■ コラム ■
生活と離れて佛教なし
佛教と離れて生活なし
── 池田勇諦師──
 『維摩経(ゆいまきょう)』は維摩(ゆいま)居士(こじ)という在家の信者について語られたお経である。この維摩居士が病気になったとき、釈尊は弟子たちに見舞いに行くよう言いつけた。しかし、釈尊の高名な弟子の多くは維摩居士にやり込められた経験があったため、見舞いに行くことを拒んだと言われる。
 智慧第一と言われる釈尊の高弟・舎利弗(しゃりほつ)は林の樹下に座り心を落ち着けて禅をしていた。偶然、そこに通りかかった維摩居士は舎利弗に声をかけた。「あなたは何をしているのか」。舎利弗は「禅定です」と応える。すると維摩居士は「それは禅定ではない」と言った。「人里離れた林で心を静めることが禅定ではない。俗世間にあって世間の泥にまみれた中で心を静めることが本当の禅定である」。維摩居士の教えに舎利弗は言葉を失ったという。
 当然であるが、佛教は覚った者のための教えではない。逆に、我執を中心に自分の思いに振り回されてしか生きようがない迷える者のために説かれた教えである。俗世間の中で苦悩して生きる我々の生活を離れて佛教などありようがないのだ。そして、我々の生活というものは、生活の中で苦悩する我々のために説かれた佛教がなかったなら、生きる意味を見出せず、ただ動き回るだけの地を這う虫と同じではないか。
 私の生活の苦悩を根拠にして佛教は説かれ、私の生活の拠り所として佛教がある。このことを忘れないで欲しい。

■ True Living ■
報恩講講話録【中編】(2007/11/17.18)
──竹橋太師師──
 京都に六角堂という御堂があります。つくられたのは聖徳太子です。親鸞(しんらん)聖人は二十九歳のとき六角堂で観音様の夢の告げを受けられました。覚如(かくにょ)上人の書かれた親鸞聖人の伝記である『御伝鈔(ごでんしょう)』には告げは漢文で書かれていますが、それを簡単に言えば「結婚して、家庭をもちなさい」ということです。
 親鸞聖人の奥様を恵信尼(えしんに)さまと言いますが、その恵信尼さまのお手紙が大正時代に西本願寺の倉から発見されました。この手紙のなかに六角堂のことが書かれているものがあります。このお手紙には、親鸞聖人は六角堂に行かれて夢の告げを受けられ、直ぐに法然上人のもとに行かれたと書かれています。比叡山を下りて六角堂に百日籠もって後世(ごせ)をお祈りになられましたが、聖徳太子が現れて下さりお言葉をかけて下さいました、と恵信尼さまの手紙にあります。「後世」を祈ったということは、今が不安なのです。二十年間比叡山で修行してきても、いくら教えを聞いても心の安心は得られない。このままでは地獄行きは当然だ。こういう課題をもって六角堂に籠もられたわけです。そして九十五日目の明け方、聖徳太子の「結婚しなさい。そのことを通して佛法を広めなさい」という告げによって、後世が助かるご縁に会おうと法然(ほうねん)上人のところに行きましたと書かれているわけです。
 後世に不安を抱えた親鸞聖人に法然上人はこう言われたそうです。「後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死(しょうじ)出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いし」。生死とは生まれ変わり死に変わりすることです。善人でなければ善いところには生まれられないわけです。親鸞聖人は、今のこの私では悪いところにいくのではないかという不安がありました。今を生きることができないのです。法然上人はそういう考え方を出なさいと言われたのです。未来のために善い事をしなければならないと思っていたら、善行ができない自分がいた。自分の思い描く者に成れない自分がいた。そのことで苦悩する親鸞聖人に、それでいいんだ、それが人間だと法然上人は仰ったのです。善行ができる者だけが救われるのならば、その救いから漏れる人は沢山いるだろう、と。
 法然上人は、全てはお念佛しやすいように生活しないと言われています。何々をして念佛しやすいのなら、それでよいと仰ったわけです。僧侶の戒律で禁じられていますが結婚しても念佛もうせますかと尋ねたなら、念仏もうしやすいのなら 結婚して念佛申しなさいと応えられた。法然上人はそういう方でした。これはどういうことかというと、全ての人がお念佛を称え、お念佛の教えに出遇うことで、どんな人でも無条件に救って下さるということです。『御絵伝(ごえでん)』には親鸞聖人が沢山の人に教えを説かれる図があります。これは比叡山の中だけの教えが全ての人のものになったことを表しているのだと思います。親鸞聖人が法然上人からお受け取りになった教えは、間違いなくこういう教えだったのです。
 「六角堂の夢の告」は親鸞聖人の教えとはどのようなものであるのかを教えて頂ける段です。【続】

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■ 耳をすませば ■
『メッセージ・ソング』
──(著者:藤田正/解放出版社)──
 一曲の歌には作詞者、作曲者、歌手の深い思いが込められます。そういった意味で全ての歌というものはメッセージ・ソングであり、その曲─メッセージを生み出す背景があります。
 今回紹介する『メッセージ・ソング──「イマジン」から「君が代」まで』は、様々なジャンルの有名な曲の背景に着目した本です。前半、岡林信康の『手紙』、美輪明宏の『ヨイトマケの唄』等々の解説です。ただ紹介にとどまったような内容で深みがないように思えます。しかし後半部分で紹介された七曲に関しては、曲の歴史を紹介すると共に著者の深い思いが語られます。
 ビリー・ホリディの『奇妙な果実』が、リンチで殺され血だらけで木に吊された黒人を象徴していることをご存知でしょうか。『アメイジング・グレース』は奴隷商人としてアフリカ人を売買していた男が自分の悪行を悔いた曲であることをご存知でしょうか。『王将』の坂田三吉のモデルとなった阪田三吉という人物は、厳しい差別のなかで将棋が強くなったことをご存知でしょうか。
 我々が気軽に聴き、そして歌っている曲には、踏み付けられた人々が魂の底から絞り出したメッセージが曲になったものもある。このことを教えられる一冊でした。

 

■ コラム ■
かの智慧の眼を開きて
この昏盲の闇を滅せん
──『三誓偈』より──
 「大津絵」は近江国に暮らす者にとって身近な民芸である。「藤娘」「雷公の太鼓つり」「鷹匠」など有名な図柄はあるが、最も親しみ深いのは「鬼の寒念佛」ではないだろうか。
 「鬼の寒念佛」の図柄は、法衣をまとった僧形の鬼が托鉢(たくはつ)する姿。僧形は表面の慈悲深さ、鬼の姿は内面の醜い心を表している。いくら表面で善人面をしても、内面の醜さが表に出てますよ、ということを言わんとしているらしい。袈裟と衣を着用する者としてドキッとさせられるが、僧侶という問題ではなく、一個の人間として何かを考えさせられる絵ではないか。
 我々の眼は外側に付いているから、外側はよく見える。つまり、他人のことはよく見えるようにできているのである。善人面の下にある鬼の形相も他人のことならよく見るのだ。人間の眼で見える世界は「お前は醜い、お前は間違っている」という世界しかないのである。
 外側に付いている眼で見えないものは何か?それは自分というもの、私というもの。私の本当の相(すがた)は私では見ることができない。教えという言葉になった如来の智慧に出遇い得て、角を振りかざし鬼の形相をしている自分が見える。いや見えるというのは傲慢。頭の上にはえていた角がムズムズしてくるのであろう。
 寒念佛の鬼は片方の角が折れている。これは我が折れている≠ニいう意味だそうだ。如来の智慧によって折られた我である。

