御命日を機縁として  児玉暁洋師

御命日
それは 死者と生者が対面する日
御命日
それは 死者から生きることの意味が問われる時
その人が命終わったその日を
何故いのちの日≠ニ呼ぶのだろう
ある時生まれて ある時死ぬ死への生
それが本当のいのち≠ネのだろうか

親鸞聖人の御命日
大無量寿経を真実の教えと定められた親鸞聖人
動乱の世に九十年の生涯を力強く生き抜かれた親鸞聖人

われらは親鸞聖人の御命日に集い
帰命無量寿如来と「正信偈」を誦する
無量寿 それは本願無生之生
無量寿 それは浄土への生
それこそが本当のいのち
聖人の御命日を機縁として
わわらは無量寿に目覚める
御命日は 真実のいのち≠ノ目覚める時
御命日は だからおんいのちの日

釈尊から親鸞聖人にまで そして
親鸞聖人から私にまで到りとどいている念仏の歴史
御命日を機縁として われらは 今 その流れに入る
私にまで伝えられた仏法を子供達に伝えてゆく
願力無窮の故に必ず伝わってゆく
死の闇に閉ざされた未来が
今 浄土へと明るく開かれてゆく


(東本願寺出版 1991年度『真宗の生活』より)




【「命日」 渡邊晃純師】
 私たちは誰かが亡くなった日のことを命日といいます。役所へ行けば、たいてい、死亡年月日といいます。さて、それでは、なぜ、「命日」というのでしょうか。
 「命日」は、命の日と書きます。これは、私どもに先立って亡くなった方が残していってくださった本当の「贈りもの」だと思います。命日をご縁に仏事を勤め、その仏事に出席した私どもに、「どうか、あなたがこの世に生を受けた、その命の意味について明らかにしてほしい」と、問いを投げかけられているということ、それが「贈りもの」という意味です。法事は、命の意味について明らかにする日です。
 そういえば、『正信偈(しょうしんげ)』の冒頭にはよく知られているように、「帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来(にょらい)」と書かれてあります。この無量(量ることのできない)なる寿(いのち)に目覚めよ、というのが、この亡くなった日を命日として法事を勤める意味なのです。

 よく「いのちを大切に」といいますが、いったい「いのちを大切にする」とはどういうことを指すのでしょうか。長生きすることでしょうか。それとも健康に留意することでしょうか。それなら、若死にした人は、いのちを粗末にしたことになります。病気の人も粗末にしたことになります。そう考えると、長生きすることや健康に留意することがいのちを本当に大切にすることになるとはいえません。いのちの器を大事にしたのかもしれませんが、いのち≠大切にしたとはいえないのではないでしょうか。
 器を大切にしたという意味では、「いのちを大切に」とはせいぜい健康で長生きをしなさい、というくらいのことを言っているにすぎないことになります。このように、いのちを器という実体としてとらえていると、ついにいのち(無量寿=真実の自己)には出遇えないのではないでしょうか。
 では、無量寿なるいのち≠ニは、何を指すのでしょうか。八十歳の者も十歳の者も、健康な人も病気の人も、同じ一つのいのちを生きている。同じ一つのいのちが、あるときは老人、あるときは若者、またあるときは健康、あるときは病気を縁として発露しているのです。その同じ一つのいのちのはたらき≠、無量寿と見いだしたのです。
 器をいのちとしている限り、それは他との比較された「相対的ないのち(=私)」しか生きていないことになります。健康で若いことは受け入れるけれども、老いることや病気は受け入れられなくなります。つまり、いのちが与えられていて初めて、私が存在するのに、それがいつのまにか顛倒して、「わたしのいのち」と、いのちの事実に反してしまうのです。これこそが罪ということです。私のものでもないのに、私のものとするのですから。
 その罪の結果として、私が私の身の事実(例えば、老いること、病気の自分)を受け入れられなくなって、自分を嫌ったり、見捨てたりということがそこに起きてしまうのです。
 いのち≠ヘ私のものではない、いのち≠ヘいのちのもの、いのち≠ヘ尊いものだという発見、それが仏教であったのです。これが、亡くなった方が後に残った者に命日≠残していかれた意味なのです。このことをほとんど唯一の機会として、器のいのちではない、無量寿なるいのち=Xを尋ねていけよと。
 真宗の生活(あるいは、生活が真宗である)とは、生活が、この尊いいのち≠ニの出遇いを開く縁なのだという意味から言われるのです。
(東本願寺出版 2001年度『真宗の生活』より)



【月命日/祥月命日】
 「命日」という大切な日について、児玉暁洋(ぎょうよう)師と渡邊晃純(こうじゅん)師という大谷派のお坊さんの文を引きました。
 「命日」は、亡き人が浄土にいのち≠還された日。その日を縁として仏事を勤めるのは、改めて亡き人との出会い方≠確認するという意味もあるでしょう。またおんいのちの日≠通して、自分がどのようないのち≠生きているのか問い直すという意味もあるんでしょう。
 仏事とは、仏の教えを聞き、自分を問う場なのですから。
 渡邊師は「命日」を亡き人から遺された者への贈り物≠ニ言われます。平生の生活の中で問うことのできないいのち≠問う。その機会を亡き人は、死して縁ある者に遺していってくださったのです。
 親しい人を亡くした日を「祥月(しょうつき)命日」、毎月の日を「月命日」をいいます。例えば、7月19日に亡くなっておられる方は、祥月命日が7月19日、月命日が19日です。


【命日参りを…】
 命日参り(祥月命日参り/月命日参り)を、もし良覚寺に住職に勤行を依頼するにはどうしたらよいのでしょう?
 まず、正確な月日を電話でお教えください。その時に時間の打ち合わせをします。住職の時間の許す限り、家人のご都合に合わせます。
 用意するものとして、給仕関係はロウソクと線香、輪燈に電球でなく油を使っておられる家はそれの準備もお願いします(お内仏のお給仕をご参照ください)。家人は念珠、家にあれば肩布(かたぎぬ/門徒(もんと)用の袈裟)・勤行本(ごんぎょうぼん/お勤め用の本)など。
 住職は当日、家にお伺いした時、装束を変えることをしません。
 命日参りは、親戚関係の招待がないので、気楽といえば気楽ですね。仏教、真宗、親鸞(しんらん)(しんらん)聖人の教えで聞きたいこと、お内仏、作法、しきたり関係で疑問なことなど、人目を気にせず(?)聞いていただけるチャンスです。知識と時間の許す限り、住職がお答えします。


【月参り次第】
 良覚寺では「月参り」をどのように勤めているのでしょうか?
 まずお経(長くならないように一段だけ)を住職が読誦します。その後は「正信偈(しょうしんげ)」をご家族といっしょに勤めます。そして「同朋(どうぼう)奉讃式(ほうさんしき)」、『和讃(わさん)』は「十方微塵世界の」です。勤行の後、法話はありませんが、法話の代わりに『愚身(ぐしん)』というお参り用の冊子を持参します。(15分〜20分)
先 総礼(合掌し念仏を称えます)
次 お経
次 正信偈 『真宗大谷派勤行集』P3
次 同朋奉讃 和讃・十方微塵世界の
    念仏 『真宗大谷派勤行集』P97
    和讃 『真宗大谷派勤行集』P102
    回向 『真宗大谷派勤行集』P101
次 総礼
 初めてお伺いする家では、必ずお勤めする箇所の説明をします。『真宗大谷派勤行集』をお持ちでない家には住職が持参します。



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