若き日の修学
 9歳から29歳までの、人生においてもっとも多感な少・青年時代を、親鸞(しんらん)聖人は比叡の山に生きられました。
 伝教(でんきょう)大師によって開かれた比叡山は、大乗菩薩道の根本道場として、その使命を自負し、権威を誇っていました。しかし、聖人が学ばれたころには、その山も、すでに、奈良の諸宗などと同じように、現世の祈祷(きとう)や、現実の生活とは無関係な学問の場になりはてていました。
 しかも、事あるごとに、寺院に加持(かじ)・祈祷を求めることができたのは、つねに社会の上層を占める人々でした。そのため、寺院はしだいに貴族社会とむすびつき、その寄進をうけて、広大な荘園を支配する領主となっていきました。そのうえ、僧兵とよばれる武力をすらもつようになり、時代の乱れをいよいよはなはだしいものにしたのです。
 権力とむすびつくことで、しだいに世俗にまみれていった寺院は、さらにその内部にも身分的な対立をうみだし、争いのやむこともないありさまでした。もちろん、寺院の堕落・騒乱をよそに、ひたすら修学にはげむ僧たちもいなかったわけではありません。しかし、その人たちも、多くは、ただみずからの学問の世界にのみ閉じこもる人たちでした。
 そのころの聖人については、受戒して僧となり、のちに堂僧(どうそう)をつとめていられたことが知られているだけです。
 ただ、聖人の教えをしたう人々の間には、1191(建久2)年、19歳の秋、聖人は、磯長(しなが)の聖徳太子廟(びょう)にこもられ、そこで夢告(むこく)をうけられたと言いつたえられています。その夢告のなかの、「日域(じちいき)は大乗(だいじょう)相応(そうおう)の地」「汝(なんじ)の命根(みょうこん)まさに十余歳なるべし」「善信(ぜんしん)善信(ぜんしん)真菩薩(しんぼさつ)」という言葉は、そのころ聖人がどのような問いをもって生きておられたかを示しています。
 すなわち、賜った命の限界を見すえながら、聖人は、どこに生死(しょうじ)の迷いをはなれる道がひらかれるのかという苦悶を、夢告をうけるほどまでにつきつめておられたのでしょう。山での20年間は、いよいよふかまってくるその問いをかかえての、修学の日々であったのです。


東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜道を求めて─懸命の修学─』より


 比叡山延暦寺は伝教大師最澄によって開かれた、日本仏教の根本道場です。しかし親鸞聖人が居られた当時の比叡山は仏道を学ぶ場所ではありませんでした。
 原因の一つとして比叡山の貴族化が挙げられます。当時、貴族の二男・三男が多く出家して比叡山で修行しておりました。当時の比叡山では、世間での身分がそのまま比叡山での階級(身分)となっていたのです。
 仏教に世間の身分を持ち込むことは、仏教の世俗化です。身分といっても、それは人間が作った一つの価値観でしかない。人間が時代社会の中で持ってしまった価値観を超えようとする教えが仏教だったはずです。当時の比叡山は身分という人間が作った価値観を超える視点がもてない状況だったのでしょう。
 勿論、当時の比叡山の僧が全て堕落していたとは考えられません。真摯に仏教を学ぼうという志をもった人も多くいたでしょう。しかし、その仏教の学び方は、非常に専門的に学問として仏教を学ぶ≠ニいう在り方であり、限られた者しかできない修行をする≠ニいう在り方だったのです。
 こういった仏教の学び方をしていた僧の在り方は非常に真面目だったでしょうし、確かに他者からの評価も高かったでしょう。しかし、こういう学び方を極めれば極めるほど、難解が学問を極める∞厳しい行に耐える≠ニいう行為そのものが目的となり、その行為に固執し、更にその行為をしている自分に満足してしまい、仏教が自分自身の生活、我が身の事実から離れていくのです。
 後の親鸞聖人の歩みをみるとき、比叡山時代の親鸞聖人は、身分で僧の階級が決まるような比叡山の在り方から離れようとした真摯な修行者だったはずです。
 しかし、難解な学問としての仏教を学ぶ∞厳しい修行に耐える≠ニいう行為だけがある比叡山の仏教の学び方に疑問を持たれていたことも容易に想像できます。親鸞聖人がそこに満足されていたならば、二九歳にして比叡山延暦寺を捨てられることはなかったはずです。親鸞聖人はその仏教の学び方、行じ方そのものに問題を持たれていたことは間違いありません。