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【後編】(2007/11/17.18)
──竹橋太師──
 本山の報恩講が終わった次の日、二十九日の朝に必ず拝読する「御文」があります。「今年も報恩講が勤まったが、僧俗共に信心を得る人が多かったと聞いている。めでたいことだ。しかし、そのままにしておけば信心はなくなってしまう。細々とした信心の溝をさらえて、阿弥陀様の教えの水を流しなさい。そうしないと、直ぐに信心は詰まってしまう」。蓮如上人はこう仰っているわけです。
 私たちは聴聞して順々に上にいくと思っているものですから、信心を得るとゴールインであると考えます。そうではないと蓮如(れんにょ)上人は仰るのです。信心を得たなどと思い込むと、俺は分かっているけど貴方は分かっていないという思考がはたらく。人間の名利のために信心がつかわれていくわけです。そういった私を中心とした在り方が知らされることを信心という。そういう心を無くして、人間として上がっていくのではありません。逆に信心をいただくと、下に降りていくような感じがします。下に降りて、自分の迷いには底がないということを確かめる。こういうものが信心だと思います。
 お釈迦様は王国の王子としてお生まれになりました。少年時代のお釈迦様は非常に傷付きやすい子供でしたので、父親である王様はお釈迦様に老人や病人や死人を見せなかったと言われています。ある時、お釈迦様は気持ちが晴れないのでお伴を連れて東門から城外に出て行ったとき、初めて老人を見ました。お釈迦様はお伴に「腰が曲がり髪の毛が白くなり衰えた人は誰か」と尋ねました。「あれは老人です」。「老いるということは全ての人に起こるのか」。お伴は「はい、人間である以上全ての人は老います」と答えました。別の日に南門から出たとき病人に、西門から出たときに死人に会い、人間は必ず病になり死んでいくことを教えられます。そして北門から出たとき修行者に会われました。我々は老病死を嫌がり、反対のようにみえる若さ・健康・生を求めます。しかし、これは紙の表裏のようなもので同じものです。若いから老いる、健康だから病になる、生きているから死ぬ。それを別々なものとして、老病死を悪とし、若さ・健康・生を善とする物差しを持った我々があるのです。この物差しで世の中の全ての善悪を自分で決めています。この物差しを通してみえたことが正しいと思い込み、この物差しの善にかなうように生きたいと望みます。しかし絶対に思い通りにならないものがありますね。それが老病死です。自分の内容であっても、これを受け容れられないわけです。
 こういう話を聞くと、物差しを無くすことが善いことだと聞こえてきます。そして無くすように努力する。しかしそれも、無くすことが善、無くならないことが悪という物差しなのです。そうではなくて、物差しは無くならないものなのです。そのものさしこそが私です。我々には、自分は物差しを無くすことができる、善人になれる、上に行けるという思いが浮かんできます。そのたびに引っ張り下ろされるわけです。何とか善い者になろうとして挫折し、自分自身に不安や絶望や悲しみを持った人には、生きる力を必ず与えてくださるのがお念佛なのです。【了】

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■ 耳をすませば ■
『教育の力〜「教育基本法」改定下で、なおも貫きうるもの〜』
──(講述:安積力也/岩波ブックレット)──
 このブックレットは「信教の自由を守る日」という集会において安積力也氏が行われた講演の記録です。副題に「『教育基本法』改定で、なおも貫きうるもの」とあります。旧『教育基本法』の理念がどのようなかたちで教育現場で生きていたのか、また今尚生きているのかを、教育者として生きてこられた安積氏が現場での経験を通して語られます。
 現在、安積氏はキリスト教系の私立恵泉女学院中学高校の校長ですが、以前は日本聾話学校の校長でした。聞こえない子供が言葉を理解し話すようになるまで時間を要すそうです。その子の時が充ち、その子が自然と言葉と向き合えるまで「待つ」ことが大事なのだと安積氏は語られます。発達には厳然たる順序性がある。そのことへの畏敬の念を忘れ、教師や親が自分たちの思いを優先し「待てない」ことが現代の教育の問題点である、と。
 教育の歪みは今という時代社会の歪みがそのまま映されています。時代社会の歪みは時代社会を生きている者の歪み──つまり我々一人ひとりの歪みであり、教育の歪みは旧『教育基本法』の責任などではなかったのです。今を生きる我々に何が欠けているのかを考えさせられる講演録でした。

 

■ コラム ■
仰せを持ち替えるなよ
──香樹院徳龍師──
 江戸時代、香樹(こうじゅ)院(いん)徳龍(とくりゅう)という講師がおられた。その香樹院が米原の醒ヶ井(さめがい)で説法をされていたときの話。前の方で熱心に聞き入っている老婆に「婆々、そのままの御助けぢゃぞや」と仰った。すると老婆は「ありがとうござります。いよいよこのままの御助けでござりますか」と答える。すると香樹院は「いやそうでない。そのままの御助けぢゃ」と返された。そして最後に「仰せを持ち替えるなよ」と仰ったという。
 阿弥陀如来の救いは無条件である。無条件であるということは、私は私のまま救って下さるということであり、我々は絶対的に如来に受容されているのである。しかし如来から無条件に救うと教えられても、我々はその教えに安住することはできない。如来から「そのままでいい」と教えられても、「このまま」の私を全て受容することができないから、もっと善い自分、理想の自分になろうと努力をするのである。しかし、努力しても頑張っても思い描く理想に自分になれないとき、残るのは自己嫌悪だけである。
 「そのままでいい」の教えを聞いて「このままでいい」と頷くことなど我々にはできない。そこにあるのは、やせ我慢か、開き直りか、あきらめの「このまま」である。「そのままでいい」の教えは、「このままでいい」と頷けず、もっと善い自分になろうと右往左往し苦悩する我々の思いの深さ≠浮き彫りにする教えなのである。

■ TrueLiving ■
覚の会1月例会講話録(2008/01/19)
──山元教順師──
 本日は「宗祖(しゅうそ)としての親鸞(しんらん)聖人に遇う」というテーマでお話をいたします。我々はどこで親鸞聖人を宗祖としてうなずいていけるのでしょうか。親鸞聖人の生涯をみていくとき、苦しみを縁にして道を求められました。苦というものが原点です。その苦しみが、どこで変わるかというと出会いによって変わるのです。親鸞聖人は9歳から29歳まで比叡山におられました。その比叡山を下りられて、法然(ほうねん)上人のもとへ百日間通われました。自分の苦しみを法然上人の教えにたずねられたわけです。
 私が副住職をしている正休寺は1月1日に修正会(しゅしょうえ)という法要を勤めています。その法要には高校生や大学生といった若い人たちも来てくれます。今年の修正会で私は若い人たちに正月だけではなく、永代経や報恩講や聞法会にも参るように言いました。すると、「寺は何をしているか分からないから恐い」という言い方をしました。また、それとは全く違うイメージで「寺に参ったら人を前向きに生きられる」という印象を持っている人もいました。私はその言葉に素直に返事ができませんでした。今の若い人たちは自分をよく見せようと頑張っています。女の子は化粧を入念にしますね。自分を守っていこうという意味での前向きが、仏教を聞いて実現するわけではありません。そうではなくて、自分自身に出会う場所がお寺なのだと思います。
 我々は自分の思い込みにとらわれて生活しています。「こども110番」という電話相談に、若いお母さんから「うちの子どもが言うことをきいてくれない。話しかけてもこっちを見ない。言ったことをやってくれない」という相談があったそうです。相談を受けた方から「あなたの子どもは何歳ですか」と訊ねられたお母さんは「六ヶ月です」と答えたそうです。これは極端な例ですが、我々はこれが当たり前という思いにとらわれて、それを疑うことがありません。
 親鸞聖人は法然上人のもとに百日間通われました。親鸞聖人はどのような教えを聞かれたのか。親鸞聖人のお手紙のなかに、私親鸞は法然上人より「浄土宗のひとは愚者(ぐしゃ)になりて往生す」という教えをたまわったと言われています。我々は教えを聞くことが大事だと簡単に言います。その教えを聞くことは、どこで大事だと言えるのでしょうか。どこで自分のものになっていくのでしょうか。法然上人から「愚者になりて往生す」と教えられた親鸞聖人は、ご自分のことを「浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがたし/ 虚仮(こけ)不実のわが身にて/清浄の心もさらになし」と言われています。親鸞聖人が教えを聞いて見えてきたことは、真実の心がない私、嘘偽りにまみれた私、清らかな心が全くない私、つまり親鸞聖人ご自身の相だったのです。
 宗祖としての親鸞聖人に遇うということは、ただ単に教えを知的に学ぶことでは実現しないのではないでしょうか。親鸞聖人が教えをどのように受け止められ、どのように生きていかれたのかを丁寧に訪ね、そして味わうことから親鸞聖人に出遇うことは始まるのだと思います。

■耳をすませば■
シリーズ宗祖旧跡〜親鸞聖人夢告の地『叡福寺(磯長 聖徳太子廟)』
──(大阪府南河内郡太子町太子2146)──
 1181年、9歳のとき親鸞(しんらん)聖人は出家得度し、それから比叡山延暦寺において厳しい修行修学の日々をおくられました。
 建久2(1191)年、親鸞聖人十九歳のとき磯長(しなが/現在の大阪府南河内郡太子町)にある叡福寺に参籠されます。ここは聖徳太子の廟堂(びょうどう/墓所)のある所で、若き親鸞聖人は真に自分が担うべき課題をたずねるべく、磯長の聖徳太子廟に参籠されたのです。親鸞聖人が聖徳太子に対して深い尊敬の念を抱いておられたことは、後に作られた「和讃(わさん)」に「和国の教主(きょうしゅ/日本において釈尊に等しい仕事をされた)」と讃えられたことでも分かります。
 親鸞聖人は磯長の聖徳太子廟において夢の告げを受けられました。「汝の命根は応に十余才なるべし。命終わらば即ち清浄の土に帰入せん。善く信よ善く信よ真の菩薩なり」。あなたの寿命はあと十年である、という内容の夢告を受けた青年僧の心中は如何なるものだったでしょうか。死に向かって生きているという自覚を通して、自身の生まれた意義を問うことに真摯に向かわれたことでしょう。そして死の自覚は、親鸞聖人が青年時代に種種抱えておられた課題を一つひとつ取捨選択し、明確な課題に向かわせたことでしょう。

