誕生
 1173(承安3)年、宇治にほど近い日野の地に、親鸞(しんらん)聖人は誕生されました。父は日野有範(ありのり)。身分の低い公家であったが、のち隠棲していたといわれています。母については、源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)であるとつたえられていますが、たしかなことはなにもわかっていません。
 聖人誕生のころ、都では平氏一門が栄華をきわめていました。しかし、その平氏もわずか十二年の後にはほろび、かわって源氏一門が武家政治への道をひらきはじめることとなりました。しかもその間には、源平二氏の戦いや、比叡山・奈良の僧兵たちの争いのために、東大寺・興福寺をはじめ諸大寺が焼きはらわれてしまうという事件があいついでおこっています。それは、それまで人々に尊ばれてきていたものが、その権威を失い、人々のものの考え方が根底からくつがえされていくような、動乱の時代をあらわす出来事でした。そのうえ、地震や大火などがあいつぎ、さらに飢謹や疫病などのために、死者が都にあふれ、その死臭が人々の不安をいっそうふかいものにしていました。
 誰も彼も、悲しみや苦しみに耐えながら、その日一日を生きぬくことに精一杯でした。ただそれだけに、その時代社会のすがたそのものが、人々に人間として生きていることの意味を問いかけていたともいえるでしょう。
 聖人は、そのような時代に、人として生をうけられたのです。


東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜人と生まれて』より


「人間というものは、人間の子として生まれただけでは人間になれない。人間は人間になるためには実にいろいろなことを学んでいかなければならない。人間とは何か、人間を人間にするものは何か」
 1920年、バングラディシュ(当時はインド)で狼少女≠ェ二人発見されました。四つ足で走り生肉を食べる。昼間は物陰で眠り、夜間に動き回り遠吠えをする。その習性は当に狼そのもの。幼い頃、バングラディシュ上空で起こった飛行機事故。奇跡的に二人の赤ん坊が助かりました。その赤ん坊は人の住まないジャングルに投げ出されたのですが、彼女たちを育てたのは狼だったのです。(福村出版『狼に育てられた子』)
 狼に育てられた彼女たちは狼となりました。蛙の子は蛙。狼の子は狼。しかし、人間の子は動物学上の人≠ノ生まれただけでは人間とはならない。育った環境によって狼にもなるわけです。このことを踏まえて、林竹二先生は先の言葉を言われます。「人間とは何か?」、「人間を人間にするものは何か?」
 私たちは人≠ニ生まれてはきました。しかし、自分のことを人間≠セって言えますか?。言えるとすれば、どこで言えるのでしょうか?。生まれて、生きて、欲望のまま死に向かう・・・。
 私たちは人間≠ネんでしょうかね。

(2003/11/11up)




出家・得度
 1181(養和1)年、親鸞(しんらん)聖人は慈円(じえん)のもとで出家得度(とくど)し、範宴(はんねん)と名のられました。聖人9歳春のことであったといわれます。
 その出家の動機については、聖人一家に不幸な事情があったからとか、貴族の子弟の多くが出家させられた当時の風習によるとかという説があります。
 いずれにしろ、聖人自身の選びに先立って、聖人をうながす事情があったのでしょう。聖人はそれを仏縁として、出家への道をふみだされたのです。
 苦しみ、悲しみにうちひしがれながら、しかもそれを訴える言葉も、場所ももたない人々のすがたを、幼い眼に焼きつけてこられた聖人にとって、出家の道は、人間として生きる意味を尋ねていく唯一の道であったのです。


東本願寺出版『宗祖親鸞聖人〜発心』より


 松本梶丸師がある文章で紹介して下さったことです。テレビで「進行性筋萎縮症」という難病と向き合う子どもの特集をしていたそうです。画面はすでに症状が進んで、ベッドの上に寝たっきりになった十六歳の少年のところへ、車いすの十二、三歳の少年が近寄って対話をする場面。ベッドで寝ている少年の画面に「この少年はこの撮影の五日後に死亡」と記されてあったそうです。車いすの少年は、五日後に亡くなっていく少年に「生きるってどんなことだ」と尋ねます。ベッドの少年は、澄んだ静かな声で答えたました。「全力投球!」。
 人間は問わずにおれないのです。「生きているとはどういうことなんだ」と。
 私たちは日常の忙しさでその問いを忘れ、欲望の充足でその問いを曖昧にしているのです。難病と向き合うという状況によって、少年の感性は研ぎ澄まされ、生きている≠ニいう事実そのものが持つ原初的な問いを出させたのでしょう。

(2004/10/29up)


 親鸞聖人が9歳で出家されようとした時、慈円は「お前は幼すぎる。十五歳になってからもう一度来い」と言われたそうです。その慈円に対して親鸞聖人は、
あすありと、思ふこころのあだ桜
夜半に嵐のふかぬものかは
と返されました。「桜は明日見ればいいという心が仇になって桜を見ることができないことがあります。どうして夜中に嵐が吹かないと言えますか?」。つまり、何時死ぬか分からぬ身を生きているのに、出家を後回しにして、仏法への学びを遅らせるなどあり得ないのです、という意味でしょうか。
 聖人は周りの状況で出家させられたのですが、この時点でそれが自らの選びとなっているのです。

(2004/10/29up)


 親鸞聖人が出家得度された時代は平安末期です。平安末期と言えば源平の合戦の時代。親鸞聖人が幼少を過ごされた京都は戦乱の毎日でした。また飢饉、大火事が多発します。町中に累々と居並ぶ死骸。これを見て少年親鸞は何を思ったでしょうか。
 また価値観が激変した時代でもあります。それまでの貴族中心社会から武家社会へ。それまで貴族から貴族へ権力が移行するような政治的変動とは比べられないほど、世の中が変わっていく≠ニいう感覚を当時の人は持ったことでしょう。
 何を信じていけばよいのか。何を拠り所に生きていけばいいのか。どこに向かって生きていけばよいのか。
 民衆の苦悩は、時代社会の雰囲気として幼少の親鸞聖人に伝わったことでしょう。
 そういう状況の中で親鸞聖人は出家し、仏道を歩まれるのです。

(2004/10/29up)


 「出家する」というと特殊な仏教界というものに入る、特別なコースを選んだような印象を受けます。
 しかし、出家は発心≠ナす。心を発こし、人が人として生きる道を求める、自分が自分として生きる道を求める。これが発心です。
 平安末期、「どう生きていいのか分からない」という民衆の声なき声を聞き、「生きるってどんなことだ」という問いに目覚めた少年・親鸞聖人は、自らの選びで出家します。これが発心です。
 私たちの人生の中で、もし「発心」ということがなかったならば、状況に流されて生きる畜生と何ら変わらないのではないでしょうか。

(2004/10/29up)






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