◇ コラム ◇

ただこえにいだして
念佛ばかりをとなうるひとは、
おおようなり。
それは極楽には往生せず。
この念佛の
いわれをよくしりたるひとこそ、
ほとけにはなるべけれ。
蓮如上人


 浄土真宗の法話を聴聞した後、拍手に遭遇する機会が増えた。講演会などを聞き慣れている現代人は、話し手への賞賛を拍手で表現するし、仏法聴聞の場所においても、拍手に違和感を感じない人の方が多いのも事実であろう。
 こういった現状を踏まえて、仏教研修会などの主催スタッフについたとき、「仏法聴聞の後は拍手はしないでください。聴聞の後は念仏を称えてください」とアナウンスすることもある。そこで、ふと自分自身の言葉の意味を考えてみる。「なぜ念仏を称えるのか」、と。
 阿弥陀仏は、我々人間がいかに救われがたいかを見通して、その我々を救う行として「我が名を称えよ、南無阿弥陀仏を称えよ」と念仏を与えてくださっている。阿弥陀如来という真なるはたらきそのものが、真にうなずけと名告りをあげ、呼び掛けてくださっているのである。
 仏法を聴聞するとは、なぜ阿弥陀仏の本願が建てられたのか、なぜ阿弥陀仏は我々に念仏を与えてくださったのか、という「いわれ」を聞くことなのだろう。本願の「いわれ」、念仏の「いわれ」を聞くということは、阿弥陀仏から救われがたいと見通された人間の問題を学ぶことであり、その救われがたい人間とは誰でもない私であったと頷くことである。
 「なぜ念仏を称えるのか」という問いは、なぜ本願が建てられたのか、誰のために建てられたのかを問うことなのである。




 ◇ TrueLiving ◇

覺の会講話録
──藤川秀行師──
〜蒲生郡日野町・託仁寺〜
(2009/01/14)


 私は三三歳ですが住職になって九年経ちました。実は私は日野町のお寺に養子として入って育ちました。それを知らされたのは十八歳の時でした。それまで、そんなことは全く知らずに育ってきたのです。そのことを聞かされたときはショックでした。それまで疑いもしなかったことを言われましたので、人間不信になりました。それは両親に対する恨みではありません。自分は何故ここにいるのかということを深く悩んだのです。そうこうしているうちに、父親が癌を患いました。見つかったときは手遅れで、一年後に亡くなりました。養子であると聞かされてから亡くなるまでの一年、私は父親とほとんど口をききませでした。それから大谷大学に行きながら、寺の仕事をするようになりましたが、それも嫌で仕方ありませんでした。
 どうやってみても、寺で育ってきた、これから寺で生きていくということが、私は受け容れられなかった。自分というものを受け止められなかったのです。寺を継ぎたくない、私の生きる所は別にあるはずであるという思いがありましたし、それは今でも続いていることです。
 これは私の問題を喋っていますが、皆さん一人ひとり、自分で自分を受け容れていくことの難しさがあると思います。人生が上手くいっているときは、そんなことを考えもしません。一度何かあれば、─私で言えば、父親が亡くなった、養子で寺に入ったと聞かされた、と自分に都合の悪い自分が出てきたとき、その事実を受けとめられないということがあります。そんなとき、事実から逃げ出したり、他人の責任にしてみたり、自分を誤魔化したくなるのです。
 親鸞(しんらん)聖人に「聖道(しようどう)権仮(ごんけ)の方便(ほうべん)に/衆生ひ(しゆじよう)さしくとどまりて/諸有(しよう)に流転(るてん)の身とぞなる/悲願の一乗(いちじよう)帰命せよ」という和讃(わさん)があります。自分が自分らしくありたい、自分が自分として生きていきたいという願いの積み重ねが、皆さんの歩んでこられた道だと思います。しかし、どういうように生きることが自分らしく生きる、自分として生きることなのか分からないのです。だから趣味を持ったり、生きがいを持ち、自分が活き活きと生きようとします。こういうことで自分の人生に意味を持たせたいのです。しかし親鸞聖人は、それは権仮、つまり仮であって本物ではないと言われます。趣味や生きがい全てが「流転」なのです。つまり、流され、転がっていくのです。
 親鸞聖人は流転という言葉の前に「生死(しょうじ)」という言葉を付けられます。生死は生老病死と言い換えられます。自分が生きていくなかで支えになっていたものが、老病死によって流されてしまう。大事に思った事も、自分の経験で獲得してきた大切な事も、その一つ一つが川に流されていくように、流されていくのです。何とか工夫して自分らしく、生きがいをもって生きたいと思っている自分そのものが流転の身、迷いの身であることを、この和讃は教えているのだと思います。
 和讃の最後は、迷いの身だからこそ阿弥陀仏の本願に帰命せよ、念仏もうせと言われます。我々を迷いの衆生(存在)として呼び覚ましてくる、その呼び声が、南無阿弥陀仏という念仏の声なのです。




 ◇ 耳をすませば ◇

『わたし』
(文・谷川俊太郎/絵・長新太/福音館書店)

 以前、三〇代半ばで養子を縁にして入寺し住職を継がれた方の法話を聞きたときの話。入寺された当初、歳も歳だし後がない。何とか追い出されないように、良い住職を演じる日々でした。ある時、お参り先で「私はコーヒーが好きでして」と何気なく仰った。村社会のこと、住職のコーヒー好きは瞬時に広まり、月参りに行く全ての家でコーヒーが出てきたのです。しかし、その人は「良い住職」を演じなければなりませんから、「コーヒーは結構です」が言えない。全てのコーヒーを飲み干して、毎日お腹の調子が悪かったそうです。
 私たちは「私」という存在がある考え、その上で物事を考え行動します。時に、私が思い込む「私」のすがたにとらわれ、そうならねばと自分で自分を縛ることもあるのです。
 「私」という確立した存在があるという錯覚≠仏教では「自性」と言います。しかし本当は、無数のご縁が「私」になっているのですから「無自性」なのです。
 『わたし』という絵本は、「自性」が錯覚であることを、易しい言葉で教えてくれます。「私はこうあられば」という思いで行き詰まったとき、『わたし』を読むと、肩の力が抜けるかもしれません。






to index flame