 

■ コラム ■
命は大切だ。命を大切に。
そんなこと何千回何万回言わ
れるより「あなたが大切だ」
誰かがそう言ってくれたら
それだけで生きていける。
──公共広告機構CMより──
 昨今、多くの人々が「いのちは大事だ」、「いのちを大事に」と語っている。これだけいのちという言葉が声高に語られた時代は他にはなかったであろう。いのちという言葉のデフレ状態のなか、いのちという言葉をもって何が語られているのか、また私は何を語っているのかということを精査し点検する必要がある。
 そういったことを考える中で、数年前テレビコマーシャルから流れ出た言葉が耳の底に残っている。「命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千回何万回言われるより「あなたが大切だ」誰かがそう言ってくれたらそれだけで生きていける」。この広告は制作者の意図を超えて我々の心に響く。「あなたが大切だ」という単純明快な言葉が、自分の存在を無条件に認められたいという、人間なら誰しも持っている深い願いを呼び起こすのである。
 我々は自分中心の生き方を前提にしてしか生きられない。自分中心の生き方を前提にして発想するいのちは、あくまでも「自分のいのち」であり、このいのちを自分の思い通りにしようとし、迷い、そして苦しみ、悩むのである。「いのちは大事だ」と言いながら、いのちを見失っているのが我々なのではないだろうか。
 我々はいのちを見失っているが、いのちは片時も我々を見失うことはない。我々の苦悩とは、いのちに迷う我々の相を知らせんとする、いのちのはたらきなのである。

■ TrueLiving ■
永代経講話録【前編】(2008/03/21)
──雨森慶為師(真宗大谷派解放運動推進本部)──
 最近は家族が何世代も同居するということが少なくなってきました。田舎でお年寄りの夫婦だけの家庭、あるいは独居老人の家庭があり、一方で都会で結婚しないで一人暮らしをする若い人が増えました。こういう場合、周りに暮らしている人々が、孤独に居る人を気遣い、声を掛けることが大事なのだと思います。しかし、今の暮らしは家の垣根が高く、気軽に他人の家を覗くこともできません。人と人とが関係を結びにくい時代であるということを踏まえて、今という時代に我々は人とどのような関係を紡いでいけるのかが課題です。
 私は滋賀県東浅井郡虎姫町出身です。虎姫町だけではないのですが、湖北地方では一月二十二日に「乗如(じょうにょ)上人二十二日講」というお講を勤めています。乗如(一七四四〜一七九二)上人は東本願寺の第十九世御門首です。東本願寺は過去四度の火災に遭い、本堂や諸殿は全て全焼しました。最初の火事は天明八(一七八八)年でしたが、そのときの御門首が乗如上人でした。乗如上人は全国を回られて、再建を頼まれました。その時に湖北の御門徒は詰所と呼ばれる宿舎に寝泊まりし、建築作業を行ったわけです。そのご苦労を偲ぶお講が「乗如上人二十二日講」で、名古屋や能登にも同じお講が今でも勤まっていますし、現在は中断されていますが滋賀県高島にも同じようなお講があったそうです。
 驚くべきことは、天明八(一七八八)年、文政六(一八二三)年、安政五(一八五八)年、元治元(一八六四)年の四度も火災に遭っているということです。西本願寺は一度も火災に遭ったことはありません。ですから東本願寺は「火出し本願寺」と揶揄されました。このうち文政と安政の火事は自火です。天明の火災は京都の歴史上最大の火災です。北は鞍馬口通、南は七条通、東は鴨川の東、西は千本通、つまり当時の京都の市街地が全焼したわけです。最後の元治の火災は禁門の変(蛤御門の変)という戦渦によって起こった火災です。この被害は天明の大火に次ぐものでした。
 当時、火事が起きると火が周辺に広がらないように建物を壊していきます。そして大事なことは、家財道具を運び出すということです。二度目の火災である、文政の火災についての記録を紹介します。午後七時に出火。当日当番であった僧侶が両堂に灯明を付け、火災発生を知らせて回ったそうです。そして法主(現在の門首)が参堂し御真影(親鸞聖人の御木像)を仮の御厨子に御動座し、東殿(枳殻邸のこと)に移しました。そして、両堂の宝物道具類を、僧侶や門徒が協力して運び出しました。午後十時になると大門(御影堂門)にも火が回り枳殻邸にも飛び火する可能性が出てきましたので、大谷御坊(現在の大谷祖廟)に全てを運ばれました。
 火災の度に両堂を再建されたということは先達の大変なご苦労によるものです。そして見落としてはならないことは、火事が起こる度に消火作業や宝物道具類の運び出し、避難作業に力を尽くしてくださった方々が多くおられるわけです。このことは、よく知っておかねばならないことだと思います。

【後編へ】

■ 耳をすませば ■
『まんが 電坊さん〜真宗仏事入門』
──(作:今西清二/真宗大谷派 難波別院)──
 真宗大谷派における仏事入門書の多くは、やたら難解な表現が多いように思えます。しかも紋切り型の言い方で押し付けがましい。そういった本をご縁のある御門徒に配ってはいますが、内心では読んで頂いてないだろうと思っておりました。
 今回紹介する『まんが 電坊さん〜真宗仏事の入門』は既存の真宗仏事入門書と違い、まず手にとって読んでもらえる≠アとを意識して作られています。漫画で描かれているから読みやすいのではなく、漫画のクオリティが高いのです。仏事についての解説が続いたあと、少しユーモラスな表現が入ることによって肩の力が抜ける。この緩急の付け方が上手いから気軽に読める仏事入門書に仕上がったのだと思われます。勿論、仏事に対する解説も詳細であり、御門徒がお尋ねになりそうなことを網羅しています。
 欲を言えば、もう少し安価になるような安い紙質でもよかったと思います。また「真宗の仏事はこうなのだ」と言い切る表現ではなく、そこを手掛かりに僧侶と門徒が物を考えていける問題提起の部分が欲しかったです。
 本願寺派では本山が『マンガ仏事入門──おしえて法事葬式お仏壇』という簡易に仏事を解説した漫画を出版しています。


 

■ コラム ■
露の世は
露の世ながら
さりながら
──小林一茶──
 小林一茶は江戸時代を生きた俳人である。「人生五十年」と言われた時代、一茶は五十二歳にして初めて結婚をした。そして五十四歳のとき長男の千太郎が生まれるが、わずか一ヶ月弱で死んでしまう。それから二年後、一茶が五十六歳のとき、長女のサトが生まれた。薄命であった千太郎のこともあり、一茶はサトをそれはそれは可愛がったという。しかし、サトも生まれて一年で疱瘡にかかり、死んでしまうのである。
 そのとき一茶が詠んだ句が
露の世は
露の世ながら
さりながら
であった。世の中は露のように儚いと分かっている。分かっている、けれども…。「さりながら──そうではあるけれど…」という言葉に一茶の慟哭と阿弥陀如来の声が聞こえる。
 人間の問題は我々の理知分別で分かっている≠アとだけでは解決しないことばかりである。殊に「生死(しょうじ)」の問題はそうであろう。生まれて、生きて、死んでいくことが生命の自然な営み。生は必ず死を内包している。これは事実であり、我々はこのことを誰しも頭では分かっている。同時に、絶対に死を受け容れられないのが我々であり、事実を事実として受け容れられないことに人間の苦悩がある。
 苦悩こそ人間が人間として生きている証なのである。その苦悩の奥底から、阿弥陀如来が苦悩する我々人間を悲しまれる声が聞こえる。その声が「南無阿弥陀仏」なのである。