(2005/10/29up)


 私たちがこの現実生活を、少しでも真面目に生きようとすると、無数の問題に向き合うことになるはずです。それは僧侶であるとか在家であるということに関係しません。社会全体をみれば、戦争や差別をはじめとする様々な社会問題があります。身近なことでいえば、人間関係や経済の問題、自分の病気や老後の問題もあります。
 私たちの最も大きな問題は、現前する問題を問題だと意識するけれど、それを真正面から受け止めることなく生活を続けていることなのでしょう。何もできない無力感と焦燥感で自己嫌悪に陥る。けれど生活のどこかで気晴らしの瞬間を持てたなら、問題を忘れてしまうのです。
 親鸞聖人当時、比叡山に居ることは生活の安定につながっていました。世の中に大乱があっても、食いっぱぐれはなかったわけです。親鸞聖人が下級とはいえ貴族の出であることを利用し、親鸞聖人ほどの聡明さで仏教を学んでいけば、そこそこの出世はできたでしょう。
 親鸞聖人は29歳にしてそれら全てを捨てて、比叡山を下山されます。
 比叡山の世俗化し観念化した仏教では、自分自身は救われないのだという深い問題意識が、生活の安定を捨てさせたのです。
 私たちは、自らの問題意識を自分の生活や人生と一つにできないまま、世の中に流され、何一つ行動を起こせない浮き草のようなものかもしれません。しっかりと地に足をつけて、問題を受け止める場所を持たないわけです。
 もし浮き草のような生き方しかできない私の現状を破るものがあるとすれば、私に先立って自らの問題意識をしっかりと受け止め、道を歩んだ人の生涯と出遇う以外ほかにないような気がします。
 道を求めて歩まれた親鸞聖人の生涯を学ぶということがそのまま、問題意識から逃げることなく、道を求めるとはどういうことなのか≠教えてくださっているのかもしれません。

(2005/10/29up)




六角堂参籠
 1201(建仁1)年、29歳のとき、親鸞(しんらん)聖人は、聖徳太子の建立とつたえられる六角堂に、百日の参籠をつづけられました。
 このころ、聖徳太子の名に祈りをこめる人々がたえなかったといわれています。当時の社会は荒廃をいよいよつよめ、人々はその日その日を生きあぐねていました。しかもたのむべき仏教界は堕落をふかめていました。何によって生きていけばよいのか、その道を見いだすことのできなかった人々は、仏法を敬い、世のために自分をすてて生ききられた聖徳太子の名にすがったのです。
 もともと、比叡山を開いた伝教大師もまた、聖徳太子にふかく帰依した人でした。そして今、解くことのできない問いをかかえて苦悩された聖人もまた、あらためて聖徳太子に導きを求められたのです。
 聖人は、ただひとり、六角堂の本尊の前に身をすえられました。出家僧とか堂僧などとして行を積むのが仏道であるのか。山のすがたをみるとき、そうとは思えません。山をすてて街に出で、わが身に素直に生きていくなかに仏道があるのか。そういいきるには、ためらいがありました。そうした惑(まど)いが、教えにふさわしく生きようとすればするほど、あらわになってくる煩悩の身とひとつになって、聖人の心を追いつめていきました。
 救いをもとめて、聖人は坐りつづけられました。
 参籠して95日目の暁、夢のなかに聖人は「行者宿報(ぎょうじゃしゅくほう)にてたとい女犯(にょぼん)すとも、我玉女(ぎょくにょ)の身となりて犯(ほん)せられん。一生の間能(よ)く荘厳(しょうごん)して、臨終に引導(いんどう)して極楽に生ぜしむ」という救世(くせ)菩薩の声を聞かれました。菩薩は、さらに言葉をついで聖人に告げられたといわれます。「此(これ)は是(これ)我が誓願(せいがん)なり、善信(ぜんしん)この誓願の旨趣(ししゅ)を宣説(せんぜつ)して、一切群生(いっさいぐんじょう)にきかしむべし」と。その夢告は、生死の迷いをはなれていくベき仏道が、願生浄土の道としてこの生死のなかにこそ成就していることを告げていたのです。
 このとき聖人は、京の街でひたすら願生浄土の道を説いていられる法然(ほうねん)上人のもとを訪れる決意をされました。
 晩年の聖人は、聖徳太子を父母のようにしたわれ、法然上人に出会い、本願を信ずることができたのも太子のおかげであると、その恩徳(おんどく)を讃(たた)えておられます。


