「斎(とき)」とは
仏事の後に頂く食事のこと≠ナす。





【食べ物って何?】
 何で食事を頂く前に合掌し「いただきます」、食事を頂いた後に合掌し「ごちそうさま」と言うんでしょう?。「いただきます」「ごちそうさま」って誰に対して言ってるんでしょう?。
 よく言われることとして作ってくれた人≠ノ対して言う。・・・間違いじゃないけど、それだけ?。
 そもそもです、食べ物とは何なのか。肉というモノ、魚というモノ、野菜というモノ、米というモノが初めからあったのではない。食べ物とはいのち≠ネんです。
 しかも、人間に食べられるために生まれて生きているいのち≠ネど存在しません。ですから「食べる」ということには「殺」ということが常にあるわけです。
 しかしながら、私たちも食べないと生きられないですよね。そこで、「食べないと生きられないんだから他の生き物を殺したっていい」となるのか。それとも「殺」の「罪」をしっかりと見極めるのか。これは人間としての生き方が問われるような問題なんです。
 古来より日本人は、食べ物を食する前と後に合掌してきた。これはいのち≠頂くんだ、頂いたんだということを確かめていたんですよね。更にいのち≠頂かねば生きていけないことへの「罪」を懺悔し、いのち≠頂き自らのいのち≠生かさせてもらっていることに対して「感謝」していたんでしょう。
 肉も魚も野菜もパックに入ってスーパーで売られている時代。ある子どもは「魚の絵を描いて」という課題に真四角の豆腐のような絵を描いた。よく聞くと魚の切り身≠フ絵を描いて魚≠セと。水族館で泳いでいる生きた魚と食卓に出る魚…。その子にはこれが結びついていないんです。肉≠ネんか、そういった傾向がもっと強いのでは?。もしかすると野菜≠植物だと思ってないかも。
 食べ物はいのち≠ネんだ、食べ物には「殺」ということがあるんだということが見えにくくなっています。 これはある意味で大問題なんですよね。
 大谷派には「食前の言葉」「食後の言葉」というものがあります。これには「浄き食」という言葉でいのち≠押さえているんですよね。これを毎食唱えよとは言いません。でもこの言葉を精神だけは忘れずに、毎食いのち≠ノ「いただきます」「ごちそうさま」と言って欲しいですね。
 そういう行儀がないと、食べ物のことを美味い・不味い、高い・安いってことだけで考えちゃって、本当に大切なことを忘れちゃうから。逆に言えば行儀が本当の意味を何時でも教えてるんです。


【斎(とき)】
 しつこいですが、斎(とき)とは年忌法要などの仏事が終わった後に頂く食事のことです。
 本来は寺院で生活する僧侶の食事のことを斎(とき)と読んでいました。寺院での僧侶の食事ですから、基本的に精進料理です。
 斎≠ニいう言葉には「正しい」「慎み」という意味があります。古来より日本仏教では、斎(とき)という言葉で、正しく慎み深い僧侶の食事=精進料理≠表してきたわけですよ。私たちの浄土真宗では僧侶であっても肉食妻帯をしてきたんですけど(これには理由がある)。
 僧侶の食事を表す斎(とき)という言葉が、総じて仏事の後の食事を表す言葉となりました。
 斎(とき)に「御」をつけて「御斎(おとき)」という言い方もします。
 蛇足ですが、お寺にあげて頂くお米を「斎米(ときまい)」といいます。「とくまい(徳米?)」と言われる人がいますが、言葉の聞き間違いです。


【斎(とき)色々】
 御斎(おとき)を家で食べる機会が減ってきましたね。料亭のような所に行って食べるわけですが、何か味気ない。ああいう所の料理は全部同じだし。家で頂く御斎(おとき)は、その家その家の自慢の一品≠ニかあって楽しみなんだけど。漬物とか妙に美味いんですよね。
 何十人分の料理の支度をするのが大変だったり、家が手狭で仕方がない部分もありますけどね。一昔前は親戚が手伝うってことが当たり前でした。そこで女性のコミュニケーションがあったわけですよ。煮物の味加減はこれがベストなんだとか、漬物にこれを入れると美味しくできるんだとか、ある意味の情報交換です。でも今は台所自体、大勢の人が入ることが出来るスペースがないもんね。
 年忌法要などの後に「御斎(おとき)をどこ──家なのか外の料亭──で食べるのか」を前もって教えてください。これは坊さんに限らず参詣者全員に前もって通知するべきでしょうね。みなさんもご都合があります。家で食べれば早く終わる、外で食べれば遅くなるわけですから。


 御斎(おとき)は単なる食事ではなく仏事≠ナす。
 ですから必ず「食前のことば」「食後のことば」を唱和します。ほとんどが私の独唱になってますが、「いただきます」とか「ごちそうさま」は唱和できるはずなので、ご一緒に。
 酒食をする場というより、年忌法要なら亡き人を偲ぶという場でもあります。また亡き人が仏事を通して集めてくださった人と人との繋がりを深める場でもあるでしょう。そしてなりより、法談がなされる場なのです(ほとんどないけど)。


 昔から日本には「ハレ」と「ケ」というのがあります。「ケ」というのは日常生活のこと。「ハレ」というのは慶弔などの非日常的な行事。「ハレ」の日は、その行事を主催する家は、それはそれは丁寧に来客を接待しなければならないわけです。仏事などは「ハレ」に入りますよね。だから御斎(おとき)は、その家ができる限りのことをしてきたんです。日本が貧しかった時代、仏事の御斎(おとき)は御馳走でした。
 時代が変わって日本が豊かになった。今でも「ハレ」と「ケ」の感覚は、その言葉は知らなくても残っています。日本が豊かになったぶん、「ハレ」である御斎(おとき)にお金をかけることができるようになりました。結果、過度に豪華な食事が御斎(おとき)として出されることが多くなってきています。その豪華な食事は当然食べ切れません。パックに入れて持って帰るんですけど、夏場なんかそのままゴミ箱行き、、、ということもありますよね。仏事である御斎(おとき)で、これは問題有りです。
 中国なんかでは、食に招かれた時に食べ物を残すのが礼儀なのだとか(充分な接待でしたということを表現するため)。でも、ここは日本。食前食後に合掌していのち≠ノ懺悔と感謝の意を表してきた国ですよ。
 御斎(おとき)を大事に思ってくださることは尊いこと。でも華美が行き過ぎることに問題があります。普通に食べきれる量でいいし、無理してお金をかけることもないんじゃないでしょうか?。


 御斎(おとき)を出すことができない。だから志を包まれる場合もあります。その場合の表書きですけど、「粗飯料」とか「粗膳料」は違いますよね?。日本人の感覚だと思いますけど、持てなす時にへりくだるということはあるでしょう。食べ物=いのちの代わりに志をお出しするわけです。だからこの場合は「粗」はさけるべきではないでしょうか。
 「御斎」と書かれるのが最も本義に適っているように思われます。



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