■ TrueLiving ■
覚の会3月例会講話録(2008/03/17)
──沙加戸崇師(大津市・響忍寺)──
 本日は
本願力にあいぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
という親鸞(しんらん)聖人がお作りになった和讃(わさん)を手掛かりに話をさせていただきます。この和讃は葬儀式のときに勤めますので、耳に残っている方も多いと思います。
 この「むなしくすぐる」とはどのような意味なのでしょうか。歳を重ねると時間が経つことが早いと感じますね。それと同時に空しさのようなものを感じます。私は親鸞聖人の和讃の言葉である「むなしくすぐる」という言葉と、時間を無駄に過ごしたような感覚を同じように考えていました。「むなしくすぐる」を「空過」とも言います。仏教の学校に通っていた頃、空過という言葉を習いました。私は空過という言葉が自分の有り様を言い当てる言葉であると思っておりました。だらだらとした生活を過ごしてしまったとき、自分の生活は空過だったと反省する、と。この言葉を習い十年以上経ちましたが、私はこの認識が間違いであると気付きました。
 時間が空しく過ぎたと感じるときは、どのようなときでしょうか。一日あいていたのに何もすることなく、朝昼晩とご飯を食べて過ごしたようなときでしょうか。何か充実感がないという時間の過ごし方をしたとき、空過したと思う。我々は空過という言葉を知っているから、これが空過だと思い込んでいました。逆に空しく感じない時はどのようなときでしょうか。仕事が忙しく充実し、成果を上げることができた、楽しかったとき、面白かったときなどがそうですね。自分で満足のいく時間を過ごしたときは、空過という意識はありません。
 私の満足が低ければ空過、満足が高ければ空過ではない。私にとって都合のよい時間は空過、そうではないときは空過である。空過か空過でないかを判断するのは、私自身の価値基準なのです。
 この和讃の最初は「本願力にあいぬれば」とあります。私は、この言葉を抜きにして空過という言葉を考えていたわけです。「本願力」とは阿弥陀如来の本願の力──如来のはたらきという意味です。如来の本願のはたらきに出遇い、念仏をもうす生活をはじめられたのかどうかが大事なことなのです。如来のはたらきに出遇い、念仏をもうす生活がなかったら、忙しく、楽しく、仕事が順調で、充実していても、それは空過なのです。逆に、私の価値観では不本意な時間を過ごすことになっても─例えば、病気で寝た切りになっても、そこに念仏もうすということがあれば、むなしくすぐることにはならないのだということです。
  老病死ということは全ての人が迎えなければならない問題です。元気で長生きとか充実した老後ということが言われていますが、自分が思い描く歳の取り方ができるかどうか分かりません。現在の自分が自分にとって不本意であったとき、その自分をどのように引き受けていけるのでしょうか。念仏をして現実が変わるというのではありません。そのままの自分を受け容れられない自分から目を逸らしたり、誤魔化したりするのではなく、その自分を課題にして生きていく道なのだと思います。

■ 耳をすませば ■
『20世紀少年』
──(著作:浦沢直樹/小学館ビックコミックス)──
 「現代を代表する漫画家は?」という問いに対して、多くの人が浦沢直樹という名前を挙げるでしょうし、当然私もこの浦沢直樹を挙げます。八〇年代の終わりから今まで、良質の漫画を書き続けている才能と努力に敬服します。
 浦沢の描く漫画の良さはストリーテーリングの上手さもさることながら、キャラクター設定がしっかりしていることにあります。キャラクターが物語のなかでとる行動の背景、根っ子がしっかり描かれているから、感情移入して漫画を読んでいけるのです。『二〇世紀少年』はキャラ設定の深さだけで言えば、前作『MONSTER』をはるかに超えています。
 『二〇世紀少年』は、現在、過去、未来が複雑に入り組んだ物語です。その過去≠ヘ昭和三〇〜四〇年代。『三丁目の夕日』などでも描かれた、我々今の大人が何となく「あの頃はよかった」とノスタルジーに浸ってしまう時代です。現在は、あの頃の我々少年たちが思い描いた未来ではありません。だからこそ、我々大人は現在に対して愚痴を言うだけの生き方ではなく、責任をもって現在を生きていかねばならないのです。『二〇世紀少年』に出てくるキャラクターは「あなたの生き方はそれでいいの」と問い掛けてきます。

 

■ コラム ■
汝自らを知れ
そして汝自分であれ
──西光万吉──
 暁烏敏(あけがらす/はや)師という名高い高僧がおられた。金沢にある暁烏師の明達寺は、毎年夏期講座が開かれ、師を慕う全国の人々が集まったという。
 ある年の夏期講習に九州から来た一人の中学教師がいた。毎日熱心に聴聞していたその人が、閉会式を目前にした講義のあと、暁烏師に近づいて質問した。「聴聞して、もう少しましな人間になれるかと思っておりましたが、到底なれませんでした」。その問いに師は「それでよのじゃ」と応えられた。「どういう意味ですか」と尋ねなおすと、「鉛が銀や銅になれるか。いよいよ鉛であったことに気付かさせてもらう。それでよいのじゃ」と仰ったという。
 我々は自分の思い描く自分を実現するために努力する。世間では当たり前の生き方だ。正に竪に上がっていく生き方である。この生き方の落とし穴は、理想の自分が実現しなかったときの自己嫌悪である。我々は仏法を聴聞するといっても、この竪の生き方の発想の延長線上に考え、学べば学ぶほど善い人間になっていくのだと思っているのかもしれない。
 上に向いていた眼では絶対に見えないものがある。それは、今、ここにいる私の相である。仏法を聞くとは、仏法を鏡として、今、ここにいる自分を横から見せたいただくことである。自分の思いによって振り回されて生きている、そのままの自分に出会うことを抜きにして、本当に生きることは始まらないのであろう。

■ TrueLiving ■
永代経講話録【後編】(2007/03/21)
──雨森慶為師(真宗大谷派解放運動推進本部)──
 現在、人間関係が希薄になってきたと言われます。子どもが少なくなったり、結婚しない人が増えてきた。結婚し子どもをもうけても、両親と同居しない。同居しても家族内がバラバラに生活している、家族がつながっているという意識が希薄になってきているということがありますね。こういう状況をどうこうしようというのではなく、この状況を認識して新たにどのような関係を生み出していけばいいのか。これは家族内だけの問題ではなく、隣近所の人との関係も同じです。昔ながらの村社会の一員として隣近所の人と関係することがなくなっています。また、昔からの村社会のなかでは、隣の村の人々と険悪な関係が続いていることもあります。我々の身近な「関係」というものは、どうなっているのでしょうか。
 今日は東本願寺の火災について話をしております。東本願寺は四度の火災に遭っていますが、二度目の火災である文政六(一八二三)年の「文政の火災」について詳細な記録があります。『浅草御坊輪番日記』という記録には、十五日に火災があって、十六日に「六条村」に保管されていた宝物類や道具類を東本願寺の僧侶が引き取りにきたとあります。六条村は当時の被差別部落であり、六条村の人々は浄土真宗の御門徒でした。全く別の記録ですが『諸式留帳』という記録には寛延二(一七四九)年に東本願寺で出火騒ぎがあったとき、この六条村や、同じく被差別部落の川崎、千本村の御門徒がいち早く駆け付け、消火活動をされたとあります。つまり全ての東本願寺の火災において、被差別部落の方々が消火活動を行ってくださる体制ができていたわけです。
 文政に火災について『六條奇譚』という記録があります。これによると、文政の火災によって道具類だけでなく、御本尊・阿弥陀如来像もこの村に避難されたとあります。そして、六条村の人々は道具類を引き取りにきた東本願寺の役人に「せっかく阿弥陀如来に来て頂いたのだから、この先しばらくここで休んで頂いたら如何でしょうか」と申し出ています。この消火活動によって多くの六条村の人々が亡くなっています。壮絶な火災のなかで御本尊や親鸞(しんらん)聖人の御真影を命を賭して救い出したわけです。御本尊や親鸞聖人への深い思いが、阿弥陀如来に少しでも長くここに居て欲しいという言葉を出させたのかもしれません。
 ところが歴史的にみて、真宗大谷派内においても被差別部落の方々を差別するということがありました。阿弥陀如来の教えを共に聞いていながら、ご縁のある被差別部落の御門徒(ごもんと)との関係を確かめることも、御同朋という関係をひらこうとすることもわけです。こういった歴史的な事実をしっかりと見据える必要があります。
 こういったことを踏まえて、現在の我々の身近な関係はどうなっているのかを問い直すことは大事なことです。我々は現状としてどのように親しい人と関係を持っているのでしょうか。家族、隣近所、また隣の村との関係はどうなっているのかということを捉えて、新しい関係を築き直していくことが大事な課題としてあるのではないかと思います。

【後編へ】

■ 耳をすませば ■
シリーズ宗祖旧跡〜女人の問い『赤山明神(赤山禅院)』
──(京都市左京区修学院開根坊町18)──
 赤山禅院は赤山明神ともいい、京都の修学院にあります。天台宗三代座主円仁の遺言によって四代安慧によって建立されました。泰山府君を祀り、日吉大社とともに延暦寺の鎮守とされています。
 建久九(一一九八)年、延暦寺で修行中の親鸞聖人が二六歳のときのことです。使いで京に行かれ、帰りにこの赤山明神をお通りになったとき、一人の女性に出会われます。女性は「私は長年、延暦寺に参詣したいと願っておりました。どうかご一緒させて下さい」と言いました。聖人は、「穢れた女人は比叡山に入ることはできないのですよ」と返事をされました。すると女人は「延暦寺を開かれた伝教大師は、全ての人に真に目覚める要素があるという仏の教えを知らないのでしょうか。女が比叡山に入るなというなら、山にいる獣や鳥にメスはいないのでしょうか」。親鸞聖人に応える言葉はありません。「どうか全ての人が救われていく本当の仏教を学んでください」。女性はそう言い残すと姿を消しました。
 当時の仏教界は、女性の問題だけではなく、救いに身分や能力、財力による制限を設けていました。全ての人が救われるという仏教の教義との矛盾に、若き親鸞聖人が苦悩されたのは間違いないことでしょう。
(『親鸞聖人正明伝』より)


