◇ コラム ◇

聞光力のゆえなれば
心不断にて往生す
親鸞聖人

 ヘレン・ケラーは二歳の時、重い熱病にかかり、命は助かったものの聴力と視力、そして話す力を失った。そのヘレン・ケラーがある手紙に、このようなことを書いている。「耳が聞こえないことは、目が見えないことよりも、より痛切で、より複雑なことです。なぜなら、それは、最も重要な致命的刺激を失うことを意味しているからです」。
 我々の感覚なら「聞く」より「見る」ことが刺激になると思うが、ヘレン・ケラーは違うと言う。そして別のインタビューでは「心に光が入るのは耳から」と言われたそうだ。
 親鸞(しんらん)聖人の教えに「聞光力(もんこうりき)」という奇妙な言葉がある。親鸞聖人にとって「光」は見るものではなく、聞くものであった。この親鸞聖人の「聞光力」という教えとヘレン・ケラーの言葉は、深く通底しているように思えるのだ。
 光は闇を照らすから光なのだ。親鸞聖人の言われる光は「真実の言葉」という意味である。真実は言葉(教え)となって、我々に届く。そして、自分勝手な思い込みの闇にあって、苦しんでいる我々の生き様を照らすのである。「光を聞く」とは、真実の言葉を聞き、不真実なる自分に出遇うということなのだ。
 自分勝手な思い込みの闇が照らし出されたとき、足すことも引くこともいらない、この自分で生きていこうと、一歩踏み出せる。「聞光力」は生きる力なのである。




 ◇ TrueLiving ◇

良覺寺研修会についての提言
──谷大輔──
〜当院住職〜


 良覺寺で行う研修会というと、講師が仏教の事を一方的に話す講演会形式の研修会がほとんどであった。堅い話は苦手だと思われる方は、そういった研修会から足が遠のくこともあっただろう。
 六月十四日、良覺寺門徒会主催で「仏華研修会」を開催した。最近は「仏花は花屋で買うもの」と思われている。しかし当たり前のことであるが、昔から仏花は自分の手で立ててきた。花屋で買う仏花を味気なく思い、今でも自分で立てられる人は多い。そういった方々のなかで「仏花の立て方を学びたい」という声が聞こえてきた。大谷派の仏花は池坊である。仏花の基礎を学んだ後、自分なりに立てたいというわけだ。その声に応えるかたちで開催したのが「仏華研修会」である。参会者も思いのほか多く、講師を招いて立て方を学んだ後、自分で花を立てる形式が好評を得た。今後も「仏華研修会」は継続していく予定である。
 良覺寺においても仏教の教えを学ぶだけでなく、色々なテーマや形式で研修会が行えるということを、改めて感じさせられた。そこで現在、良覺寺門徒から「このような研修会を開催して欲しい」と声があがっているもの、また良覺寺住職が提案したいものを列挙してみたい。
 まず「葬式」をテーマにした研修会。最近の葬式は膨大な金がかかる。葬儀会社主導で勤まるため、購入する必要のないものまで売りつけられている場合もある。決められている大谷派の葬儀のかたち(祭壇や中陰壇の形式)を学び、そのことを通して現在の葬儀の問題点を点検し、今後の葬儀の有り様を考える研修会はどうだろうか。講師が一方的に話すのではなく、座談会や協議会形式で行い、参会者が自由に発言できるほうが面白いかもしれない。また葬式だけでなく、「法事」「お斎(法事の後の食事)」の有り様を考える研修会もいいと思う。
 次に「お勤めの発声方法を学びたい」というニーズもある。『正信偈』等の節に則った発声を「声明(しょうみょう)」というが、そういったことをしっかり学びたいということである。住職の声明には我流が入っているので、講師をお招きする必要がある。
 また「真宗として教育、子育てをどう考えるのか」という質問を多く受ける。大谷派には宗門の関係学校があり、真宗の教えを聞きつつ教育や保育を実践されている方々が多くおられる。そういった先生方の話を聞くこともいいだろう。
 仏教以外の宗教について学ぶ研修会もいいと思う。国際化がすすみ他宗教を信仰する外国人と会うことがあるが、信仰が理解できないという声を聞く。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教等の概要を学ぶことも意味がある。
 近江第二組や湖南地区で行っている研修として「差別問題、人権問題」がある。社会問題としての差別の問題を学ぶだけでなく、自らの差別心を掘り起こす研修ができれば、真宗寺院である良覺寺で開催する意味がある。
 他の寺が行っていることであるが、「聞法旅行」、「写経会」、「数珠作り研修会」、「仏壇制作現場視察」といったことも可能である。  これら全部を開催するというのではない。あくまでも提案である。もし、「こういった研修会を良覺寺で開いて欲しい」という要望があれば、住職、坊守、総代に気軽に声をかけて欲しい。当たり前であるが、良覺寺は良覺寺門徒のためにあるのだから。




 ◇ 耳をすませば ◇

『戦争は罪悪である─反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』
(著者:大東仁/出版社:風媒社)

 蓮如(れんにょ)上人の時代から、真宗門徒には特徴がありました。その人が「私は門徒です」と名告る前に、その人の生活をみれば、その人が真宗門徒だと分かったのです。親鸞(しんらん)聖人の教えが生活習慣になり、生き方となっているような人。これが我々の先祖である真宗門徒だったのです。
 アジア太平洋戦争の時代、国策に反対できない世論が作られ、日本国民のほとんどが戦争に疑問を持ちませんでした。殺生を禁ずる仏教教団といえども戦争に反対することはなく、逆に積極的に戦争協力を行っていました。真宗大谷派もそうです。その時代、岐阜県に竹中彰元という大谷派寺院の住職がいました。
 竹中師はその時代にあって、「戦争は罪悪である。同時に人類に対する敵である」と言い切ったのです。投獄され、拷問を受けるかもしれません。それを覚悟で竹中師は数回にわたって戦争反対の言葉を繰り返しました。結果、警察に捕まり有罪になり、大谷派は竹中師を懲戒処分したのでした。
 大東仁氏が書かれた『戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』という書物があります。どのような時代でも、親鸞聖人の教えに生きた真宗門徒のすがたが、そこに書かれています。






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