみが、この苦難の世を生きぬいていく力を人々にひらく真の仏道であることを、ひろく証しすることとなったのです。 東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜法難』より
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儚きこの世を過ぐすとて、海山稼ぐとせし程に、万の佛に疎まれて、後生我が身を如何にせん生きるために田畑を耕し、狩猟や漁をしなければならない、商いしなければならない、戒律を守ることができない、佛の教える善根を積むことができない。この私は佛から見捨てられるのでしょうか、という当時の民衆の深い嘆きが見て取れます。
1207(承元1)年春、親鸞(しんらん)聖人は、みだりに専修(せんじゅ)念仏の教えを禁じたものへのおさえることのできない怒りを胸に、流罪の地、越後の国府(こくぶ)におもむかれました。聖人35歳の年でした。そこで出会われたものは、辺地の荒涼とした自然であり、富や権力などとはまったく無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている人々のすがたでした。 そこには、善根を積むことはおろか、生きのびるためにはたとえ悪事とされていることでも、あえて行わなければならない悲しさをかかえた人々の生活がありました。 その越後の人々のなかにあって、聖人は妻恵信尼(えしんに)との間に幾人かの子をもうけられました。文字どおり、肉食妻帯の一生活者となって生きていかれたのです。そして、その生活のなかで聖人は「ただ念仏して、弥陀(みだ)にたすけられまいらすべし」という、師・法然(ほうねん)上人の一言が、いよいよ確かなものとなって心にひびきわたるのを感じていかれたのです。 今日一日を生きることに精一杯なこの人々こそ、本願を信じ念仏申すほかない人々であるという切実な思いがふかまるとともに、その念仏をどのようにしてこの人々の生活のうえにひらいていけばよいかという問いが、重く聖人の心に担われていったのです。 その歩みのなかから、聖人は、みずから「愚禿(ぐとく)釈(しゃく)親鸞」という名のりをあげられたのです。 東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜民衆に帰る』より
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