 

■ コラム ■
れ今、帰る処なく、
孤独にして無同伴なり
── 源信僧都──
 連日何らかのショッキングな事件が報道される度に、少し前の事件が風化していく。そのなかで六月八日に秋葉原で起きた通り魔事件は未だに我々の心に深く影を落としている。
 先日NHKで『追跡・秋葉原通り魔事件』という番組を放送していた。犯人の生い立ちや現状から事件に到った経緯を探る番組であった。学歴エリートからの挫折。社会に出てから派遣会社社員としてモノのように扱われた数年。人付き合いが下手で友達ができなかったこと…。自尊心が少しずつ踏みにじられ、かけがえのない自分なんだという思いが奪われていく。そのなかで、彼の存在を認めてくれる人が周囲にまったくいなかったのである。そして現在、この犯人と同じような境遇にあって精神的に追い込まれている人間が多いことを報道していた。
 「あなた一人ではない。あなたという存在はそれだけで尊い」。我々は誰しも自分自身をこのようなかたちで見出したいと願っている。自分自身の尊さを見出せなかったとき、人は精神の箍が外れてしまうのではないだろうか。
 地獄は死後の世界ではない。仏は地獄─最も苦しい世界を「われ今、帰る処なく、孤独にして無同伴なり」と説かれた。地獄は特別な世界ではない。我々の足下にある。自分という存在そののもが、そのまま肯定されないかぎり、誰しも、今、地獄に堕ち、行き詰まる可能性を持っているのである。

■ TrueLiving ■
覚の会5月例会講話録(2008/05/19)
──山本靖師(大津市・萬福寺)──
 本日は親鸞(しんらん)聖人の語録である『歎異抄(たんにしょう)』の五章によってお話しいたします。五章は「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」という言葉ではじまります。私親鸞は父母の供養のために念仏したことはないのだ、と。その理由は「一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。私の親、私の友達という関係を超えて、全ての有情──生きるものは私と同じいのちを頂いて生きているのだということです。その後、もう一つ自分の親のために念仏をしない理由がでてきます。「わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ」。つまり親鸞聖人の言われる念仏は、自分の善行としての念仏ではありません。他力の念仏、阿弥陀様から頂かれた念仏です。ですから、自分の称える念仏に故人を成仏させる力はないというのが親鸞聖人の念仏の頂きです。
 そして、『歎異抄』五章の最後には「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり」とあります。これを私なりの解釈で端的に言えば、全ての人は仏様に救われねばならないということです。全ての人は父母兄弟である。だから今生きている人間が仏様に救われなければならないという結論になっています。「人類皆兄弟」と言う人が沢山います。だから助け合おうというのが、普通の我々の発想です。中国四川での大地震やビルマ(ミャンマー)でのサイクロン被害などに対して我々ができることは、金銭の援助をしたり救援物資を送ることくらいです。しかし、親鸞聖人は、仏様に救われなければならないと言われるわけです。こういう言葉をきくと、人間の助け合いというのは無駄なように思えます。
 『歎異抄』の四章には、慈悲には聖道の慈悲と浄土の慈悲があるのだと言われます。聖道の慈悲というの我々の力をもって人を助けようとする心です。しかし、聖道の慈悲には限界がある。浄土の慈悲は、浄土に往生し仏になって人を救うことです。ここでも、我々人間が人を救うことは無駄だとおっしゃているような印象を受けます。ベトナム戦争の頃、反戦デモに参加していたお坊さんがおられました。それをみて、偉い仏教学者がそんなことをしてもしかたがない、親鸞聖人も聖道の慈悲は無駄だと仰っているではないかと言ったそうです。そういうことではなく、親鸞聖人は仏に救われていくということが大事なのだと強調されているのです。
 親鸞聖人が生きられたのは戦乱の時代でした。日本の二分するような大きな戦いのなかで、何とか人を助けようと努力をされた記録もあります。しかし、それは末通らなかったわけです。人が人を救うことの困難さを身をもって知っておられた体験を通して、本当に人が救われるということを問うていかれたのでしょう。そういう中で、人は仏に救われる存在であるということを強く仰ったのだと思います。

■ 耳をすませば ■
『ワニくんのおおきなあし』
──(作・絵:みやざきひろかず/BL出版)──
 我々人間はそれぞれに価値観をもち、その価値観で世の中の事柄を善し悪しと分別して生きています。多くの場合、その善し悪しは自分にとって¢Pいか悪いかが基準になりますから、無邪気に他者を悪い(無能、無益、無価値等々)と分別して、見捨てることなど日常茶飯事。一番恐ろしいのは、この価値観の矛先が自分に向いたとき。自分の価値観で自分を分別し、「こんな自分は駄目だ」と、自分で自分を見捨ててしまうこともあります。
 『ワニくんのおおきなあし』という絵本に出てくるワニ君は足が他の人より大きいことがコンプレックス。足が大きいことで生活に支障を来すこともあるし、他人の目も気になります。何とか足を小さくするために右往左往するのですが、小さくなりません。そんなワニ君が足の大きさというコンプレックスを乗りこえるお話です。
 我々は自分にとって不都合な現実に直面したとき、その現実に問題があると思いがちです。そうではなく、その現実を善し悪しと分別している我々の価値観に問題があるのです。ワニ君は足を小さくするために冷やしたり、洗ったり、最後は神頼みをします。我々の日常生活に似ていませんか?

 

■ コラム ■
去・来・現
──『大無量寿経』より──
 最近まで、足のない幽霊を最初に書いたのは円山応挙であると思っていたが間違いのようだ。応挙が誕生する前に書かれた浄瑠璃本には足のない幽霊が描かれたいるそうだ。それ以後、如何におどろおどろしく見えるかを研究し、現在の幽霊のかたちが作られたという。
 幽霊の形としての特徴として、代表的なものを三つ挙げることができる。まず、後ろ髪が長いこと。これは過ぎ去ったことに対して、あれやこれや悔やむ姿。そして、前に垂れ下がった手。これは未だ来ない未来に対して、あれこれ思い悩む姿。最後に足がないこと。これは、現在に足が付いていない姿。過去に未練を残し、未来に無い物ねだりをし、現在を見失っている者を幽霊という。絵として描かれた幽霊は、私の在り方を映す鏡なのかもしれない。
 一般的な時間の流れは過去・現在・未来であるが、仏教の時間の感覚は「去・来・現」、つまり過去・未来・現在となる。現在というものは、過去と未来によって定まったものであって、現在は過去と未来によって常に問われ続けているのである。この真実を忘れ、過去を自分の自我分別で正当化し、未来のことを全く考えず、現在を欲望のまま生きる者のことを幽霊というのである。
 我々が幽霊画におどろおどろしさを感じるのは、実はそこに描かれた自分自身の相を見るからなのかもしれない。

■ TrueLiving ■
「無我」としての仏教
──谷大輔(良覺寺住職)──
 京都府福知山市教委が全小中学生を対象に「命の大切さを考える児童生徒アンケート」を行いました。このアンケートのなかで、「死んだ人は生き返るか」との質問に9・7%が「はい」と回答したそうです。ふざけて回答した子どももいるのでしょうが、約一割の子どもが死者の再生を信じているという事実には驚かされます。2006年から2007年にかけて、子どもの自殺が多発していただけに恐ろしいアンケート結果であると言えます。子どもの心の中で生と死の区別がつかなくなるような傾向をゲームなどの影響というだけで片付けられません。
子どもの感覚でいうところの「生き返る」には来世のような感覚があるように思えます。巷でまことしやかに説かれる来世もしくは前世──もっと具体的に言えば、細木数子氏や江原啓之氏がテレビで喋る、まことしやかな死後世界であったり、霊魂観──が、子どもたちの精神に悪影響を及ぼしているように思えます。数年前、テレビ業界のやらせが問題になりました。やらせ≠ニいう面では細木氏や江原氏の番組も同じです。根拠のない占いや霊界体験といったものを放送するときは「これはフィクションです」と表示し、バラエティ番組として放送するべきです。
 来世や前世は仏教の考え方であると言われる人がおられます。果たしてそうでしょうか。インドの社会は釈尊が生きられた二五〇〇年前も今も、基本的な構造に違いはありません。カースト制度と言われる厳しい身分制があります。バラモン(聖職者)、クシャトリア(王族)、バイシャ(市民)、スードラ(奴隷)の階級と、その階級の外にいるアウトカーストと呼ばれ厳しい差別を受けている人がおられます。この階級は生まれながらに決まるのですが、これの根拠となるのが「前世の業」なのです。今、生きている自分に責任のとりようもない前世の善悪によって、今の社会的身分が決まったということです。そして、前世の業を受け継ぐものを「アートマン」といいます。これがいわゆる霊魂であり、中国語で「我」と訳しました。
 これに対して釈尊の覚りは、我々はご縁によって存在するのであり、永遠不滅にある霊魂のようなものは存在しないというものです。つまり「アートマン」を否定したわけです。これを「無我」といいます。そして、身分制度に対しては、「人は、生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによって高貴な人となるのでもない。行いによって賤しい人ともなり、行いによって高貴な人ともなる」(『スッタニパータ』)という態度をとられました。  「無我」を根本とする仏教において、霊魂のようなもの一切、来世前世など説くはずありません。
 釈尊の説かれた真理を教えとして聞くということは、真理に背いて生きている自分を知るということです。人間は弱い者ですから、いつでも色々なものに迷います。真宗門徒の先達は、仏教の教えを聞くことで、自分は弱き者であり迷う者であるという事実を確かめてきたのです。その生き方は、自分の弱さに無自覚であり、迷う自分に気付かない生き方とは全く逆の生き方なのです。
 子どもは大人を映す鏡。テレビが放送するまやかしに無自覚に振り回されている大人の姿が子どもにどのような影響を与えるでしょうか?

