【永代経は法要の名】
 「永代経(えいたいきょう)とはどのようなお経なのです?」。
 この質問、住職になってから本当によく受けました。若しくは「永代経法要で勤まっとるお経の中の、どれが永代経なんや?」(複雑な…)とか。
 「経(きょう)」は単刀直入にいって仏陀によって説かれた法を説く聖典≠ニいうこと。
 「経」はインドの言葉である「sutra(スートラ/修多羅/しゅたら)」を中国で訳した言葉で、もともとの語意は「縦糸」という意味です。縦糸のように、どのように時代が変遷しても、変わることのない真理が説かれているということでしょうか。「経」は八万四千もあると言われますが、その中に「永代経」というお経はありません。
 「永代経」は寺院で勤める法要の名前なのです。

 浄土真宗における「永代経」とは「永代読経」の略であり、「未来永代、末永く釋尊の説かれた真実の教えである経が読み続けられ、その経が聞き続けられ、その教えに救済され続けられる」ことを願い勤まる法要です。
 多くの場合、自分に先立ち浄土に還られた方(先達・先祖)を憶念し、先達が聞き大事にしてこれた経(教)を今を生きる私も頂こう、そして未来永代子々孫々にその経(教)を伝えようという願いのもと勤まるわけです。
 先達・先祖を御縁にするというかたちをとりますので、永代経は先祖への永代の追善供養≠ニいう認識が強いですが、浄土真宗における「永代経」は、先達・先祖を御縁として私が経(教)を頂き未来永代に伝えるということが本義となります。

 「永代経法要」とはどのような法要なのかを真宗門徒(もんと)を名告る方は御存知かと思います。ただ、この勤め方は地方、寺院によってまちまち。こうなんだ、というものはないようです。
 ただ基本は同じ。既に亡くなられたご縁のある方の法名(ほうみょう)と懇志金をお寺に持っていく。すると永代経法要の日に、法名を書いた白木の札が仏前に置かれている。法要の途中で懇志者と法名を読み上げる。法要が終わると、寺の壁などに白木の札が掛けられる。
 これが「永代経をお寺にあげる」という流れです。
 この懇志金をお寺に納める時期が地方や寺によってまちまちなんです。葬式があったらその葬式を執行した方の名で必ず納める、また年忌法要が繰り出される年に納める、毎年納める、退職などをご縁にして納める、、、などなど。
 良覚寺では、毎年春秋の彼岸の中日に永代経法要を勤修していますが、お納め頂く額は一万円と決まっているようです(私が入寺する前から決まってました)。お納め頂く時期に決まりはなく、思い付いた時にお納め頂いてます。
 ただ、懇志者があろうがなかろうが「永代経法要」という法要は、真宗寺院の定例法要として勤修されます。


【真宗と永代経法要】
 この「永代経法要」ですが、もともと浄土真宗で勤まっていた法要ではありません。「永代経」の起源について確かな資料はありませんが、浄土真宗本願寺派(西)の第十四代寂如(じゃくにょ)上人(1662〜1725)の頃に勤まってたという記録が、本願寺系統における「永代経」の初見だそうです。
 「真宗教団は報恩講の教団」と呼ばれますように、親鸞(しんらん)聖人の御命日である28日≠ノ門徒(もんと)が集まり、親鸞聖人の教えを聞く集いをもち、それが教団化したと言われます。だから本来真宗寺院は、月命日である28日講≠ニ祥月命日である11月28日≠最も深重なお勤めとする「報恩講」を勤めていただけなんでしょうね。
 そんな真宗教団がなぜ他宗派のように、しかも追善供養と誤解されかねない形態の「永代(読)経」というお勤めをはじめたのでしょうか?。これは私(良覚寺住職)の私見ですが、やはり経済的な理由が大きいと推測しています。あと、他宗派が勤める永代供養の法要≠ニいうものに追従したとも考えられます。
 「永代経は本来真宗教団にはなかったのだ」と声高に主張し、永代経を勤めないと決断した真宗寺院住職もいます。英断なのか杓子定規な真宗原理主義なのか私(良覚寺住職)は評価できないでいますが・・・。ただ、先達・先祖を御縁にした仏事法要の類を、すべて「真宗にあるまじき」という切り捨て方をするのは、どうなのかなあ・・・。親しかった亡き人への追慕の心を切り捨てるのが真宗かなあ・・・とか思いますけど。
 そういった追慕の心を追善≠ニいうかたちに持って行ってしまうのは大きな間違いだとは思います。生者の善行──読経・修行・財施等々を故人の霊に差し向けるのが追善=B霊云々の有無もさることながら、追善≠ニいうかたちをとる仏事法事法要は全て、生きている私≠ヘ「追善をする善き者」ですもんね。「追善をする善き者」としての自分にとどまれば、自分の本当の相(すがた)を問うということはできません。ちなみに、親鸞聖人はご自分の相を「煩悩具足の凡夫」と自省されました。
 亡き人への追慕の心は非常に複雑。親しみや愛情だけでなく、憎しみや怨みもあります。そういった生者の心≠ェ御縁となって教えが聞こえることもあると思うし、そういった心を汲み取るのが真宗寺院住職の仕事なのだと思いますよ。「追善する人は真宗門徒ではない」などと狭い了見の住職は、何か真宗を勘違いしてますよね。


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