東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜道を求めて─六角堂参籠─』より


 親鸞(しんらん)聖人が26歳のとき、京都からの帰路に比叡山の麓にある赤山明神にお参りになりました。聖人が静かにお参りしていると、一人の身分卑しからざる貴婦人が近づいてき、聖人に話しかけます。「私は長年、比叡山延暦寺にお参りしたいと願ってきました。どうか私も延暦寺にお伴させていただけませんでしょうか」。親鸞聖人は答えます。「あなたは何もご存知ないでしょうが、経典にも女人は穢れ多く仏道の妨げになるとあります。ですから延暦寺は女人禁制なのです」。すると貴婦人は問い掛けます。「比叡山の山の動物にメスはいないのでしょうか。また、仏教は全ての人が等しく救われると説きますね。その全ての人に女人は含まれないのでしょうか」。親鸞聖人は女人の言うことに何も答えられず聞くのみだったそうです。
 この「赤山明神女人の問い」は伝記として残る程ですから、おそらく親鸞聖人の心に響いたのでしょう。この「女人の問い」を通して考えられる親鸞聖人が延暦寺時代に課題とされたことは仏教の公性ということではないでしょうか。
 男と女の違いが仏教の救済に分け隔てを作ることへの疑問。それだけではない。学問の有無、社会的身分の貴賎、財力、能力等々、仏教の救済に分け隔てを作ってきたのが当時の延暦寺の仏教だったのです。
 自分一人の救い、また自分の仲間だけにしかない救い。仏教が説く救いはそういった狭いものなのか。そうではない。そうではないけれど、全ての人が救われていく道を明かにする、本当の意味での仏教の公性を体現して生きる僧侶がいないではないか。
 親鸞聖人は、仏教の教義に説かれるがごとく、分け隔て無く全ての人が救われていく道を求められたのではないでしょうか。
 親鸞聖人は道を求めて比叡山延暦寺を捨てられたのです。親鸞聖人9歳のときの出家は聖人の家庭の事情がさせた、言わば発心なき出家です。29歳のときの延暦寺下山は親鸞聖人が自ら選びとられた求道なのです。私はこれを再出家と呼びたい。
 親鸞聖人が再出家の道を選び取られ、今一度本当の仏教を学ぼうと決意されたとき、具体的に行くべき場所、遇うべき人があったわけではありません。延暦寺にとどまることも、今一度別の寺院で修行し直すことも、還俗し世間に帰ることもできない。何一つ具体的にするべきことがない、言わば行き詰まりの状態だったのでしょう。
 親鸞聖人はその人生に行き詰まってしまったまま、聖徳太子にご縁のある六角堂に百日間参籠されます。聖徳太子は「日本の教主」と呼ばれ、日本の仏教は聖徳太子の尽力で広まったわけです。つまり親鸞聖人は日本仏教の源流にある方を尋ねることで、ご自分が往くべき道をさがそうとされたのでしょう。

(2006/10/31up)


 現代日本の多くの人がそうであろうと思われますが、自ら宗教を選び取った人は少ないと思います。生まれた家が浄土真宗であったから、嫁いだ先が浄土真宗であったから等々、社会的な事情によって宗教を選ばされたわけです。
 自分の生活の問題を少しだけでも真面目に考え、その問題を深く問うとするとき、浄土真宗の教えが自分の人生や生活を深くいただくための指針となるときがくるかもしれません。名のみ真宗の門徒と名告っていた者が、実をともなった本当の意味での真宗門徒となる、または真宗門徒となろうと願いを建てるわけです。自覚的に自分の人生を照らす灯として仏教を選び取ったということです。周りに流される中で何となく関わってきた仏教というものが、実は私の人生を深く頂きなおす指針であった。こういった体験があって初めて人は「仏教を選んだ」ということになるのでしょう。
 私たちが道に明け暮れてどうしようもなくなったとき、私に先立ってご自分の人生を明らかにしようと命懸けの歩みを進めてくださった方が身近に居ることを忘れてはなりません。その親鸞(しんらん)聖人という方の生涯と教えに出遇い直すことが、自分の人生を明かにしていく灯になるのです。

(2006/10/31up)