■ 耳をすませば ■
『世帯念仏〜特選!!米朝落語全集 第三十二集』
──(落語:桂米朝/CD,東芝EMI)──
 落語の起源は仏教の説教であるという説もあるほど、落語と仏教は縁の深い関係にあります。しかし、落語のなかでお坊さんとか寺、仏教が出てくると揶揄の対象になることが多いようです。にわか坊主の噺である『蒟蒻問答』、知ったかぶりの住職を笑う『転失気(てんしき)』等々。
 上方落語の『世帯念仏』(江戸落語では『小言念仏』)は僧侶や寺院ではなく、世俗化した仏教儀式そのものを笑う噺です。ある家のある朝、その家の亭主が仏壇の前で朝のお勤めをしている。「なむあみだぶ、なむあみだぶ」。機械的に繰り返される念仏の間に亭主の小言が入るわけです。「仏壇の花はいつ変えたんや」「飯が焦げてるやないか」「お前、あの豆腐屋のオヤジと怪しぃんとちゃうか」。最後にはドジョウの料理の仕方を指南しはじめます。「鍋に生きたままのドジョウを放り込むねん」、つまりお勤めをしながら殺生している…。
 仏教儀式が世俗化し、その内容を問わなくなり形骸化している状態を、ブラックユーモアで表現しているわけです。こういったかたちで仏教儀式の形骸化を放置しておくと、仏教儀式そのものが無くなるのではないかと思われます。形が残っている間に、意味を回復する必要性があるのです。

 

■ コラム ■
触れるまでもなく先のことが
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋を
随分続けてきたね
胸の痛み 治さないで
別の傷で隠すけ
簡単にばれてしまう
どこからか流れてしまう
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい
寄り掛からなけりゃ側に居れたの?
気にしていなければ
離れたけれど今さら今さら
無理だと気づく
笑われて馬鹿にされて
それでも憎めないなんて
自分だけ責めるなんて
いつまでも 情けないね
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出
──中村中『友達の詩』より──
 『友達の詩』は適わない恋を歌った切ない歌。この曲を作り、そして歌っておられるのは中村中(なかむら・あたる)さんである。ご存知の方もあると思うが中村さんは性同一障害である。つまり戸籍は男性だが心は女性なのだ。ご自身で語られていることだが、中村さんは随分いじめられたそうだ。
 そういう視点で『友達の詩』の歌詞を聴くと、切ない恋愛の歌の奥にある人間としての苦悩を感じることができる。戸籍上の男性が男性を好きになる。この恋は成就する可能性が非常に低い。それだけではなく、恋が周りに発覚した時点で嘲笑、侮蔑、ときに差別を生み出すこともあったかもしれない。彼女は人を好きになることで傷付いてきたのであろう。人を好きになることがそのまま自分を傷付けるとは何と切ないことであろう。彼女を傷付けてきたのは、彼女の周りにいた人間ではない。世の中にある常識∞当たり前≠ェ彼女を傷付けてきたのだ。
 我々は、私の常識や当たり前が、無邪気に無意識にマイノリティを傷付けているなどと考えもしない。踏み付けている足の下で涙を流す人がいても、私の常識や当たり前を疑うことがないから、この自分を問い直すこともしない。我々は、自分が踏み付け、傷付けている人の涙に宿る悲しみに出会い得て、人は自分の相に覚めることができるのであろう。我々の閉鎖性は、我々が無意識に作った枠から追い出された人と出会うことで破られるのではないだろうか。

■ TrueLiving ■
覚の会7月例会講話録(2008/07/19)
──三品正親師(守山市・蓮生寺)──
 今月、学ばせていただく親鸞(しんらん)聖人のお言葉は「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」です。です。これは非常に重い言葉でありまして、これを簡単に言えば、他のことは全て棄ててしまってお念仏だけに帰依いたしますという意味になります。
 親鸞聖人は9歳から29歳まで20年間比叡山で仏教を学ばれました。当時、延暦寺は今で言う国立大学ですから、高度な学問が学べます。また厳しい修行をする場所でもありました。親鸞聖人も比叡山で難解な仏教教義を学び、修行をされたことでありましょう。しかし、学んでも行じても煩悩を消すことはできませんでした。どうすることもできず、京都の六角堂に籠もられました。そこで夢の告げにあい、京都の吉水というところで民衆に教えを説いておられる法然上人のもとに行かれます。親鸞聖人が法然(ほうねん)上人からどのようなお話を聞かれたかは分かりません。おそらく、自分の力では煩悩を断つことができないと言う親鸞聖人に、自分の努力で成仏する道ではなく、阿弥陀仏の本願によって救われる道を示されたのでしょう。どうにもならない自分をどうにかするのではなく、どうにもならない自分であると目覚め、どうにもならないまま救われる道があると感得されたのです。
 このときの親鸞聖人の頷きが「雑行を棄てて本願に帰す」でした。この言葉は親鸞聖人が後に書かれた言葉です。29歳のあのとき、20年間学び、行じてきたことを一切棄てて、本願に生きようと選んだのだと言われたわけです。それではこの親鸞聖人の言葉が我々とどのように関係あるのでしょうか。
 我々も真宗門徒(もんと)を名告っています。しかし親鸞聖人と同じく「雑行を棄てて」という生き方はできていません。むしろ雑行を拾い集めて生きています。法然上人も親鸞聖人も息をするが如く念仏されたそうです。つまり生活そのものが念仏だったのです。親鸞聖人の死に際の姿は「念仏の息たえましましおわりぬ」だったそうです。我々の念仏はどのような念仏でしょうか。念仏を称えて何か良いことがあるなら念仏でもしようということではないでしょうか。
 我々は雑行に振り回される生活をおくっているように思えます。葬式になると、清め塩、茶碗割り、友引を気にする、三月またぎの中陰を気にする等々、死を穢れとしたり、死を否定する迷信に振り回されます。都合の悪いことだけを否定するのが私です。死も私の中身であるのに、死を恐怖し、死に苦悩するのが我々です。如来は死の恐怖を無くするのではなく、死に苦しむ私のすがたを知らせ、そのまま救って下さるのです。
 我々は自我分別をもっておりますから、人生の良いことは受け容れるけれど悪いことは受け容れられません。だから雑行に振り回されるのです。そういう生き方ではなく、「雑行を棄てて本願に帰す」、お念仏に生きるということは、良いことも悪いことも全てこれが自分の人生であると引き受けて生きるということなのです。

■ 耳をすませば ■
『どうぶつたちへのレクイエム』
──(著:児玉小枝/日本出版社)──
 『どうぶつたちへのレクイエム』は可愛い犬や猫のフォトエッセイです。ただ、ここに写っている犬猫は全て死んでいます。いや、殺されています。なぜならこの写真は、動物収容施設に連れてこられ、「殺処分」を待っている犬猫の最後のポートレートだからです。
 私の実母は保健所に勤務していました。子供の頃、母親の仕事場でみた殺されることを待つ犬の目を未だ覚えています。その頃の殺処分を待つ犬の多くは野犬でした。現在は野犬というより、明らかに人間に飼われた形跡がある捨て犬の捕獲が多いそうです。また、何らかの事情で飼えなくなったペットを、ここへ持ち込む飼い主が増えています。ここに連れてこられたなら、次の日に炭酸ガスで苦しみながら窒息死させられることを知っているのに。
 このフォトエッセイの最後のほうには「処分室」のスイッチの写真があり、最後は「慰霊碑」の写真でした。現在、年間に犬が約16万匹、猫が約27万匹が「殺処分」されているそうです。人間の都合で飼われ、人間の都合で溺愛され、そして人間の都合で殺されている犬猫の目を、我々は真っ直ぐ見ることができるでしょうか。

 

