救世(くせ)観音の夢告にみちびかれて親鸞(しんらん)聖人は、その道を法然上人に尋ねようと吉水(よしみず)に向かわれました。後に恵信尼(えしんに/親鸞聖人の妻)は、そのときの聖人の姿を「後世(ごせ)の助からんずる縁(えん)にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然(ほうねん)上人にあいまいらせて」と書きとどめています。 法然上人とのはじめての出会いがどのようなものであったのか。すくなくとも聖人は、それから百日の間、「降るにも照るにも、いかなる大事にもまいりて」、その教えを聞かずにおれないものを、上人のすがたや言葉に感じとられていたのです。 そしてついに、聖人が聞きとられたのは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という一言であり、まさしく出会われたのは、その一言を人々とともに生きておられる念仏者法然その人でした。ここに仏法があり、仏法に生きている人々がいる。その歓びを、聖人自身は後に、「建仁(けんにん)辛酉(かのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」と書きとどめられ、また「曠劫(こうごう)多生(たしょう)のあひだにも/出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき/本師(ほんじ)源空(げんくう)いまさずは/このたびむなしくすぎなまし」とうたわれています。ときに聖人29歳でした。 こうして、法然上人のもとで念仏者として歩みだされた聖人の日々は、しかしけっして平穏無事というものではありませんでした。吉水教団にたいする仏教界からの圧迫のはげしさは、当時すでに、前途に容易ならぬものを感じさせていました。そのことを思えば、吉水の教団にくわわることには、むしろ嵐のなかに船をだすようなきびしさがあったのです。しかし、他に求めてついに見いだすことのできなかった歓びを、今、本願念仏の一道のなかに見いだしえたのであり、その確信は、聖人の歩みをいっそう一途(いちず)なものにしていったのです。 とくに1205(元久2)年、師法然上人がその念仏の旗じるしをたかくかかげられた著書『選択本願念仏集』の書写と、上人の肖像を画くことさえゆるされたことは、親鸞聖人に生涯にないふかい感動と使命感をよびおこしたのでした。 東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜本願に帰す』より
|