 六角堂は聖徳太子に御縁の深い寺です。親鸞(しんらん)聖人はその生涯のなかで、悩み道を見失いかけたとき、聖徳太子の御縁のある場所に行かれます。後に親鸞聖人は聖徳太子を「和国(わこく)の教主(きょうしゅ)」と讃嘆されます。「教主」とはその名の通り「教え主」という意味で、仏教において「教主」は釋尊──お釈迦様にしか使われない尊称です。「和国の教主」、つまりこの日本において釋尊に匹敵する仕事を聖徳太子はされたのだと、親鸞聖人は讃嘆されているわけです。
 聖徳太子以前に仏教経典や仏像は日本に輸入されました。しかし、それは物≠ェ輸入されたのであり心≠ヘありません。仏教が本当の意味で伝わるとは、仏教の教えに頷き、教えの通り生き、教えを縁ある人に伝えようとして、はじめて「日本に仏教が伝わった」と言えるのです。この日本において、その仕事を担われ、実践されたのが、誰でもない聖徳太子でした。そういった意味で晩年の親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」と讃えられたのです。
 道に行きくれた親鸞聖人が、聖徳太子に縁のある場所に訪れられたのは、まさに日本のおける仏教の源流を尋ね、真に求めるべき仏教とは何かを尋ねなおそうとされたのです。
 親鸞(しんらん)聖人当時の仏教寺院の特徴は、非常に専門的な仏教教理を学び、厳しい修行をする場所でありました。それは一見、仏教の本流のようにみえますが、換言すれば難解な教学を学び得る知識と知能を持った者だけ、厳重な修行を行い耐えることができる能力を持った者だけが、そこに居ることを許される場所だったのです。それ以外の者が関われる機会は、財力権力を持ったものが「財施(ざいせ)」というかたちで寺院宗派に寄進するときだけでした。
 知識も知能も能力も、そして権力も財力もない民衆≠ヘ「仏教」というものに触ることすらできなかった。生きるために働かねばらならない、生きるために殺生をしなければならない、生きるために嘘をつかねばならない・・・生きるために仏教の戒律を破ることしかできない民衆にとって、仏教はまさに高嶺の花だったのです。
 和国の教主たる聖徳太子が日本にひろめてくださった仏教は、このようなものだったのだろうか?、私はこのような仏教で本当に救われていくのだろうか?、苦悩する民衆はこのような仏教で救われていくのだろうか?。親鸞聖人は仏教の普遍性──いつでも・どこでも・だれでも救われる──がどこで成り立つのかを課題として持ちつつ、六角堂に参籠されます。

(2007/11/01up)


 六角堂参籠九十五日目の暁、疲れからか浅い眠りに入られた親鸞(しんらん)聖人は聖徳太子の化現と言われる救世観音菩薩、その後の人生を変えてしまう夢告(夢の告げ)をうけられます。
行者宿報にてたとい女犯すとも、我玉女の身となりて犯せられん。一生の間能く荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしむ
『女犯偈(にょぼんげ)』として広く知られた夢告。「あなたが女性と交わりをもったとしても、私はあたたを必ず救いますよ」という意味ですこれはただ単に性欲ということだけを問題にしたのではありません。女犯、妻帯、結婚という普通の社会生活を問題にしているのです。
 仏教教団が戒律という名のもとで、女犯(妻帯)や肉食、殺生を禁じ、仏教の清浄性を保とうとするということは、その戒律を破らねば生きていけない人を救いから排除するということになります。寺院≠ニいう言わば守られた場所にいる一部分の仲間にしか成り立たない救いに真はありません。『女犯偈』は、その閉鎖的な救いの有り様を超え、いつでも・どこでも・だれでもが救われていく仏教を求めよという意味だったのです。つまり、仏教の普遍性を自ら証明せよという意味だったのです。
 後に親鸞聖人は肉食妻帯の在家生活を営みつつ仏弟子として生きる、まさに前人未踏の道を歩まれます。それは、僧侶≠ニいう特別な地位を与えられた者として生きるのではなく、一人の社会生活者として社会との関わりを持ち生活しつつ、仏教の本意に触れていくという生き方でした。
 夢告というと荒唐無稽なおとぎ話のように感じますが、宮城(みやぎ・しずか)先生はこの夢告を「夢に見るほどの求道心」と言われました。自分がおられた仏教界というものの閉鎖性に悩み、悩み、悩み、そして「真を求めたい」という強い願いが、夢告というかたちをとって親鸞聖人のなかに現れたのです。
 その夢告に出会われたのち、親鸞聖人は京都吉水におられた法然上人のもとを尋ねられます。法然上人こそが当時の日本で唯一、いつでも・どこでも・だれでも、えらばず・きらわず・みすてず救われる仏教の普遍性を説いておられた方だったのです。

(2007/11/01up)






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