■ コラム ■
無明ということは、
何も知らないということではない。
わかっているという心が
一番暗いのです。
──宮城師──
 中国の唐の時代、杭州(こうしゅう)に道林(どうりん)という禅僧がおられた。道林禅師は禅を極めるため高い木の上で座禅を行ずることが多かったから「鳥彙(ちょうか/鳥の巣)道林」とも呼ばれ、多くの人の尊敬を集めていた。道林禅師が修行なされている頃、白居易が杭州の刺史(しし/県知事)として赴任してきた。白居易(はくきょい)は白楽天とも呼ばれる優秀な政治家であり詩人であり、当代一流の文化人であった。
 杭州に来た白居易は高名な道林禅師に会いに行くことにした。白居易は尋ねる。「つまるところ仏教とはどのような教えなのですか」。道林禅師は答える。「悪いことをせず、善いことをせよ、という教えだよ」。これを聞いた白居易は大笑いし、「そんなことは三歳の子どもでも知っていますよ」と言った。すると禅師は「三歳の子どもでも知っていることだが、八十歳の老人でも行うことは難しい」と答えたそうだ。
 我々は多くのことを知っている、分かっているつもりで生きているが、最も分からなければならないものを分かっていない。それはわが身≠ニいうものであろう。自分が知り、分かっていることだけを絶対化し、自分の殻に閉じこもっていくわが身のことを、我々は知らないし分かっていないのである。
 「悪いことをせず、善いことをせよ」という仏の教えは悪事をする者を見捨てる教えではない。悪事しかしていない自我中心のわが身に覚めよ、という教えなのだ。

■ TrueLiving ■
永代経講話録(2008/09/23)
──内田文雄師──
 本日は永代経(えいたいきょう)です。お経とは仏様のおしえですね。長い時間をかけて伝わってきた仏様の教えを、未来永代に伝えていくことを永代経と申します。
 私の地元である守山は、五百年ほど前の日本が室町時代であった頃、蓮如(れんにょ)上人が実際にお住まいになっていた場所であります。守山に三年間お住まいにになって、近江の国全域を教化されたわけです。
 守山には蓮如上人に関する伝説が残っています。蓮如上人が教化の旅をされていたとき、昼食のお弁当を食べようと思われ、落ちている木の枝を箸がわりにしされました。そして食べ終わった木の枝を地面に突き刺した。すると不思議なことに地面から木が生えて、大きな柳の木に育ったのでした。これを箸塚といい、現在も守山の赤野井(あかのい)という所に残っております。これは作り話ですよ。こんなことがあるはずありません。この話は何を言いたいのかというと、蓮如上人という方が実際にここにおられて、仏教をここにお伝えくださった。蓮如上人のお伝えくださった仏教を後々の世にまで伝えていきたい。そういう願いを込めて、こういったお話ができたのです。これも永代経≠ナす。受け継いだ教えを更に後々の世の人々にまで伝えていくのです。
 こういった遙か昔から伝わってきたことを私自身が受け継ぎ、次に伝えていくことを「相続」といいます。現代では相続というと遺産や財産を相続するという意味で使われますが、元々相続という言葉は仏教の言葉です。「念相続」「念仏相続」が元々の意味です。念仏を相続するといっても、子や孫にお内仏の前で念仏を称えることを強制することが相続ではありません。そういった形だけのことではない。念仏の心─念仏というのは何を表しているのかを子や孫に伝えていくことが大事な相続なのです。
 『歎異抄(たんにしょう)』という書物があります。親鸞(しんらん)聖人のお言葉を書き留めた語録です。この『歎異抄』のなかに「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という一節があります。善人でさえも救われるのだから、悪人はなおさら救われるのですよと親鸞聖人は仰るわけです。この反対ならば分かりますが、この言葉はおかしいような気がします。ここでいう悪人は犯罪者のことではありません。この悪人は、例えば嘘をつく人、悪口を言う人、肉魚を食べる人などをいいます。さて、悪人とは誰のことでしょうか。ここでいう悪人とは自分≠フことです。良覺寺の本堂におられる人、そして全ての人が悪人なのです。嘘をついたことがない人、他人の悪口を言ったことがない人、命を殺して食べたことのない人はいないはずです。法律を犯し実際に犯罪を行わない者も、人間である限り立派な悪人であると言えます。自分のことを悪人と気付かない善人でも、必ず自分を悪人だと気付き救われる。実は自分が悪人だと目覚めたことが救いなのです。
 阿弥陀様のはたらきによって自分自身の本当のすがたに目覚めるはたらきが念仏の心なのです。どうか仏の教えを通して念仏を相続し、後の世にお伝えください。

■ 耳をすませば ■
シリーズ宗祖旧跡〜親鸞聖人蕎麦喰いの像『法住寺』
──(東山区法住寺三十三間堂廻り町655)──
 親鸞(しんらん)聖人は、九歳から修学修行をされていた比叡山延暦寺において、自らが迷いから離れられないことに苦悩されました。そして同時に、一切の人々救済する教えに出会えないことに自分に対する絶望感を抱かれていたことでしょう。歩むべき道の見つからぬまま二十九歳になられた親鸞聖人は、今一度自分の往くべき道を聖徳太子の教えに聞き直そうとされます。聖徳太子の建立と伝えられる京都の烏丸六角にある頂法寺、俗に言う六角堂に百日間参籠──つまり通うことを決意されたのでした。
 親鸞聖人六角堂参籠に関して面白い寓話があります。親鸞聖人が六角堂に参籠していることが延暦寺の先輩僧侶にばれてしまいました。ある日、師匠から深夜に蕎麦を振る舞うお達しがありました。先輩僧侶は親鸞聖人が夜な夜な比叡山を抜け出していることを罵ろうと思いましたが、いないはずの親鸞聖人が蕎麦を食べていたのでした。このとき蕎麦を食べていたのは、親鸞聖人自身が自分の身代わりにと彫った木像だったのです。
 京都東山にある法住寺には「親鸞聖人蕎麦喰いの坐像」が安置されています。蕎麦喰い像は比叡山の無動寺谷大乗院にもあります。

 

■ コラム ■
りょうし・あき人、さまざまのものは、
みな、いし・かわら・つぶてのごとくなる
われらなり
──親鸞聖人──
 浄土真宗の宗祖である親鸞(しんらん)聖人の生き方と他の仏教の祖師達との決定的な差異は何であろうか。それは他の祖師達が出家という場所で生きられたのに対し、親鸞聖人は在家という場所で仏法を聞く生き方をされたことである。
 出家・在家の家≠ヘ家庭や家族といった意味に限定されない。この場合の家≠ニは「関係」という意味である。出家仏教は関係を絶つことからはじまる。夫婦、親子、親戚、隣近所、友人等の関係を絶ち、一個人となって自分の生死の問題を問うのが出家である。それに対して在家は関係を保つのである。夫婦、親子、親戚、隣近所、友人等の関係を保ちつつ、関係によって生じる苦悩を、仏法に聞いていく生き方を「在家仏教」という。
 我々人間の特徴は「自分の思い」を中心にしか生きられないということである。自分の思い通りになることは受け容れ、そうではいものは受け容れない。人間が関係を保つということは、思い通りにしたいと欲求する者が二人いるということ。お互いの思いと思いがぶつかり、関係がギクシャクし、その関係が苦悩となる。
 我々は関係がうまくいかないとき、原因を外に求める。親鸞聖人の生き方である「在家仏教」とは、どこまでも関係から逃げず、関係を課題にし、関係のなかで問われた自分を仏法に聞いていく生き方なのである。実はこの道は出家という在り方よりも、難しいのである。

