◇ コラム ◇

七宝講堂道場樹
 方便化身の浄土なり
 十方来生きわもなし
 講堂道場礼すべし

親鸞聖人『浄土和讃』


 誰しも良覺寺は「寺」であると認識しているだろう。しかし、この「寺」とは何かのか、我々の中ではっきりしているだろうか。
 「寺」をジ≠ニ読む場合、その意味は「役所」を表す。漢の時代、西域より二人の僧侶によって中国に経典がやってきた。経典は白馬に載っていたという。当時の外務省を鴻臚寺といい、僧侶はしばらく鴻臚寺に留まったが、後に僧侶を住まわせ、経典を安置する場所が建てられた。その建物は、経典が白馬に載って来たことにちなんで白馬寺と名付けられた。それ以来、中国では仏教に関する建物を「寺」と呼んだ。
 「寺」をてら≠ニ読む場合、それは朝鮮語の「チョル」の訛りであると言われる。「チョル」は「拝む」という意味。つまり、御本尊を安置し礼拝する場所が「寺」なのである。
 そして、真宗の寺は寺を名告る前には「念仏道場」を名告っていたのである。本来「道場」はお釈迦様が覚られた場所という意味であるが、覚りを求める場所という意味が加わった。特に真宗門徒は道場において、お念仏の教え聞き、自身の人生の一大事を問うていたのである。
 良覺寺は寺であると同時に道場である。「寺(ジ)」として経典に出会い、「寺(てら)」として御本尊と真向きになり礼拝する場所である。そしてその根本には、「念仏道場」として、苦悩多い私の人生をお念仏の教えに問うていく場所、という存在理由があるのである。




 ◇ TrueLiving ◇

永代経講話録
──藤川秀行師──
〜滋賀県日野町野出・託仁寺〜
(2009/09/23)


 他宗派の永代経(えいたいきょう)は亡くなられた方の為に勤めます。しかし、浄土真宗の永代経は、あくまでも生きている我々が永代経という場で教えを聞くという意味があります。とは言え、これまでの人生の中で大切な人と死別してこられたことが縁となって、この永代経法要に足を運んだということがあると思います。そこで、本日は亡くなった方の供養ということを皆さんと共に考えたいと思います。
 ある方が供養ということを考えるとき、大切にしなければならないことが三つあると言われます。その一つ目が「忘れない」ということです。それは亡くなった方の功績などの客観的なことを忘れないということではありません。その人の息遣い、何を思い、何に悩み生きてこられたかを忘れないのです。その人の人生は掛け替えのない唯一のものだったということ、その人を知る人が覚えていかないと、本当にその人が生きたということが残っていきません。そして、覚えていることを「語り継ぐ」ことが大事になってきます。これが二つ目の意味です。
 二年前に祖母が亡くなりました。生前祖母のことをしっかりと考える余裕はありませんでしたが、亡くなってから、祖母の生涯をおもんみるということがありました。供養の三つ目の意味として「そこから新しい関係が始まる」ということがあるのです。生身の人間関係では通じ合わないこともあります。立場や見栄といった色々なものが邪魔をして、夫婦や親子の関係にしても、なかなか分かり合えない。その分かり合えなかった関係が、死を通して開かれることもあるのです。
 大切な人を亡くしたときの供養として大事なことを三つをあげました。よく考えてみれば、親しい人を亡くして供養をしよう、もしくは何かをしようと思わずにおれないのは人間だけです。他の生き物にはそういった感情はないでしょう。人間だけが大事な人を亡くしたということを、そのまま受けとれないのですね。だから供養ということをし、悲しみを乗り越えようとするのですが、事実を受けとめられない。このことが人間の持っている課題です。
 大切な人を亡くしたとき、大切な人が死んだという事実が苦しみなのではありません。大切な人を亡くした事実を受けとれないことが苦しみなのです。事実を事実として受け容れられない自分自身を、自分の力ではどうすることもできず、その自分を引き受けることができない。ここに人間の苦悩があるのです。これが人間というものが抱えている根源的な問題ですね。これを仏教では「老病死」といいます。我々の身は事実として、老い、病になり、そして死んでいく。この事実を受け容れることができないのです。
 自分自身で自分を受け取るということは難しいことです。我が身に迷うということは特別な問題なのではなく、我々人間一人ひとりが抱えている問題です。一人ひとりに通底している人間の問題なのです。実はここに我々が教えを聞かなければならない、念仏もうさなければならない根拠があるのです。実は我々が人間であるかぎり必ず抱えている苦悩の根っ子を、仏の教えに聞いていかねばならないのです。




 ◇ 耳をすませば ◇

シリーズ宗祖旧跡『玉日君御本廟』
(茨城県笠間市稲田)

 親鸞(しんらん)聖人は二九歳から三五歳まで、法然(ほうねん)上人のもとで教えを聴聞する生活をされました。親鸞聖人の伝記は多々ありますが、『親鸞聖人正明伝』という伝記には、親鸞聖人は法然上人のもとにおられたときに結婚されたと記されています。
 『正明伝』によると、法然上人の「出家在家の区別なく救われていくすがたを身で示せ」の教授に従い親鸞聖人は結婚されました。相手は九条兼実の七女である玉日(たまひ)であると言われます。この玉日姫が恵信尼(えしんに/文書の残る親鸞聖人の妻)であるという説もあります。
 親鸞聖人の結婚は家の仏道の具体的なすがたでした。出家の仏道はあらゆる関係を絶ち自らを深く見つめる仏道です。在家の仏道は、親子や夫婦などの人間関係、また世間との関係のなかで問われる自分自身を仏の教えに聞いていく仏道です。親鸞聖人の歩まれた道こそ、在家止住の我々の救済の道があるのです。
 その玉日姫の墓所が茨城県笠間市に「玉日君御廟所」としてあります。また他にも、玉日・恵信尼の墓所とされるものとして、新潟県上越市に「恵信尼公廟所」、茨城県結城市に「玉日姫の墓所」、 京都市伏見区深草の西岸寺に「玉日姫君御廟所」があります。






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