◇ コラム ◇

法然上人は、何の教養もない人が来るのを見て、「必ず往生するに違いない」と微笑まれました。学問を修め、いかにも賢そうな人がやって来ると、「往生はどうであろうか」と言われたのを、確かに承りました。
親鸞聖人のお手紙より

 八万四千あるというお経も、そこに私が救われていく教え≠見出さなかったら、ただの文字の羅列である。お経のなかに見出した、本当に自分が救われていく教えを宗≠ニいう。仏教が宗派に分かれるのは、各々が救われる教え(宗)が違うからである。そして、その宗は門≠ニいうかたちで、世間に公にされる。門は、そこから入ることができ、そこを出て外に向けて歩み出すことができる場所である。だから、教団のことを宗門というのである。
 法然(ほうねん)上人当時の既成教団の門には門番がいた。「その教えを聞きたいのですが」と門の前に来ても、「家族のある者は入ることができない」と追い出される。「字が読めない、女である、過去に罪を犯した、身分が低い」と資格を問い条件を付け、ふるいにかけられるのである。
 法然上人は教えを聞くことに、条件や資格を問われなかった。浄土の教えを聞くことで大事なことは「機(き)」であると言われたのである。「機」とは、苦悩し生きることに迷う人間の心である。人間の苦悩や迷いが表に出て、じっとしておれない時こそ、浄土の教えを聞く機が熟したと言われるのである。
 法然上人は学問沙汰する人を救われないと言い、物を覚える気がないが真摯に聴聞されている人を救われると言い切られた。救われると言われた人々は、全身全霊をかけ自分自身の苦悩を、法然上人の教えに聞いておられたのである。




 ◇ TrueLiving ◇

覺の会講話録
──治田義章師──
〜滋賀県大津市大萱・善念寺〜
(2010/09/17)


 最近、児童虐待事件が多数起こっています。あまりに何度も起こりますから、前に起こった事件を忘れてしまうほどです。しかし、その中で頭から離れない事件が起きました。
 それは今年の七月、マンションで三歳の女の子と一歳の男の子が部屋の中に閉じ込められ、母親が帰ってこず、亡くなっていたという事件です。これは本当にひどい事件でしたから、忘れられません。発見されたときは亡くなって何週間も経って、体が腐っている状態でした。母親は逮捕されましたが、「子育てが嫌になった。自分の時間が欲しい」と言っているそうです。何という母親なのかと、日本中の人が思ったのではないでしょうか。これはネグレクト(育児放棄)というかたちの虐待ですね。七月の暑い時期に冷房もない、食べ物もない、ゴミが散乱するような部屋で餓死した子どもの絶望感を想像すると、胸が締め付けられるような気持ちになります。
 インターネットには、インターネットを閲覧している人が自分の意見を自由に書き込める機能があります。この事件についての書き込みを見ますと、「ひどい母親だ」というものや、「すぐに死刑にしろ」「同じ目に遭わせろ」という過激なものが目立ちました。この書き込みをしている人の中には、子育ての最中という人も多くありました。そういう方々の視点からみれば、「子育てが嫌になった。自分の時間が欲しい」という、母親のわがままで自分の子どもを殺すなど、言語道断なのでしょう。また、自分は我が子を殺すことなど有り得ないという思いもあるのでしょう。
 この母親も子どもが生まれたときは、嬉しかったと言ってします。子どもが生まれた後離婚し、誰も頼れる人がいない状態で生活しなければならなかったのです。そういった条件が重なって、最悪の結果が生じたのです。
 親鸞(しんらん)聖人の語録である『歎異抄(たんにしょう)』に「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞聖人のお言葉があります。「業縁」とは条件と言い換えられます。色々な条件が重なっていけば、「いかなるふるまいもすべし」、どのようなこともしてしまう、という意味ですね。確かに我々は我が子を殺すようなことをしていません。それは、我が子を殺す条件がなかっただけなのです。こう考えたなら、自分を安全な所に置いて、事件を起こした人だけを責めることができるのかどうか疑問に感じます。
 安田理深(やすだ・りじん)先生は「自己がわからない人は他人を責める。自己がわかった人は他人をいたむ」と言われたそうです。自分は過ちを犯さない善人だと思い込んでいる人は、他人が過ちを犯したときに批判をする。しかし、自分も条件しだいで、過ちを犯す者である、何をするか分からない者であると自覚した人は、過ちを犯した他者をみて、むしろ傷みを感じるという意味でしょうか。他者を傷む心は、悪人というものを自分以外の他者に見ることからは出てきません。仏の眼をいただき、自己とはどのような者かを問い直し、縁しだいで何をするか分からない自己を傷むことがあって、他者を傷むことがあるのです。




 ◇ 耳をすませば ◇

『御絵伝(本願寺聖人伝絵)』
(覚如上人/浄賀法眼・円寂・宗舜)

 真宗門徒は報恩講において、親鸞(しんらん)聖人の教えを大事に聞き直し、自分の一年の生活がどうであったのかを確かめてきました。そして、教えを聞き直すと共に、親鸞聖人の生涯を丁寧にたどり、親鸞聖人の生涯を鏡として、自分自身の生き様を確かめてまいりました。
 真宗門徒は何によって報恩講において、親鸞聖人の生涯を確かめたのかというと、伝統的に『御伝鈔(ごでんしょう)』『御絵伝(ごえでん)』でした。報恩講初夜に拝読する伝記を『御伝鈔』といい、報恩講になれば向かって左の余間に奉掛する四幅の掛幅を『御絵伝』といいます。もとは『本願寺聖人伝絵』という一つの巻物でしたが、絵と伝記に分かれたのです。書かれたのは本願寺第三代・覚如上人です(一二九五年完成)。
 我々の先祖先達は耳で聞いて覚えるほど『御伝鈔』を拝聴され、寝ていても目に浮かぶほど、食い入るように『御絵伝』をご覧になりました。そして、親鸞聖人の生涯を大事にいただいてこられたのです。
 『御伝鈔』は拝聴しますが、『御絵伝』はただ吊っているだけの状態でした。数年前から報恩講には「絵解(『御絵伝』の説明)」を行っております。「絵解」を通して、親鸞聖人の生涯の深淵に触れてください。






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