■ TrueLiving ■
覚の会9月例会講話録(2008/09/19)
──治田義章師(大津市・善念寺)──
 今月は『御伝鈔(ごでんしょう)』のお言葉を学びたいと思います。『御伝鈔』とは報恩講の初夜に拝読される、親鸞聖人の生涯を親鸞聖人の曾孫である覚如(かくにょ)上人が記された文書です。その『御伝鈔』のなかの「そもそもまた、大師聖人 源空(げんくう) もし流刑に処せられたまわずは、われまた配所に赴かんや、もしわれ配所におもむかずは、何によりてか辺鄙の群類を化せん、これ猶師教の恩致なり」という言葉です。
 親鸞聖人は延暦寺での20年間の御修行の後、法然上人のもとで学ばれていました。そのなかで、承元元(1207)年、親鸞聖人35歳のときに法然上人の教団は当時の朝廷から弾圧をうけました。法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ御流罪、また親鸞聖人と同輩のお弟子には死罪に処せられた方々もおられました。これを「承元の法難」といいます。『御伝鈔』のお言葉は親鸞聖人が承元の法難を振り返って仰った言葉だといわれています。「もし師匠法然上人が流刑になることがなかったなら、私親鸞も流罪にあうことはなかったであろう。もし私が越後に流されることがなかったならば、どうして辺境の人々にお念仏の教えを伝えることができたであろうか。そう考えると、これも師匠法然上人のご恩であったのだ」。承元の法難そのものに対して親鸞聖人は「法に背き義に違し」たことだとされますが、流罪によって辺境に流されたことは師恩と受けとめられているのです。
 私はこのお言葉が「縁起の法」を教えてくださっていると受けとめました。縁起とは因縁生起という言葉の略です。これは世の中の全ての事柄はお互いに関わり合って、生まれたり消えたりするという意味です。例えば花は何故咲くのか。まず種が無ければなりません。これが因≠ナすね。しかし種だけあっても花は咲きません。土や水、光といった条件、台風が来ないとか日照りが続かないという条件が整って花は咲く。その条件が縁≠ナす。花が咲くことが果 です。この因縁果を縁起の法といいます。
 親鸞聖人が越後への流罪を師恩であると言われるのは、流罪をお念仏の御教えを仏法と縁遠かった辺境の方々に伝える縁と受けとめられたからでしょう。  私は副住職ですが、昨年から住職の声の調子が悪くなりました。それまで私は月参り、住職は年忌や中陰と役割分担をしていたのですが、それ以来全て私がお参りに行くことになりました。つまり、法話をしなければならない機会が増えたわけです。私は喋ることが苦手なので法話を避けてきましたが、そうもいかなくなりました。住職の病気によって、私は自分が拒否していた法話という現場に引き出され、御門徒や自分の聞いてきた仏法と向き合うことになったわけです。
 私たちは自分に都合のよいことが起こったときは「おかげさまで」と言えますが、都合が悪いことが起これば「なぜ私だけが」となってしいます。それを、出来事出来事をバラバラに見ているからかもしれません。自分に都合がよいことも悪いことも、一つでも欠けたなら今も自分はいません。全てのご縁が私になってくださったのです。

■ 耳をすませば ■
『泥の河』
──(監督:小栗康平/東映/1981)──
 仏教は我々人間が生きる世界を「娑婆(忍土)」、つまり堪え忍ばねばならない世界と見出しました。これは人間は本質的に苦悩を抱えたものであることを教えているのでしょう。映画『泥の河』は、少年が人間は苦悩する存在であることに目覚めていくことがテーマなのだと思います。
 『泥の河』の舞台は昭和31年。経済成長から取り残された、大阪湾にそそぐ安治川沿いで暮らす人々が主な登場人物です。主人公は川沿いで食堂を営む夫婦の一人息子。この少年が対岸に繋がれたみすぼらしい船で暮らす姉弟と交流をはじめます。この姉弟の暮らす船は、実は売春をする廓船でした。天神祭の夜、主人公の少年ははじめて宿船に遊びに行きます。そして、その時、姉弟の母親が売春婦として客をとっている姿を見てしまったのです。次の日、誰に告げることもなく逃げるように廓船は出ていこうとする。少年は友人の名前を呼びながら、いつまでも船を追いかけるのでした。
 友人である姉弟をそのまま受け容れることができなかった自分。そんな自分を察して別れていく家族。主人公は苦悩≠ニいうことを、はじめて自分自身の人生と結びつけたのだろうと思います。

 

■ コラム ■
柚の大馬鹿
18年
 「桃栗三年、柿八年」。桃や栗は実を付けるために植えてから三年かかる、柿は八年かかる。人間も資質やご縁によって、それぞれ一人前になるまで年数が違うという意味である。それでは「桃栗三年、柿八年」の後に「柚の大馬鹿十八年」という言葉が続くのをご存知だろうか。
 柚という木は成長が遅い。植えてから十年実を付けないのは当たり前、二十年も実を付けない木があるそうだ。ところが実を付けない柚の木に接ぎ木をすると、実を付けることがある。柚はあまりにも実を付けるまで時間がかかりすぎて、自分が柚であることを忘れている。接ぎ木をすると、自分が柚であったことを思い出すのだそうだ。
 我々は人間として生まれ、人間として生きてきたつもりでいる。果たして、自分が人間であることを覚えているだろうか。植物や動物は迷うことなく、そのいのちを生きている。犬は犬として、花は花として、そのいのちを受け容れて生き死ぬのである。ところが人間だけが、この身をいのちの願いそのまま生きることができない。この身に迷い、悩み苦しむのである。
 実はこの苦悩こそが、人間が人間であることを思い出させてくれる接ぎ木なのではなかと思う。自我分別中心に生きている故に、この身をそのまま受け容れられない。これが私という人間なのだ≠ニいうことが苦悩というかたちをとって思い起こされるのである。

■ TrueLiving ■
報恩講講話録【前編】(2008/11/15.16)
──岸本惠師(東近江市・敬圓寺)──
 親鸞(しんらん)聖人が比叡山延暦寺で修行されていた二十六歳の頃の話です。親鸞聖人が用事で京都に行かれ比叡山に帰ってこられる途中、赤山神社という所を通りかかられたとき、一人の女性に声をかけられました。女性は「私を比叡山に連れて行ってください」と願い出ます。親鸞聖人は「比叡山は女人禁制です」と応えます。すると女性は「お経には生きとし生きるもの全て仏に成ると書いてあると聞いています。男女、老若、身分の上下を超えて助かる道が仏教ではないのですか。あなたが修行されている、この山のすがたをよく見てください」と詰問しました。この事件が、親鸞聖人が比叡山を下りて法然(ほうねん)上人と会われるきっかけになっていったのではないかと思います。
 仏教には二つの流れがあると思います。一つは「山の仏教」、もう一つは「町の仏教」です。
 滋賀県の寺の多くは副業をしなければならないのですが、一昔前は学校の先生になる方が多くおられました。私は先生になる柄ではないので印刷屋をはじめようと考えましたが、色々な人に寺をしながら商売することは相応しくないと反対されました。この事を和田稠(しげし)という先生に相談したところ、「浄土真宗のおいては、どのような仕事をしても同じである」と言われました。
 町の現実はこのようなことです。色々な人が生きるために色々なことをしています。山はそういった女性やお金儲けをすることを排除し、宗教者だけが残るに相応しい場所を作ります。町に生きていたらお金のこと、人間関係のことなど煩わしいことに出会いますね。我々が肩に背負った色々なものを下ろすことができたら楽になれるのではないか。親鸞聖人の救済はここにあるのではないかと思います。テレビに出てくる霊媒師などは、人間に問題があれば問題を無くして元に戻そうという発想をします。そうではなくて、現に背負っているもの─名利や家柄などを下ろすことからしか、人間は始まらないのではないでしょうか。
 作家の高史明さんが中学に入学した息子に言われました。「これからは責任を持って自分で行動を取るようにしなさい。他人に迷惑をかけないようにしなさい。そうすればこれからは干渉しない」。その後、高さんの息子は自殺されますが、自殺された後で自分の言った「他人に迷惑をかけないように」という言葉の間違いに気がついたといいます。人間は関わりのなかで人に迷惑をかけながら生きています。もし迷惑をかけずに生きようと思えば、山に籠もるしかありません。私は山の仏教と言っていますが、これは心をきれいに、人間をきれいにしようとして生きようとする我々の有り様なのです。町の仏教──親鸞聖人の仏教は人間は迷惑をかけずに生きていけないのだということを知って、人間として支え合って生きていこうという教えです。
 町の仏教が浄土の仏教です。これは難解な教えではなく、人間はきれいなものではない、人に迷惑をかけなければ生きられない者であると自覚し、身近な人と拝み合う関係を身近な人間関係のなかで築き合っていけるのかということを教えられているのです。【続】

【中編へ】

■ 耳をすませば ■
『狼に育てられた子──カラマとアマラの養育日記』
──(福村出版/J・A・L・シング著/中野善達・清水知子訳)──
 人間とは何かと問われたら、答は多岐にわたると思います。私は、人間とは「教えられる者」であると言えると思います。人間とは教えられる者であるということを教えてくれる逸話が「狼に育てられた少女」なのです。
 一九二〇年、インドで狼に育てられた二人の少女が発見されました。この少女達をジョセフ・シング牧師が保護し、カマラとアマラという名を付けました。この牧師が残した少女達の養育日記が『狼に育てられた子──カラマとアマラの養育日記』です。
 保護された少女達は、四足で歩く、生肉を食べる、遠吠えをする等々、正に狼の習性をみせました。シング牧師は少女達を何とか人間≠ノしようと教育をし、二足歩行まで三年、三〇ほどの単語を発するまで六年、文章を発するまで七年かかりました。そして、最後まで悲しみや喜び、ユーモアといった「感情」を表現することはできなかったそうです。
 人間は無意識なかたちで、様々なことを「教えられて」います。狼に育つように教えられれば狼にもなるのです。効率化が優先される現代社会で、役に立つ・役に立たないということを重要視して教えていくと、人間は人間になるのか、それとも機械になるか・・・。




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